九条で映画を観た後、阪神電車ナンバ線に乗って一駅の西九条へ移動。エキチカの食堂で今見た映画の話をR・Nさんとしながら杯を重ねる。一人で映画を観るのもよし、二人で観てそのあと映画の話を交すのも楽しい。飲んだ後は、JR西九条駅から大阪駅へ。香里園に帰るNさんはそのまま京橋へ。大阪駅で下車すると構内のギャレの跡にオープンしたマルシェが見えた。
殆どデパ地下の雰囲気だ。大阪駅周辺は大変な商いの競合が始まっている。



阪急百貨店も7年越しの工事が終わって明日の全面オープンを控え、賑わっていた。


この入口を見るとついクシカツの『松葉』に寄りたくなる。この日はいつもの湯豆腐と白角ハイボールを頼み、美味しく飲んで食べて、ふと隣の男性に「ここはよく来られるんですか?」と話しかけると、「はい、子供の時からオヤジの買い物に大阪へついて來ると、毎回ここへオヤジが來るのでもう長いです」。それから話は床屋談義のように続き、自分とよく似た見方、考え方をする人で、話が楽しくついついお代わりを頼み、結構酔っぱらいました。隣の彼は昭和23年生まれで、本を書く人のようでした。

東京の「あけぼの」のおかきは関西では大阪の大丸でしか売っていません。残念ながら「げんこつ」は売れないらしく、「われげんこつ」しか置いていませんが、「あけぼの」のおかきとは36年の付き合いなので、つい大阪駅前大丸の地下で購入してしまいました。

殆どデパ地下の雰囲気だ。大阪駅周辺は大変な商いの競合が始まっている。



阪急百貨店も7年越しの工事が終わって明日の全面オープンを控え、賑わっていた。


この入口を見るとついクシカツの『松葉』に寄りたくなる。この日はいつもの湯豆腐と白角ハイボールを頼み、美味しく飲んで食べて、ふと隣の男性に「ここはよく来られるんですか?」と話しかけると、「はい、子供の時からオヤジの買い物に大阪へついて來ると、毎回ここへオヤジが來るのでもう長いです」。それから話は床屋談義のように続き、自分とよく似た見方、考え方をする人で、話が楽しくついついお代わりを頼み、結構酔っぱらいました。隣の彼は昭和23年生まれで、本を書く人のようでした。

東京の「あけぼの」のおかきは関西では大阪の大丸でしか売っていません。残念ながら「げんこつ」は売れないらしく、「われげんこつ」しか置いていませんが、「あけぼの」のおかきとは36年の付き合いなので、つい大阪駅前大丸の地下で購入してしまいました。



高峰秀子追悼特集をやっている九条の映画館「シネヌーヴォ」に行きました。10時前に映画館の前でR・Nさんと待ち合わせました。
「乱れる」のシナリオは高峰の夫、松山善三が書いています。
監督は成瀬巳喜男。東宝 昭和39年 高峰秀子、加山雄三、草笛光子、三益愛子 。前半部分はホームドラマに見まがう展開だが、後半は高峰と加山の二人の道行が衝撃のラストに向かって進んでいく。こんな結末ってありか!と腹立たしく哀しい。高峰も草笛も美しい。そして三益愛子が優柔不断の母親役を見事に演じている。太平洋戦争が終わって18年、その戦争が結局は一人の女の人生を決めてしまった。こんなに丁寧に人の心の動きをさりげなく、しかも深く描写する映画を観てしまうと、最近の映画の秀作でも底が浅く見えてしまうのが困る。この映画はテレビでも観たが、モノクロ映画は特に映画館の大画面で見ないと細部を見落として、映画の良さが半減するなあと感じた。




地下鉄中央線九条の駅

加山雄三が凛々しい青年をストレートに演じていて上手いなと思いました。若大将シリーズの加山とは別人でした。

シネヌーヴォのHPの惹句から引用。
「清水で酒店を切り盛りする未亡人が、嫁いだ時には子供だった義理の弟の求愛に惑う…。女の哀しさ、厳しさをしみじみと描く成瀬の代表作の1本。終盤の道行に至って至高の輝きを放ち出すメロドラマの傑作。幾重にも苦しむヒロインの繊細な心を演じる高峰秀子が素晴らしい!」
京都の桂坂地区との交流会へいく集まりの集合場所は神戸市役所3号館の前でした。三宮駅から地下街や地下道を通っていくと

近くまで傘をささずにいけます。地下道から地上への出口の一つが東遊園地にあります。遊園地と言う名前は、ここが開国後外人居留地の中にあって遊園の場所だったころの名前がそのまま使われています。現在は東公園と言っている人もいます。





近くまで傘をささずにいけます。地下道から地上への出口の一つが東遊園地にあります。遊園地と言う名前は、ここが開国後外人居留地の中にあって遊園の場所だったころの名前がそのまま使われています。現在は東公園と言っている人もいます。




雨の中沢山の人が嵐山の紅葉狩りに来ていました。天龍寺の庭園は初めて入ったような気がしますが美しい御庭でした。
中型バスに乗った神戸からの19人の団体は、庭園を鑑賞したあと、近くの京都大学 桂キャンパスに向かいました。そしてキャンパス内にあるレストラン「ラ・コリーヌ」で昼食を摂ったあと、メインの訪問先である桂坂の住宅地区に向かいました。ジャカルタのスコールのようなスケールの雨の中をずぶぬれになって一時間以上歩きましたが、雨足の厚みと量は想定外のものでありました。
アルバムは真ん中の白い矢印をクリックしてスタートしてください。写真は23枚あります。右下の拡大アイコンをクリックすると大判サイズになります。

2012.11.11 ~ 2012.11.17
閲覧記事数: 8218 PV
訪問者数: 2304 IP
週間ランキング: 2215 位/1,787,706ブログ(gooブログ)
中型バスに乗った神戸からの19人の団体は、庭園を鑑賞したあと、近くの京都大学 桂キャンパスに向かいました。そしてキャンパス内にあるレストラン「ラ・コリーヌ」で昼食を摂ったあと、メインの訪問先である桂坂の住宅地区に向かいました。ジャカルタのスコールのようなスケールの雨の中をずぶぬれになって一時間以上歩きましたが、雨足の厚みと量は想定外のものでありました。
アルバムは真ん中の白い矢印をクリックしてスタートしてください。写真は23枚あります。右下の拡大アイコンをクリックすると大判サイズになります。


2012.11.11 ~ 2012.11.17
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昼は定食が2種類あると聞いていたので、行ってみました。前菜とスープとメインは麵か飯から選択。この日は魯肉飯(ルーローハン)

と炸醤麵(ジャージャーメン)でした。お椀が深いので少量に見えますが、よく混ぜて食べだすとしっかりボリュームがありました。
それぞれ一つずつオーダーしてシェアーしました。ソフトな味付けですが、確かな本場の台湾家庭料理。歩いて行ける範囲にあるのは嬉しい。
ランチタイムもリピーターになりそうです。

スープは大根スープで細くスライスした生姜が効いていておいしい。

この小前菜を見た瞬間、グラス紹興酒を頼んでしまいました。定食セット800円。台湾紹興酒550円。

土曜日のランチ定食はお粥セット。次回は土曜日に行こうと思います。まだ餃子や焼売の天心セットも食べていませんし。
店までの道にこんな昆虫店があります。


と炸醤麵(ジャージャーメン)でした。お椀が深いので少量に見えますが、よく混ぜて食べだすとしっかりボリュームがありました。
それぞれ一つずつオーダーしてシェアーしました。ソフトな味付けですが、確かな本場の台湾家庭料理。歩いて行ける範囲にあるのは嬉しい。
ランチタイムもリピーターになりそうです。

スープは大根スープで細くスライスした生姜が効いていておいしい。

この小前菜を見た瞬間、グラス紹興酒を頼んでしまいました。定食セット800円。台湾紹興酒550円。

土曜日のランチ定食はお粥セット。次回は土曜日に行こうと思います。まだ餃子や焼売の天心セットも食べていませんし。
店までの道にこんな昆虫店があります。


上映日程

上映作品



上映作品の続きはこちら 映画館“シネヌーヴォ”のHP。
高峰秀子 略歴(シネヌーヴォのHPから引用)
◆1924年3月27日、平山錦司・イソ夫婦の長女として北海道函館市に生まれる。4歳の時に母を失い、父親の妹・志げの養女となり東京にやって来る。5歳の時、養父と松竹蒲田撮影所を見学に行くが、この日は偶然『母』の子役のオーディションの日で、養父がその列に加えたことから、審査員で監督でもある野村芳亭により大抜擢される。『母』(29年)は大ヒットし、一躍子役として認められる。
芸名の高峰秀子は、養母が女活弁士として活躍していた時の名前。秀子と命名したのも志げだった。以後、ことあるごとに口をはさむ志げとの葛藤は長く高峰を苦しめるとともに、親族が彼女の収入に頼ることになる金銭関係の問題など、人間への不信感にもなった。養母との関係を知ってか、五所平之助、東海林太郎らが養子にと働きかけるが、養母が尽く反対する。その後も小津安二郎『東京の合唱』(31年)、清水宏『情熱』(32年)、五所平之助『不如帰』(同)など数多くの名匠の作品に出演。37年P.C.L.に移籍。山本嘉次郎の『綴方教室』(38年)は初期代表作になる。
足掛け3年を費やした『馬』(41年、山本嘉次郎)では、天才子役から女優へと成長。助監督を務めた黒澤明に恋心を抱くが、養母の反対で別れさせられた。山中貞雄追悼作品『その前夜』(39年、萩原遼太郎)、大阪でロケをした『花つみ日記』(同、石田民三)や、41年には成瀬巳喜男監督との初主演作『秀子の車掌さん』に出演。演技面では、彼女の明るいキャラクターから「デコちゃん」の愛称でみんなにかわいがられ、戦時下でも明るい娯楽作品が多かった。出征兵の中には高峰のブロマイドを胸に戦地へと旅立った者もおり、戦後の彼女の反戦思想に大きな影響を与えた。戦時中の代表作には『婦系図』(42年)、『阿片戦争』(43年、いずれもマキノ正博)などがある。
◆戦後、東宝争議に際して、争議に反対し、大河内伝次郎、長谷川一夫、原節子、山田五十鈴らと「十人の旗の会」を結成し、その後新東宝に移籍。『春の戯れ』(49年、山本嘉次郎)、『細雪』(50年、阿部豊)、『宗方姉妹』(同、小津安二郎)などに主演。『細雪』の原作者・谷崎潤一郎や日本画壇の巨匠・梅原龍三郎らと親交を結び、可愛がられる。50年フリーとなる。51年、日本初のカラー作品『カルメン故郷に帰る』(木下惠介)に出演。以後木下作品の重要な俳優となる。養母とのごたごたから逃れるように、フランスに半年留学。帰国後、『朝の波紋』(52年、五所平之助)、『稲妻』(同、成瀬巳喜男)と傑作に相次いで出演。53年に五社協定が結ばれるが、フリーであることから、どこにもに拘束されず数々の映画会社の作品に出演。女優としての日本映画の黄金時代に数々の名監督とコンビを組み、大車輪の活躍を見せる。
54年は、国民映画とも呼ばれ、日本中を涙で包み込んだ『二十四の瞳』、続いて『女の園』に出演。いずれも木下惠介の傑作で、キネマ旬報ベストテン1位・2位に輝く。高峰も女優賞を独占。翌55年は成瀬・高峰の最高傑作にして日本のメロドラマ史上に輝く最高峰『浮雲』に出演。その絶頂期、木下組の助監督だった松山善三と結婚。財布を養母に握られていたことから結婚費用がなく、借金しての挙式だった。その後も、日本のトップ女優として企画を選びつつ数々の傑作・話題作に出演。とりわけ、木下惠介と成瀬巳喜男作品には競うように出演(木下作品へは13本、成瀬作品には17本出演している)。61年には夫・松山善三のデビュー作『名もなく貧しく美しく』に出演する。成瀬巳喜男とは「最も相性の合う」監督で、69年に成瀬が亡くなったときは、「私という女優も終わったと思う」と語り、それは「殉死」の気持だったという。
◆79年、木下惠介『衝動殺人 息子よ』の撮影中に、女優廃業を宣言し、引退。同年初のテレビ脚本『忍ばずの女』を執筆。以後、エッセイストとして活躍し、『わたしの渡世日記』『台所のオーケストラ』など多くの著書がある。2010年12月28日、肺ガンにより死去。昭和の時代にあって、日本映画史を体現した大女優であった。2012年、生誕88年を迎えた。

上映作品



上映作品の続きはこちら 映画館“シネヌーヴォ”のHP。
高峰秀子 略歴(シネヌーヴォのHPから引用)
◆1924年3月27日、平山錦司・イソ夫婦の長女として北海道函館市に生まれる。4歳の時に母を失い、父親の妹・志げの養女となり東京にやって来る。5歳の時、養父と松竹蒲田撮影所を見学に行くが、この日は偶然『母』の子役のオーディションの日で、養父がその列に加えたことから、審査員で監督でもある野村芳亭により大抜擢される。『母』(29年)は大ヒットし、一躍子役として認められる。
芸名の高峰秀子は、養母が女活弁士として活躍していた時の名前。秀子と命名したのも志げだった。以後、ことあるごとに口をはさむ志げとの葛藤は長く高峰を苦しめるとともに、親族が彼女の収入に頼ることになる金銭関係の問題など、人間への不信感にもなった。養母との関係を知ってか、五所平之助、東海林太郎らが養子にと働きかけるが、養母が尽く反対する。その後も小津安二郎『東京の合唱』(31年)、清水宏『情熱』(32年)、五所平之助『不如帰』(同)など数多くの名匠の作品に出演。37年P.C.L.に移籍。山本嘉次郎の『綴方教室』(38年)は初期代表作になる。
足掛け3年を費やした『馬』(41年、山本嘉次郎)では、天才子役から女優へと成長。助監督を務めた黒澤明に恋心を抱くが、養母の反対で別れさせられた。山中貞雄追悼作品『その前夜』(39年、萩原遼太郎)、大阪でロケをした『花つみ日記』(同、石田民三)や、41年には成瀬巳喜男監督との初主演作『秀子の車掌さん』に出演。演技面では、彼女の明るいキャラクターから「デコちゃん」の愛称でみんなにかわいがられ、戦時下でも明るい娯楽作品が多かった。出征兵の中には高峰のブロマイドを胸に戦地へと旅立った者もおり、戦後の彼女の反戦思想に大きな影響を与えた。戦時中の代表作には『婦系図』(42年)、『阿片戦争』(43年、いずれもマキノ正博)などがある。
◆戦後、東宝争議に際して、争議に反対し、大河内伝次郎、長谷川一夫、原節子、山田五十鈴らと「十人の旗の会」を結成し、その後新東宝に移籍。『春の戯れ』(49年、山本嘉次郎)、『細雪』(50年、阿部豊)、『宗方姉妹』(同、小津安二郎)などに主演。『細雪』の原作者・谷崎潤一郎や日本画壇の巨匠・梅原龍三郎らと親交を結び、可愛がられる。50年フリーとなる。51年、日本初のカラー作品『カルメン故郷に帰る』(木下惠介)に出演。以後木下作品の重要な俳優となる。養母とのごたごたから逃れるように、フランスに半年留学。帰国後、『朝の波紋』(52年、五所平之助)、『稲妻』(同、成瀬巳喜男)と傑作に相次いで出演。53年に五社協定が結ばれるが、フリーであることから、どこにもに拘束されず数々の映画会社の作品に出演。女優としての日本映画の黄金時代に数々の名監督とコンビを組み、大車輪の活躍を見せる。
54年は、国民映画とも呼ばれ、日本中を涙で包み込んだ『二十四の瞳』、続いて『女の園』に出演。いずれも木下惠介の傑作で、キネマ旬報ベストテン1位・2位に輝く。高峰も女優賞を独占。翌55年は成瀬・高峰の最高傑作にして日本のメロドラマ史上に輝く最高峰『浮雲』に出演。その絶頂期、木下組の助監督だった松山善三と結婚。財布を養母に握られていたことから結婚費用がなく、借金しての挙式だった。その後も、日本のトップ女優として企画を選びつつ数々の傑作・話題作に出演。とりわけ、木下惠介と成瀬巳喜男作品には競うように出演(木下作品へは13本、成瀬作品には17本出演している)。61年には夫・松山善三のデビュー作『名もなく貧しく美しく』に出演する。成瀬巳喜男とは「最も相性の合う」監督で、69年に成瀬が亡くなったときは、「私という女優も終わったと思う」と語り、それは「殉死」の気持だったという。
◆79年、木下惠介『衝動殺人 息子よ』の撮影中に、女優廃業を宣言し、引退。同年初のテレビ脚本『忍ばずの女』を執筆。以後、エッセイストとして活躍し、『わたしの渡世日記』『台所のオーケストラ』など多くの著書がある。2010年12月28日、肺ガンにより死去。昭和の時代にあって、日本映画史を体現した大女優であった。2012年、生誕88年を迎えた。