阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

大阪・与力町の「酒房 竹うち」で「京阪神3人会」をやりました。

2013年06月02日 | 食べる飲む
5月末日、同じ事務所に勤めていたことがあると言っても、所属部門が違っていたり、東京、大阪勤務のすれ違いでアフター5の付き合いは殆どなかったお二人と飲みました。お一人は天神橋筋7丁目近くにお住まいで、「竹うち」という小料理屋があるのは、店の前を散歩でよく通るので知っていたとのこと。なんで神戸に住む阿智胡地亭が、自分の庭にあるこの店を知ったんやと聞かれましたが、その疑問は当然でしょう。 京都・長岡京にお住いのもう一人の方には、若い時に白馬岳への登山に誘ってもらったことがあり、白馬から唐松へ縦走の途中の唐松の手前「不帰嶮(帰らずのキレット)」で、鎖を震える手で持ち、恐怖に怯えながら足を運んだことを覚えています。霧が晴れた瞬間、目の前の絶壁の岩に、この地点で滑落した人の両親が設置した、彼の横顔を彫った銅版が見えてドキッとしたことを思い出しました。年齢は3年の幅に入る全くの同世代の3人ですが、メールのお蔭でまた付き合いが復活したのはありがたいことです。



小鉢もそれぞれおいしかったが、画像Upはメインの3品とします。料理も雰囲気も料金もすっかり気に入ってもらい、また時々集まることに衆議一決しました。メンバーも増えるかもしれません。偶然ながら、この店を紹介してくれたM会会長のMさんと会員のMさんも、この日カウンターで二人で飲んでおられ面白い出会いでした。
2013.05.26 ~ 2013.06.01
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ムラサキツユクサが咲き始めました。

2013年06月02日 | 花・草・木・生き物
6年ほど前に、元気がなくなり、陽のよく当たる場所から木漏れ陽のある場所に移したら元気になりました。しかし数年後その場所から1.5mほど離れた今の場所に自分で移ってもっと花をつけるようになった不思議な植物です。







これまで本ブログでは「西洋ツユクサ」と書いてきましたが、ムラサキツユクサの方が使われているようなので呼称を変更します。
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大阪・九条の映画館『シネ・ヌーヴォ』で中村 登監督 特集

2013年06月02日 | 音楽・絵画・映画・文芸
中村 登
◆1913(大正2)年8月4日東京生まれ。父は「名工柿エ門」で知られた歌舞伎座の座付作者榎本虎彦だが幼くして死に別れ、母は清元三味線の家元と再婚、以後中村姓となる。

◆1936年東大文学部英文科を卒業後、同年1月蒲田から移転した松竹大船撮影所に助監督として入社。奇しくも大船第一期生となる。島津保次郎監督に就き、兄弟子の吉村公三郎、木下恵介に連なる。1941年、文化映画『生活とリズム』で監督昇進。同年『結婚の理想』から劇映画の監督となる。

◆1951年21作目の『我が家は楽し』が好評裡に迎えられようやく第一線に立つ。以来、文芸映画の担い手として、井伏鱒二の『集金旅行』、永井荷風の『つゆのあとさき』、北条秀司の『土砂降り』、井上靖の『河口』、松本清張の『波の塔』などに手腕を振るう。

◆1963年、川端康成原作の『古都』が絶賛され、アカデミー外国語映画賞にもノミネートされる(受賞はフェリーニの『8 1/2』)。同年小津安二郎が没し、翌1964年木下恵介が松竹を去り、佐田啓二が事故死するという激動の中、松竹の新たな看板監督として、成島東一郎(撮影)、浦岡敬一(編集)ら、松竹の俊英スタッフとともに『二十一歳の父』『夜の片鱗』『紀ノ川』『智恵子抄』(2度目のアカデミー外国語映画賞ノミネート)などの傑作を連打する。

◆女性映画の名匠として、岡田茉莉子、岩下志麻、桑野みゆき、有馬稲子、司葉子、そして彼が『我が家は楽し』(1951)でデビューさせた岸恵子らの主演による女性映画を撮り続けた中村の軌跡は“女優の都”松竹大船の正統を継ぐものであった。監督した劇映画は82本に及ぶ。1981年5月20日没(67歳)。

上映作品、作品解説、上映日時はこちら
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