阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

 半藤一利さんの戦時下の小中学生時代の体験話 「15歳の東京大空襲」を読んだ。 

2024年03月10日 | 乱読は楽しい

人はあまりに辛く無惨な体験をすると、脳味噌からその実体験を外そうとする・・らしい。

無意識にそうすることで何とか平時の社会の規範に従って暮らすことが出来るのかも知れない。

半藤さんも女性編集者に再三再四請われて、ようやくこの本を書き下ろす筆を執ったようだ。

   彼もまた神戸一中時代の小松左京と同じように、いらんことを仰山言うて当時の配属将校や日本は勝つと信じ込んでいた教師や先輩に

何十回 何百回と数えきれないほどびんたを張られ ボコボコに殴られている。

半藤さんがおぼれ死にかけた平井橋は私のウォーキングコースの一つの中にある。この橋のかかる中川とその周辺を含めて

1945年3月10日夜半の米軍のB29爆撃隊による焼夷弾絨毯攻撃で東京の下町の民間人が2時間ほどで10万人が焼き殺された。

(B29のBは ボーイング社のB)

 半藤さんが生き延びたのはほんの紙一重の巡り合わせだった。生き延びたわずかな人の中に半藤一利さんがいてくれたおかげで

いまこの本を読むことが出来る。

東京大空襲 資料

2022年12月8日の本ブログに掲載

→しばらく遠ざかっていた水辺と水鳥を見たくて、歯医者さんの3カ月ごとの口の中のクリーニングが終わってから 久しぶりに旧中川の定点観測ポイントに行きました。

この旧中川の水中で 78年前の昭和20年3月10日の夜半から11日未明にかけてのアメリカ空軍の焼夷弾による民間人無差別殺戮のため約3000人弱が焼け死にか溺死した。

 この時東京の墨田区江東区江戸川区など下町の民間日本人はわずか二時間で約10万人が焼き殺された。

半藤一利さんが平井橋から旧中川に飛び込んで浮かび上がったとき 偶然小舟がすぐ横にいて救い上げてくれたが その船がいなければ、

「日本の一番長い日」などの半藤さんの貴重な著作物の数々はこの世に現れなかった。

   ロイター通信:[ロンドン 八月23日 ロイター] - 2月24日に始まったロシアによるウクライナ侵攻は、数万人の死者、数百万人の避難民を出し、

世界中に経済危機の種をまいた。

 国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)は8月22日、侵攻開始から民間人5587人が死亡し、7890人が負傷したとの推計を発表した。

実際の犠牲者数はさらに多いとされている。 OHCHRによると、死傷者の多くは砲撃やミサイル、空爆などの爆発によって犠牲になったという。引用元。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

2010年03月10日(水) 阿智胡地亭の非日乗 掲載
1945年3月10日東京



§3月9日付時事ドットコムから引用

「▼東京大空襲 米軍のB29爆撃機などによる空襲は、1945(昭和20)年に入ると全国の都市に拡大した。

被害を受けたのは北海道から沖縄にいたる163都市に及び、死者は50万人以上と推計されている。

爆撃の目標は軍需施設から一般の市街地に拡大したが、これは非戦闘員にも恐怖を与え、国民の戦意を喪失させるのが目的だった。

  特に東京は終戦まで約130回の爆撃を受けた。

3月10日の未明に始まった東京大空襲は約300機のB29が深川地区など下町を中心に約2000トンの焼夷弾を投下。

2時間半の爆撃は折からの強風を受けて大火災を引き起こし、およそ40平方キロの市街地が焼失した。

焼失家屋は27万戸、被災者は100万人以上で、死者数はこの1日だけでおよそ10万人と推定されている。東京は終戦までの爆撃で、市街地のほぼ半分が焼失した。」

§B29百二十機深夜帝都を空襲(1945年3月11日付『読売報知新聞』)

〔大本営発表〕(昭和20年3月10日12時)本3月10日零時過より2時40分の間B29約120機主力を以て帝都に来襲、市街地を盲爆せり。

右盲爆により都内各所より火災を生じたるも宮内省主馬寮は2時35分其の他は8時頃迄に鎮火せり。現在迄に判明せる戦巣次の如し。撃墜15機、損害を与へたるもの約50機。

去る4日以来、最近夜間数次にわたる多数機の来襲は、夜間大挙空襲の兆を濃化しつつ敵は9日深夜より暁間にかけて、この最初の大規模たる夜間空襲を実施した。

すなはち、敵機は先づ小数機を以て、わが電波探知横の妨害を図り、次で主力の単機毎に3干乃至4干メートル、最も低きは千メートルの超低空を以て

帝都に侵入焼夷弾に依る市街地盲爆を行ひ、その他各10機内外宛を以て干葉、福島、宮城、岩手の各県にも来襲した。

これに依り、東京都内各所には相当の火災を生じ、再び宮城内の宮内省主馬寮附近にも焼夷弾が落下、午前2時35分までに消火したが

都内各町の火災も午前8時頃までには軍、官、民一致の敢闘に依り全く鎮火せしめた。その他各県の被害は盛岡、平附近に若干の損害があつたのみであつた。以下略

  ☆今でもウソつきの代名詞のように使われる「大本営発表」。

戦前から戦後もそして今も、普通の「くにたみ」に対しては、本当のことを隠してウソをついてもいいと考えるエライさん方が、お国の上に居続けるわが日本国。

臭いものにはふた、都合の悪いことはなかったことにする・・

 これは江戸時代から我々列島人の中に住み着く【宿痾】か【痼疾】か、いや島国内で権力を握った階層の知恵なのかも。

 この列島内ではおとなしい「くにたみ」相手には通るけど、開国してほぼ150年、相手国側の公式文書公開で、都合の悪い蓋が開いてしまう。

虚言を国会の場で吐いた人、吐かせた人。まさか政権交代が列島で起こるとは想像してなかっただけのことですよね。

 政権交代がなければ「密約などない」と、今でも知らぬ存ぜぬでこれまで通り押し通していたんでしょうが、

実はそのこと自体が「アメリカの公文書はでっち上げだ、ウソだ」と言っていることになり、アメリカの苛立ちをかっていたことに気づかなかったことが

前の政権与党と外務省には惜しまれる?

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 79年前の今日 3月10日の東京... | トップ | 語られない惨禍  今から79年... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

乱読は楽しい」カテゴリの最新記事