2022/07/31 17:25 氏子たちが伐採した目通り2・2メートルの「一之柱」
諏訪市小和田の八剣(やつるぎ)神社の御柱祭で、御柱となる木を切り出す「根切り祭」が31日、同市内の山林であった。
同神社の氏子約150人が参加し、9月下旬に行われる建て御柱に向けて、チェーンソーでアカマツ2本を伐採した。
事前に見立てた一、三の御柱がある胡桃久保の山林で、氏子らが二手に分かれ、それぞれの柱で斧(よき)入れをした。
目通り(目の高さの幹回り)2・2メートルと最も太い「一之柱」では、氏子がチェーンソーで切れ込みを入れくさびを打ち込むと、
バキバキと大きな音を立て「ズーン」と地響きを立てて倒れ、氏子たちから「おおー」と歓声が上がった。
通常、1日に全4本の柱を伐採するところ、今回は新型コロナウイルス感染対策で氏子の密集を防ぐため、伐採を2日間で2本ずつに分けて実施。
7日には二、四の柱を伐採する。同神社大総代の大久保一(はじめ)さん(72)は「無事に根切りが終わってよかった。
御柱祭をやり遂げられるよう、コロナも収束してほしい」と話していた。
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2016年01月01日 |本ブログ「 身辺あれこれ」に掲載
八剱神社(クリック)は阿智胡地亭の本貫の地の産土神(うぶすなかみ)です。つまり一族が先祖代々 暮らしてきた小和田地区の氏神さまです。
八剱神社は諏訪大社の摂社ですが、今年は諏訪大社は7年に一度の御柱祭の年に当たります。
八剣神社は諏訪市小和田(こわた)にあります。諏訪が豊臣軍に占領されていたとき、秀吉の命を受けて配下の武将「日根野高吉」が
諏訪湖の中にあった「高島」という島に城を築きました。その城が高島城です。八剣神社は高島の島内にあった島民の氏神ですが、
島民が高島から現在の小和田の地に移された時、神社もともに移設されました。 この立ち退きのとき、島民は日根野氏と巧みな交渉を行い、
諏訪湖全域の漁業権と、新たに広大な農地を獲得しました。我が家の先祖はこの半農半漁の島民の一人だと聞きます。八剣神社はまた、
古来より諏訪大社の摂社(筆頭子社)で、諏訪湖の冬の自然現象“御神渡”を検定し、諏訪大社に出来を報告する役割を担ってきました。
小和田に移った住民は、移住以来、藩主(日根野氏が他に移ったあと、諏訪氏が戻り、明治のはじめまで諏訪氏が殿様だった)の支配を受けず、
行政は住民の自治によって行われました。諏訪湖から湧く温泉を引いた共同浴場で、裸の住人たちが侃々諤々論議を戦わせ、祭の拠出金や
揉め事など自分たちで全てを決めていったそうです。
私も小学生のころ、夏休みに諏訪に行ったとき、まだ使われていた大きな共同風呂にイトコたちと入った楽しい思い出があります。
八剱神社の由緒 Wikipediaから部分引用。
当社は元々、諏訪湖中高島の里に鎮座していたが、豊臣秀吉の高島城築城に際し、現在地に遷座した。江戸時代には高島藩諏訪家が居城鎮護の神として崇敬し、
明治以降は小和田村の産土神として庶民からの信仰を集め現在に至る。
諏訪湖御渡神事[編集]
当社の特殊神事として、御渡神事(みわたりしんじ)がある。「御渡り拝観の神事」として一般に知られているこの神事は、当社の神職によって行われる。(御神渡も参照のこと)
諏訪湖で御渡が観測されると、当社では臨時の総代会を開き、拝観式の日を決める。その後、宮司以下神職、および氏子総代は、自宅の門戸に注連縄を張り、
精進潔斎に入る。拝観式当日は、まず社殿で修祓を行い、諏訪湖へ向かう。現地では湖周を周り、一之御渡・二之御渡・佐久之御渡を拝観して下座と上座の
湖岸地点の検分を行なう。そして、社殿へ戻り、御渡の状況を祭神へ報告する「奉告祭」が行われる。引き続き、その状況により当年の農作物の作柄、
世の中の吉凶、気候等の年占が行われる。御渡の状況と年占の結果は「注進状」に纏められ、後日、宮司と氏子総代が諏訪大社上社へ出向いて「御渡注進式」を行い、
神前に捧げられる。これを受けて諏訪大社は、この内容を宮内庁と気象庁へ報告する恒例となっている。(かつては幕府に奉告されていた)
直近では2013年にこの神事が行われ、1月22日御渡を観測・臨時総代会、1月25日拝観式、2月17日注進式の日程で行われた。
なお、「奉告祭」と「注進式」は御渡の観測されない年でも行われ、「御渡は無かった」旨の報告がなされる。
特に、御渡の無かった年の諏訪湖は「明けの海」と呼ばれる。
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