一部引用・・・長崎市北部に位置する浦上地区は、戦国時代末期にイエズス会領になっていたこともあり、カトリックの信者が多い地域だった。
その後、江戸幕府のキリシタン禁教令によって、4度に渡る「浦上崩れ」という激しい弾圧を受けるが、地元住民はキリスト教への信仰を捨てなかった。
「潜伏キリシタン」として明治時代まで信徒が存続していた。
江戸末期から明治初期に起きた「浦上四番崩れ」が欧米から批判されたことを受けて、ようやく1873年に明治政府がキリスト教の信仰の自由を認めた。
釈放された浦上の信徒たちの間で、天主堂の機運が盛り上がった。1895年にフレノ師が設計、ラゲ師に引き継がれ、20年後の1914年に完成した。
これが、石とれんが造りのロマネスク式大聖堂「浦上天主堂」だ。高さ25メートルの双塔の鐘楼を備え、「東洋一の大聖堂」と謳われるほどだった。
しかし、1945年8月9日午前11時2分、米軍が長崎市の上空に投下した原爆「ファットマン」によって、浦上天主堂は、一瞬にして崩壊。一部の外壁だけが残された。
西田三郎、玉屋房吉の二人の神父と、奉仕作業をしていた信徒十数人が天主堂と運命をともにした。
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長崎原爆の爪痕を残していた浦上天主堂。解体されて「幻の世界遺産」になった理由は? https://t.co/1UleK3A7ep
— 阿智胡地亭 辛好 (@achikochitei2) August 9, 2022
原子爆弾投下で破壊される前の教会
アメリカ軍撮影の長崎投下後のキノコ雲
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2024年08月09日 追記
長崎原爆の爪痕を残していた浦上天主堂。解体されて「幻の世界遺産」になった理由は?⇒こちら
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