阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

東日本大震災が起こった後、ブログ「阿智胡地亭の非日乗」が掲載したエントリーから          [ 2011年07月07日(木)のブログ ]

2023年08月10日 | 東日本大震災ブログ
011年07月07日(木)
中津燎子さんが亡くなられた。

☆中津さんが6月15日に亡くなられたとお知らせを頂いた。享年85歳。以下のエントリーは2010-09-24に掲載した。追悼の記として再掲載します。☆

中津燎子さんという黙っていられない人がいる

中津燎子さんが書いた4冊の本を読みました。

 「それではそろそろ帰ります。長い間お邪魔しました。お話は、ように考えてみますわ。」

「よう来てくれはった。話も聞いてもろてよかった。

ちょっとキツかったかも知れんけど、あんたのためやと思て言うたんやから、気ィ悪うせんといてや」

日本語の会話でいちいち 私はとか、ボクはとか、オレはとか、手前はとか、言葉に出すことはない。主語を出すときはかなりあらたまった物言いになる。

 当然、日本語には主語はあるが、中国語や、英語・フランス語といったインドアーリア系諸言語のように、常に「我」や「I」などの主語を声に出さなければ会話にならない言語ではない。

「中津さんの一番の強調は、日本語の中に I (主語)が無いので、対話と表現が 国際化の中では難しいということです。」と、本を送ってくださった栗田澄子さんが言われました。

 中津さんは、生身のロシア人とロシア語で、生身のアメリカ人と英語で生活し、日本に戻って日本語で生活し、そのことが生み出す対話と表現の違いを骨身に沁みて体感した人です。

そして昭和40年頃から、英語をやるならそのことを理解しなければならないことを、日本で英語を学ぶ人に伝えてきました。

○三五館から出版された「英語と運命」の著者紹介から。

中津燎子 なかつ りょうこ…

1925年10月、博多に生まれる。ノンフィクション作家・英語発音訓練研究の「未来塾」顧問。

3歳から12歳まで旧ソ連のウラジオストックで過ごし、戦後すぐに占領軍の特別電話局で英語と出合って格闘し、

56年から65年まで米国で留学生活をするという、まれな経歴をもつ。

74年に『なんで英語やるの?』で第5回大宅賞を受け作家活動を始めるとともに、「言葉の後ろにある文化を理解することなしに、言葉を学ぶことはできない」という考えから、

異文化コミュニケーションを訓練する未来塾を始め、現在に至る。著書には他に、『母国考』『風のシカゴ』など多数。

同じく同書の

○編集部から

ベストセラー『なんで英語やるの?』で日本人の英語ブームに火をつけた女流作家が、自らの人生を描きつつ綴った、最後の日本人へのメッセージ。


それは重厚にして痛烈な日本人論であり、はたまた真の英語学習の本質を描いたカリキュラムであり、さらには数奇な運命に翻弄されながらも、

力強く生き抜いてきた女流作家の、迫力の戦中戦後史でもあります。

☆4冊の本は読みやすく、ケレン味のないストレートな人柄そのものだと思える文章に、興味深く、面白く、はたまた、つらくもあるエピソードが溢れていました。

栗田さんにまとまりのない読後感ですが、メールを送りました。

栗田澄子様

中津さんの4冊の本読みました。読みやすい文章ですが、衝撃的な内容でした。

いま中津さんが異文化と向き合った頃よりも、我々の世代は精神力も感受性も発信力も劣化しているように思いました。


 しかし中津さんが蒔かれた種はあちこちで実っている様子で心強いです。

 中津さんって、小さいときの状態からからすると、よくぞ成人されたと心から思います。こんな稀有な生き方をして、本を書いて我々に中津さんの生きてきた道をこうして教えてくださる。

生まれた両親も、育った場所も、自分では選べないなかで、なぜこのような方が育ったのか(出来上がったのか)?と考えるとき、中津さんのお母さんの存在が非常に大きいと感じました。

戦前の時代にその時代のある階層以上の日本女性が身につけるべき伝統的日本文化を(なんと詩吟まで)、自分のものにし、しかも産婆として自立までしていたお母さん。

ウラジオストックで子供を育てるときも病弱ながらも、人間としてぶれることなく日本人が持つべき指針を子供に伝えたと感じます。
 
そしてもう一人マルシアさんという白系ロシア人との出会い。

この二人がいなければ、例え生き延びても今の中津さんは別の中津さんになっていた。

そのお母さんから教えてもらったことが、中津さんの日本人としてのアイデンティティ・背骨をしっかり作ったからこそ、

そして、マルシアさんという白系ロシア人に育てられて、伝統ロシア文化という、日本以外の知的精神世界があることも、無意識にも知ったからこそ、

福岡でアメリカ人の社会や生活を理解出来て、米軍の電話交換手時代、人種差別の激しい時代のシカゴの留学生生活を、人間として臆することなく乗り切って、

しかもエンジョイできたのだと思います。

お兄さんは男だったから、ある意味、時代が男に要求する因習から大きく離れることは出来なかった。

例え、変人の父親であっても、その父親に歯向かうことは出来なかったし、しなかった。

彼は彼の父親も、時代に生きるしかなかったことを理解していた。

そしてお兄さんはなまじよく出来る人だけに、激しく価値観が変っていく時代の裂け目に、落ちていくしかなかった。

中津さんはある意味、伝統のしばりの少ない女性の身であることを活用し、しかも負けず嫌いの性格をもろ表に出して、他人の2倍3倍の努力を積み重ねた。

中津さんの凄さは「実体」を表現するには、違う言語がいくつもあることを幼いときに気がついたことだと思います。

また、マルシアさんのロシア語で、母親から伝えてもらうのとは違う別の知的精神世界があることも知りました。

 言葉はまず発音から始まるというのは、他国人の中で実際に暮らす上で、言うことが相手に伝わり、聞いてもらわなければ生存も出来ないと言う根源的なことを、

ウラジオストックの遊び仲間や、日本人学校で彼女は痛いほど知ったからの発想だと思います。

人はその人一代で出来るものではなく、親そしてまた親そのまた・・と続いてその人が出来るという存在であることは、ある意味重いことですね。

もう一度読み返します。

☆中津さんの著作の一部は、英語未来塾サイトの「エッセイ」頁で読むことが出来ます。こちらからどうぞ。

 
 
中津燎子さん追悼  その2

☆2010-08-19ブログ初出。☆

『声を限りに蝉が哭く』 中津燎子著 を読みました

昭和12年まで3歳から9年間、ロシアのウラジオストックで暮らした博多出身の日本の少女がいた。彼女は今で言う帰国子女のはしりで昭和12年に親の故郷の北九州に戻り、

戦時中の日本で女学生時代を送った。敗戦後はアメリカへ留学し、帰国してから通訳をし、英会話教育に携わり、現在85歳になった。名前を中津燎子さんと言う。

  彼女は小さいときから心の中に怒りをもち続けてきた。

webから引用:
戦争中、だれが、どのようなウソをついたのか、記憶を一から十まで確認しておきたい。 

戦争とは、自殺のことなんだヨ ”クセあり”老婆のオサラバ伝言! 戦後もたびたび「ああ、またか」と思うことが多いなぁ 私の戦争の記憶は、蝉の声に占領されっぱなしだった。

いよいよ「終わりか」と感じたとき、私の全身に昭和12年に帰国してからの8年間の記憶が一気によみがえり、強烈な憤怒で破裂しそうになった。

「国は国民をそうまでして殺したいか!」「一度でいいから、生きて幸せになれ!と言えないのか」沸騰した鍋のふたがブッ飛ぶように、私は怒鳴っていた。

蝉の声は秋も冬も、戦後もずっと、私の耳の中で響きつづけている。

 怒りを持ち続けるには物凄いエネルギーがいる。彼女は物心ついたときから今日までその怒りを持続して、そのことをこの本に書いた。

実際、何に対して彼女が怒ってきたのか?それをこの本で是非読んで欲しい。
 
怒りを持ち続けると、人は時に精神の内部崩壊を起こすことがある。しかし中津燎子というこの日本女性は、物の見方がぶれることなく、

感情をそのまま無思慮にぶちまけることもなく、自分の物差しを持って、真っ当に怒って、その怒りを我慢せずに今日まで生きてきた。

 外国語をちょっとかじるだけでも、石川遼君を使ったCMのように、聴くだけで外国語が身につくわけはないとわかる。

本当に英語をやるつもりなら、声の出し方つまり発声、もっと言えば身体の姿勢から変えないといけない。

そんな英語教育の現場を踏んで、英語と日本人の深い溝に向き合った著者の言葉の体験、つまり言葉を使うことが生きることだ、を語る口調は軽くはない。

しかしなぜか諧謔の香りも時折文間から上がってくる。文章は読みやすくぐんぐん読み進める。

引用したい箇所が多すぎるが、

彼女が引いた二つの短歌に彼女の体験と思いが凝縮されていると思う。

『マッチする つかのま海に 霧深し 身、捨つる程の 祖国はありや』 寺山修司

彼女は言う、胸をぐっと押されたような切実ないい短歌だが、昭和20年4月当時の古いボロボロのメモ帳に走り書きした私の下手な短歌に比べれば、とんでもないほどの「ゆとり」がある。

吾、はたち 空爆さなかの 一瞬に はがみして叫ぶ 明日生きているか?と

以下はこの本の著者と長年のお付き合いがる栗田さんへ送ったメールです。

姐様

よくぞ中津さんは、この本を書いてくださったと思います。

どの章もウンウンと頷きながら読んでいる自分に気がつきます。どの1ぺージにも何の違和感もありません。

それは同じ国内ながらも北九州市、尼崎市、四日市市、神戸市とあちこち転校して、その土地で生きる人間社会の違いなど、

わずかながらでも共通体験があるので、中津さんの思いが多少なりとも想像できるからかもしれません。

 オカミにどんなにか従順な普通の日本人。それは今の日本人も基本的には変わりません。

組織の上層部を愚者に握られた集団の哀しさと、集団の中の個の存在の無力さ。

しかし、その時代の中でも、こういうまっとうな日本女性がいて、生き抜き、こうして、自国の人間に経験と思いを伝えようとされている。

3回目を読み返していますが、ある意味 ご両親と兄上への鎮魂の書でもあると感じています。

あの時代にこういう生を過ごした日本人がいたことを書いたもので残したいと思われて当然だと思います。

内容がとても大切なことばかりなので、この本が出版されたことをアナウンスしようと思っています。多くの人に読んでもらいたいです。

姐さまは人生でいろんな凄い方と巡り合われているのですね。

中津さんのこれまでのご本も入手できるものをAMAZONで頼んでみようと思っています。

   辛好

 
 
中津燎子さん追悼  その3

中津燎子の英語未来塾から引用(今回追加)

“I”は英語スピーチの基本

“I”というのは、英語の中で最高の単語なんですね。

“I”と誰の前でも言えるようにならなければ英語にならない。その“I”を言えないんですよ、日本人の99%は。なぜかというと日本語に“I”がないから。

自分を出す「わたくし」というのがないんです。出したとしても、へりくだる“I”です、打ち出す“I”ではないわけ。

恐縮の分量っていうのを絶対緩めないんです。それをほっておくと、英語では“I”と言っているのに、恐縮する心持ちが“I”の発音に入ってくるわけです。

自分では恐縮と思ってないんですよ。これはもう持って生まれた我が文化ですのでね。

そこのところをはっきりと、英語はコレ、日本語の場合はコレっていう風にね、使い分けるっていうセンスを持たなくちゃいけない。

 スピーチでは、“I”という人物が、“You”っていう聴衆、この人たちにメッセージを渡しているわけです。

そうすると、この“I”というのは基本なんです。自分がこれを言う、あなたに言う。常にそのスタンスをはっきりと掴んだ表現でないと言いたい事が伝わりません。

 アメリカで学校に行くと、朝から晩までスピーチをやらされるっていう感じなんです。

その要領はね、とにかく誰がしゃべるのか、誰にしゃべるのか、何を、そこをハッキリさせるわけです。

そうすると、こちらは外国人ですので大体みんな間口を広げて聞いてくれるんで、それをキレイに戦略的に利用するんです。

我々は第二言語としてやってるんだから、それでベストを尽くすという態度さえあれば、どんな外国人だって聞く耳を持ってますから。

その代わりこちらは100%ベストを尽くさなくちゃいけない。そこで日本人のカルチャーである「恐縮ですが、恐れ入りますが」が入ってくると、できないんですよ。

スピーチしても、全体的に「私は取るに足り無いものでございますが…」なんていうのが音声に入ってきた場合に、相手がいくら間口を広げても聞く熱意を失っちゃうんですね。

受け入れる根気が無いっていうか。

 だから居ながらにしてパフォーマンスをね、英語色と日本語色は混ざらないと思ってハッキリ使い分けないと。

22世紀くらいには日本のカラーが世界に行くかもしれませんけど、とても100年待てないので。さしあたっては覚悟しなくてはいけない。

<スピーチ訓練時の発言(2000/12/2)より>

「中津燎子の英語未来塾」は英語ということではなく、他言語、他民族の中で生き抜くことを伝えてくれます。こちら


☆2010-8-21初出☆

フツーの日本人のこういう性格

①はにかみ
 
②ためらい 

③人見知り
 
④解決の先送り 

⑤決断の後回し
 
⑥様子待ち

中津燎子さんが長年英語教育に携わってきて、この性格のままでいくらお金を使って英語を勉強しても、日本人は英語は使えるようにならないと言われているらしい。

「英語と運命」という本をだした出版社のHPに、この中津さんの言葉が引用されています。

がっくりです。まさに①から⑥まで自分のことを言われていると思いました。

これまでそれなりに英語をものにしたいと思ってきましたが、全然使いものにならないのは、こういうベースから変えないといけないとは!

実は私はうすうすそんな気がしていました。

言葉をどう使うということは、その人の生き方そのものだと思います。

それは日本語であれ、英語であれ、韓国語であれ、何語であれ
同じことだと思います。

♪上の①から⑥までの典型例の一人が小沢一郎さんです。彼は正真正銘の日本人だと思います。

 
 
玄海原発の安全への備えは不十分

【ミニ解説・玄海原発の安全対策は十分か?】
2011年07月05日 (火) NHK科学文化部ブログ「かぶん」

 佐賀県にある玄海原子力発電所の地元、玄海町の岸本英雄町長は、定期検査で止まっている2号機と3号機の運転再開を認めることを4日、九州電力に正式に伝えました。

これに先だって先月29日に海江田経済産業大臣が佐賀県を訪れて古川知事に直接、玄海原発の安全性に理解を求めたのに対し古川知事は、「安全性はクリアできた」と発言しました。

玄海原発の安全性、特に津波対策は十分か?まとめました。

東京電力福島第一原子力発電所の事故を受けて、止まっている原発の運転を再開させる条件として、国が電力各社に指示したのが、

津波などによって外部からの電源が失われることを想定した緊急的な安全対策です。

この指示を受けて九州電力は、玄海原発の4つの原子炉ごとに電源車を1台ずつ配備。

また、原子炉に水を入れるための仮設ポンプを準備したりする対策を、ことし4月に完了しました。

またこうした電源車やポンプを使った訓練を繰り返し行ったとしています。

しかし、こうした対策は原子炉の中の燃料が溶けることを防ぐために、水を入れ続けることを目的とした最低限の応急対策で、原子炉の温度を安定的に100度以下まで下げる、いわゆる「冷温停止」状態にするまでおよそ2週間から3週間かかります。

 九州電力は、原子炉の冷却にはさらなる対策が必要だとして、大容量の非常用発電機を導入するとしていますが、この準備には少なくとも1年程度かかるとしています。

また、福島第一原発の事故で津波による被害を受けた、原子炉を冷やすための海水を汲み上げるポンプの予備の確保や原子炉建屋の中にある

安全上重要な設備に海水が入らないようにする浸水対策、それに、水素爆発を防ぐための装置の設置といった抜本的な対策が終わるまでには3年程度の期間が必要だとしています。

このように、玄海原発では、応急の対策は終わっているものの、抜本的な安全対策はそのほとんどがこれから実施されることになっているのです。

 
電力会社がこれまで普通にやっていた情報操作 九電の例

☆九電の担当の課長さんはこれまでいつもやってきたことだから、なんの疑問もなく今回もメールを出したのだろう。下請け業者4社に出したあたりにそれが伺える。

そしてこれまでは、そのことが表に出ることはなかった。安心しきっていて、まさか内部から、メデイアに流す人間がいるとは夢にも思っていなかった。

 地域住民の安全よりも自分の会社のメシの種優先。この人も家に帰れば、住民の一人としては家族が放射能事故にあわないようにと考えているはずだが、自分の勤務先の職務を優先する。

公害企業と言われてきた多くの会社の社員が歩いてきた道と同じ道を歩いている。この時代こんなん嫌やと言って会社辞めても、新たな就職先はないから、このままいくしかないのだろう。ったく。

嫌な渡世でも、戦後66年くにたみが作ってきて、いま生きているこの国の現実だ。これから関電や中電、四電がらみの公聴会でも同じように連絡がいくだろうが、

今度からはメールで流すようなヘタはうたないだろう。ピンポイントでの電話の依頼になる。

しかし、放射能被曝への恐怖は下請けや下級社員への[恫喝としばり]を越えていて、電力会社のこれまでの高をくくった手法は徐々に効かなくなる。☆

☆九電 原発再開へメールを依頼
7月6日 20時46分 NHKニュース

先月26日、佐賀市で行われた九州電力玄海原子力発電所についての国主催の説明会で、運転再開などを巡って住民から質問を受け付けた際、

九州電力が、関連会社に対し、運転再開を容認する立場でメールを送るよう指示していたことが分かりました。

九州電力の眞部利應社長は「説明会の信頼性を損なう結果となった」と述べ、謝罪しました。

玄海原発の2号機と3号機の運転再開に向けて、国は先月26日、佐賀市で住民から質問を受け付ける説明会を開きました。

この説明会は、地元のケーブルテレビやインターネットで中継され、放送中、メールやファックスでも意見を受け付けました。

九州電力の眞部利應社長は6日夜、福岡市の本店で記者会見を開き、説明会の4日前、九州電力の本店から社内の一部と、

関連会社4社に対し、玄海原発の運転再開を容認する立場でメールを送るよう指示していたことを認めました。

眞部社長は「説明会の信頼性を損なう結果となったことを心からおわび申し上げたい」と述べ謝罪しました。

実際、番組にどのくらいのメールが送られたかは分からないとしています。そのうえで眞部社長は

「原子力の安全性を事業者の立場から意見を述べて住民の理解を深めたいと考えた」と答えました。

眞部社長は問題の責任は自分にあるとしましたが、進退については「まだ、そこまで考えていない」と述べるにとどまりました。

今回の問題を受けて海江田経済産業大臣は6日夜、「玄海原子力発電所の安全対策などについて、

さまざまな立場からの率直な意見や質問に答えるという番組の趣旨を損なう言語道断の行為で、番組を主催した経済産業省として極めて遺憾である」という談話を出しました。

そのうえで、海江田大臣は、資源エネルギー庁の細野長官が九州電力の眞部社長に対し、厳重注意を行うとともに、原因の究明と再発防止策を報告するよう指示したことを明らかにしました。

原発説明番組で九電やらせ 運転再開支持の意見要請
2011/07/06 21:29 【共同通信】

 九州電力は6日、玄海原発(佐賀県玄海町)2、3号機の再稼働に理解を得るため経済産業省が主催、6月26日にインターネットなどで中継した県民向け「説明番組」で、

関係会社が社員らに対し、一般市民を装って運転再開を支持する意見を寄せるよう指示していたことを明らかにした。公平性が担保されるべき説明会で、

当事者である九州電力が偏った意見形成を意図していたことに批判が起こるのは必至だ。

 真部利応社長は6日、福岡市の本店で記者会見し「投稿をお願いしたのは間違いない。国の説明会の信頼を損ね申し訳ない」と謝罪した。

 
 
最初の一歩
☆全国の幼稚園の連合組織が改革を嫌い、幼児教育よりも経営の既得権を守る運動を長くやってきた。政権交代によりその厚い壁に少しずつ穴が開いてきたが、
 
ようやく前よりは多少進んだ施策がまとまりそうになってきた。

働く男親、女親たちにとっては、政局がウンヌンよりも、こういう日常生活の改善につながる方策がどんなに重要なことか。
 
家業が政治屋さんの、二世三世の人らの家庭ではわからない世界だ。☆

全保育所を幼保一体化施設に 政府の新子育て施策最終案
2011/07/06 02:02 【共同通信】

 政府の新子育て施策「子ども・子育て新システム」の制度設計に関する最終案が5日、判明した。小学校就学前の子どもに教育を提供するため
 
一定期間後にすべての保育所を幼稚園と保育所の一体化施設に移行すると明記した。

 近く、少子化社会対策会議で正式決定し、2012年の通常国会に関連法案を提出、13年度からの段階的実施を目指す。
 
制度実施に先立ち、市町村の意向を施策に反映させやすくするため、労使代表なども参加する「子ども・子育て会議」を設置し具体的な制度設計を検討する。
 
 
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