3月5日の満潮に合わせて、午前8時50分から和田岬にあるM重工神戸造船所で6万トンの船が進水しました。このあたり一帯は、奈良時代から大輪田の泊と言われ、平清盛の時代には宋の国との大型交易船が何艘も何艘も、もやっていたところです。
船の後部を真横のアングルから見ると「機関車トーマス」ではないけど、「運搬船ロザンヌ」とでも言いたいような美しい横顔が見えていました。
船名と諸元は、
船名:“AMETHYST ACE”
全長:200m
全幅:32.26m
全高:34.52m
喫水:9.7m
自重:18,690t
G.ton:60,200t
輸送車数:6,400台
高さ34mはビルで言えば15階建てくらいでしょうか。傍に居ると真っ直ぐに切り立った城壁を見上げているように見えました。“TUG”と書いてある箇所はタグボートが押すポジションを示します。
命名式の動画はこちら
進水式の動画はこちら
船の後部。
このあと見学者が続々集まりました。
シャンパンは運搬船の構造上、船腹のサイドに取り付けられていました。
無事に神戸港に浮かんだ姿です。
大輪田泊:「潮待ちの港の中で、これ程歴史的内容のある、また戦いや戦争、そして災害により廃墟と化しては復興を繰り返して来た港は珍しい。古くは日本書紀に出てくる神功皇后伝説の時代に始まり、奈良時代から”大輪田泊”と呼ばれる良港として栄えた。特に平安時代には平清盛による大輪田泊の修築と中国宋との貿易、福原遷都、そして源平合戦による焼却。鎌倉時代には重源の大輪田泊の修築により、国内第一の港として"兵庫津"と呼ばれるようになった。南北朝時代には湊川合戦の戦場となって再び廃墟と化した。江戸時代には朝鮮通信使や北前船、尾州廻船など瀬戸内海運の拠点として栄えた。 1868年1月1日日米修好通商条約により、神戸港が開港され、交易の拠点としての地位を神戸に譲り、明治以降兵庫津は産業の拠点として発展して来た。太平洋戦争による戦災と復興、そして阪神淡路地震による震災復興と発展している」。webより引用。
船の後部を真横のアングルから見ると「機関車トーマス」ではないけど、「運搬船ロザンヌ」とでも言いたいような美しい横顔が見えていました。
船名と諸元は、
船名:“AMETHYST ACE”
全長:200m
全幅:32.26m
全高:34.52m
喫水:9.7m
自重:18,690t
G.ton:60,200t
輸送車数:6,400台
高さ34mはビルで言えば15階建てくらいでしょうか。傍に居ると真っ直ぐに切り立った城壁を見上げているように見えました。“TUG”と書いてある箇所はタグボートが押すポジションを示します。
命名式の動画はこちら
進水式の動画はこちら
船の後部。
このあと見学者が続々集まりました。
シャンパンは運搬船の構造上、船腹のサイドに取り付けられていました。
無事に神戸港に浮かんだ姿です。
大輪田泊:「潮待ちの港の中で、これ程歴史的内容のある、また戦いや戦争、そして災害により廃墟と化しては復興を繰り返して来た港は珍しい。古くは日本書紀に出てくる神功皇后伝説の時代に始まり、奈良時代から”大輪田泊”と呼ばれる良港として栄えた。特に平安時代には平清盛による大輪田泊の修築と中国宋との貿易、福原遷都、そして源平合戦による焼却。鎌倉時代には重源の大輪田泊の修築により、国内第一の港として"兵庫津"と呼ばれるようになった。南北朝時代には湊川合戦の戦場となって再び廃墟と化した。江戸時代には朝鮮通信使や北前船、尾州廻船など瀬戸内海運の拠点として栄えた。 1868年1月1日日米修好通商条約により、神戸港が開港され、交易の拠点としての地位を神戸に譲り、明治以降兵庫津は産業の拠点として発展して来た。太平洋戦争による戦災と復興、そして阪神淡路地震による震災復興と発展している」。webより引用。