従弟から続いてメールが来ました。
『手長神社、八剣神社の里曳きを初めて見ました。上諏訪の御柱は、下社の影響で「めどでこ」をつけていなかったのですが、氏子の希望もあり数回前の御柱から「めどでこ」をつけるようになったそうです。(トップの画像)
上諏訪の狭い通りをバックもまじえて進みます。
初めて聞く八剣神社の「木遣り」は確かにちょっと変わっていました。
柱の後ろにソリをつけ子供達が乗っています。
宮坂醸造・丸高蔵では味噌汁が振舞われていました。
日が落ちてから手長神社の長い階段を引き上げる御柱は、雨も重なり迫力のあるものでした。
階段を上がり切ると柱の後ろが跳ね上がります。
上諏訪中学の前の坂を進みます。
雨が益々強くなる中、本殿脇の坂を上がります。
あえて外への宣伝を行わないのか、よそからの見物人はほとんど無く、地元の人の手による御柱ですが、
一の柱の長さ、太さは下社の四の柱に遜色無く、上諏訪の市街地の住民が下社の御柱よりこちらの御柱に力がはいるのはもっともだと思いました。』
Kさん、ありがとう。小宮の御柱の雰囲気がよくわかりました。地元の祭がこうして、全員参加で続いているのは素晴らしいですね。
♪八剣神社は諏訪市小和田(こわた)にあります。諏訪が豊臣軍に占領されていたとき、秀吉の命を受けて配下の武将「日根野高吉」が諏訪湖の中にあった「高島」という島に城を築きました。その城が高島城です。八剣神社は高島の島内にあった島民の氏神ですが、島民が高島から現在の小和田の地に移された時、神社もともに移設されました。 この立ち退きのとき、島民は日根野氏と巧みな交渉を行い、諏訪湖全域の漁業権と、新たに広大な農地を獲得しました。我が家の先祖はこの半農半漁の島民の一人だと聞きます。八剣神社はまた、古来より諏訪大社の摂社(筆頭子社)で、諏訪湖の冬の自然現象“御神渡”を検定し、諏訪大社に出来を報告する役割を担ってきました。小和田に移った住民は、移住以来、藩主(日根野氏が他に移ったあと、諏訪氏が戻り、明治のはじめまで諏訪氏が殿様だった)の支配を受けず、行政は住民の自治によって行われました。諏訪湖から湧く温泉を引いた共同浴場で、裸の住人たちが侃々諤々論議を戦わせ、祭の拠出金や揉め事など自分たちで全てを決めていったそうです。
私も小学生のころ、夏休みに諏訪に行ったとき、まだ使われていた大きな共同風呂にイトコたちと入った楽しい思い出があります。
♪手長神社は茶臼山にあり、境内から諏訪湖を見下ろしています。高島城が築城されるまでこの地には諏訪氏代々の城がありました。両神社は宮坂清宮司が宮司を兼任しています。
手長神社 八剣神社
◎ 諏訪湖御神渡り「明けの海」奉告 八剱神社
長野日報社 地域 2010-02-20
諏訪湖の御神渡り神事をつかさどる諏訪市小和田の八剱神社で20日、今季の結果を神前に告げる注進奉告祭があった。神社総代や古役ら約50人が参列。暖冬傾向で御神渡りは出現せず、2季連続で「明けの海」となったことを奉告した。
同神社によると、「明けの海」は戦後29回目。平成元年以降では16回目となり、昭和の15回を超えた。
今冬の諏訪湖は1月中旬に広範囲で結氷したものの、寒さは長続きせず、次第にその面積は縮小した。宮坂清宮司は「諏訪の湖は結氷するもやがて解氷し、小波打ち寄せる明けの海にて御渡りござなくそうろう」と奉告。参列者は神事後、御神渡りができた場合に拝観式で使う予定だったしめ縄をたき上げた。
2004年と1998年に続き、御柱年の出現を願っていた神社総代。宮坂勝太大総代は「残念だが、今年1年が穏やかな年になることを願いたい」。宮坂宮司は「氷点下10度以下の日が1日しかなかった。湖が凍り、御渡りができる自然の偉大さを、明けの海だったことで改めて知らされた」と話した。
奉告祭に続き、諏訪市の諏訪大社上社本宮で注進奉告式があり、結果を記録した注進状を奉納した。注進状の内容は大社を通じて、宮内庁、気象庁にも報告される。