2006.07.22作成、メルマガ発信。
売れない落語家の 阿智胡地亭辛好 が今日も今日とて、楽屋横の隠居部屋に上がりこみ、席亭のご隠居と毒にも薬にもならない話で盛り上がっております。
辛 好:先代の天皇はんが「私が靖国神社を参拝しなくなった理由」をお話になったちゅう富田メモが出てきたようですな。
それにしても、この今のタイミングで、しかも日本経済新聞のスクープちゅうカタチで出たのはおもろいでんな。
隠 居:ほう、オマエさんでもそんな風に考えるか。富田元宮内庁長官の遺族からそのことが明らかになったと書いてあるが、
そんな手帳があってその中にそういう記載があることは、昔から知る人ぞ知るやったはずやわな。
それが今なんで公表されたかはなんか意味があると思うわな。いずれにせよ、この記事を新聞のトップ一面に掲載するには、
新聞社の役員間でも相当な激論があったやろうちゅうのは想像できるな。
辛 好:そらまたなんでです?これは一大スクープやさかい、ごちゃごちゃ言うことなく載せたんちゃいますの?
隠 居:せっかく、珍しくええ切り口から入ってきたとおもたのに、やっぱりな~んも考えてないなあ、オマエさんは。
ええか、こないだ経済界は経済同友会を先兵にして、政府自民党に首相の靖国参拝を中止するよう意見具申したんや。
それに対して自民党幹部から、「愛国心のカケラもないガリガリの金儲けしか考ん野郎どもが何抜かす」みたいな大反撃をくろうたんや。
要は政府自民党は経済界の言い分には聞く耳もたんちゅうのがはっきりした訳や。
そんなことも背景にあって、このままでは一方向に傾きすぎるさかいバランスを取らんと、貿易立国日本の経済活動に支障が出ると
い
う懸念が経済界にかなり強なってるはずや。
しかし記事掲載については、オマエさんが言うたように、問題は、元ネタが個人のメモやちゅうことと、掲載のタイミングや。
そら、トップ記事のスクープ扱いがすんなり内部決定したとはとてもおもえんで。
新聞社にも内部には右から左、言論人から営業部門までいろいろおって1枚岩ではないはずや。
これを載せるちゅうことはある意味、コイズミはんを見捨てて、しかも次の後継者にもあるメッセージを出すことやわな。
つまりは靖国問題に対して旗色を鮮明にするわけや。それをやると踏み切ったんは新聞社だけの判断やないでこれは。
辛 好:ワタエのダチの「陰謀好き」の伝八やったらすぐに言いまっせ。「これは、アメリカの陰謀や、アメリカがバックで糸引いとるで」て。
隠 居:いや意外とそうかも知れんで。こないだのコイズミはんの訪米の時、プレスリー詣でまでさせてやって
「コイズミの首相任期中の(アメリカ一辺倒の協力)へのお礼は終わり。
これ以上、中韓と日本の関係が悪化すると、これからますます拡大する中近東、イスラエル・レバノン問題に注力したい
アメリカにとって不利益やから、まず日中韓の喉に刺さった靖国問題ちゅうホネを抜いたろ」とアメリカが思うたかもしれん。
いくら財界の広報紙と言われる日経でも、日経の考えだけでこの記事はよう載せんやろからなあ。
そう言うても、これはどこにも証拠のない話やけどな。
まあしかし、結果としては、日本の民間産業界というか経済界が、外交ルートでは出来へんさかい、日経と言う新聞を使って、
中韓2国に対しこんな考えを昭和天皇は持っていた、小泉さんの考えは必ずしも日本を代表するものではないよと言うことを伝えたのは間違いないやろ。
辛 好:「陛下が参拝を取りやめるのは陛下の心の自由、私は私の心の自由で参拝をやめるつもりはない」とコイズミさんが
言いはったらしいけど、わしら庶民からすると、コイズミはんて天皇さんと自分を同じ位置においてるみたいで なんやこの発言なじめまへんなあ。
隠 居:いや、亡くなられても日本人の心象には昭和天皇はんの存在はいまだに大きいなあとワシもおもたわ。
あの記事読んだ後からコイズミさんには悪いけどが、コイズミはんがなんぼモノ言うても、
エエシの我がままお坊っちゃんが駄々こねてるようにしか聞こえんようになってしもたもんな。
遠い昔から日本では「錦の御旗」に立ち向かうと逆賊・逆臣やと言われたもんやが、
さすがに平成の御世やからそんなことにはならんやろけど。
ところでアメリカの陰謀はさておいて、一国の首相を一夜明けたら突然ピエロみたいな状態にするやなんて
冗談にしては結構キツイ冗談やで、今回のこの一連の動きは。
辛 好:いや、コイズミはんはコイズミはんらしうゅに、心の自由は誰にでもあると最後までガンバリはると思いまっせ。
そら、お役目ご苦労さんと他国に首相がピエロにされて終わるようでは、情けないもん。
隠 居:ところで話が長ごなったが、今回の茶話はこれでオチもお笑いもなしで、「しょうことなし」に終わるんかいな。
辛 好:そら本線が 「証拠のない」話しやから仕方おまへんワ。
お後がよろしいようで。
参考:富田メモ Wikipediaから部分引用
公開された富田メモの一部は以下の通りである。
靖国神社についての発言は1988年4月28日(昭和天皇の誕生日の前日)のメモにあった。一連のメモは4枚あったとされ、
そのうちの4枚目にあたる。
「前にもあったが どうしたのだろう 中曽根の靖国参拝もあったが 藤尾(文相)の発言。
=奥野は藤尾と違うと思うがバランス感覚の事と思う、単純な復古ではないとも。
私は或る時に、A級が合祀され その上 松岡、白取までもが
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 松平の子の今の宮司がどう考えたのか
易々と
松平は平和に強い考えがあったと思うのに 親の心子知らずと思っている
だから 私あれ以来参拝していないそれが私の心だ」
※「易々と」の左側の位置から「そうですがが多い」「全く関係者も知らず」の2行が縦書きで書かれている。
メモは、「私は或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」と記している。
松岡は日独伊三国同盟を締結し、A級戦犯で合祀されている元外務大臣の松岡洋右、白取はこれもA級戦犯で合祀されている
元駐イタリア大使の白鳥敏夫、筑波は1966年に旧厚生省からA級戦犯の祭神名票を受け取りながら合祀しなかった
靖国神社宮司の筑波藤麿とみられる。
昭和天皇は、筑波宮司がA級戦犯合祀に慎重であったのに対し、筑波が退任後、A級戦犯が合祀されたことに懸念を表明し、
その中でも松岡洋右と白鳥敏夫までもが合祀されたことに強い不快感を表明した。
メモは、さらに「松平の子の今の宮司がどう考えたのか」「松平は平和に強い考があったと思うのに」と記している。
「松平」は終戦直後の最後の宮内相の松平慶民。「松平の子」は、長男で1978年にA級戦犯を合祀した当時の靖国神社宮司・松平永芳とみられる。
「親の心子知らずと思っている」として、松平慶民は合祀に慎重であったのに、
その子供である松平永芳が、「易々と」合祀してしまったことに対して昭和天皇は強い不快感を表明した。
末尾には「だから 私あれ以来参拝していない。それが私の心だ」と記述されている。
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