阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

2010年7月 民族学者 「梅棹忠夫さん」が亡くなった

2022年12月28日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ
2010年07月09日(金)  「阿智胡地亭の非日乗」掲載

高校生の頃、中尾佐助さんが書いた「秘境ブータン」という本を読んで、ブータン人は丹前によく似た衣服を身につけ

注連縄を張って結界にし、弓を引くことが国民共通の楽しみなどを知って親しみを持った。

 それから日本だけではなく、日本とそれ以外の国や地域のことに急激に興味を持つようになった。

その頃に梅棹忠夫さんの「文明の生態史観」を読んだ。

西洋と日本の文明はどちらが進化している、していないではなく、平行に進んでいるという考え方は、開国以来、西洋に追いつけ追い越せで、

何となく日本は遅れているという考えからすると、新鮮でまことに嬉しかった。

それから彼の「知的生産の技術」という本も衝撃的だった。

生産はモノのことと思い込んでいるところへ、実は眼に見えない知的活動のアウトプットに、やり方次第で大いに生産性の差がある、という発想はこれまた新鮮で驚いた。

どちらの本ももう内容は殆ど覚えていないが、10代の終わりに、この本を通じて日本に「梅棹忠夫」という、独創によって立つ人間がいるということを知った。

彼が千里の「国立民族学博物館」を彼の一派の連中と作ってくれたのは、言葉を操るだけの学者ではなく、実践としての学問をやってきた学者の証明だと思う。

 1920年(大正9年)生まれ、享年90歳。

彼の前に梅棹なく、彼のあとに梅棹なし。自分が生きている同時代にこの人を持っていた幸せに感謝します。合掌。

Wikipedia梅棹忠夫

朝日新聞web「天声人語」2010年7月9日から引用

 「知のデパート」の静かなる閉店である。享年90。民族学者の梅棹(うめさお)忠夫さんが老衰のため亡くなった。

生態学から文明批評へ、究めた領域と足跡は理系文系の垣を越えて広がる。そしてどの「売り場」も千客万来だった

▼本人を前に、哲学者の鶴見俊輔さんが先見性をたたえたことがある。「過去50年については、私の知る限りで最もよく当たった人です」と。

〈情報産業〉なる造語で今日を見通したのは半世紀近く前。国家を語っても、女性や日本語を論じても眼識は鋭かった

▼「本というのは、しょせん誰かが先に言ったことが書いてあるだけ」と、文献より実地調査を重んじた。世界を歩き回り、自らの耳目で紡いだ新説は独創にあふれ、

時の常識を覆しもする。「梅棹学」の真骨頂だろう

▼欧米への劣等感がくすぶる時代に、ユーラシア大陸の端という共通点から、日欧の文明を対等に論じた。

日本を特殊視する欧米人には「こんな事例は世界史にいくらもある」と反論し、返す刀で優越に浸る日本人を戒めた

▼米国から名高い社会学者が訪れた時である。日本の学者はみな英語で話すのに、梅棹さんだけ通訳を介した。

いぶかるゲストに「私の考えは、私の英語で話すにはデリケートすぎる」。楽しい会話は後輩たちを魅了し、いつも談論風発の中にいた。

▼65歳で失明するも「雑用が減った」と前を向き、口述で活動を続けた。書斎でもあった国立民族学博物館は、研究資料の扱いを思案中だという。

公開するならひと仕事だ。なにせ梅棹デパート、在庫の量が半端でない。

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千里・万博公園の民博(国立民族学博物館)に行く  - 阿智胡地亭のShot日乗 (goo.ne.jp)click

国立民族学博物館のウメサオタダオ(梅棹忠夫)特別展の展示click


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