パストラミビーフサラダ。
焼ウインナとドイツ製の瓶詰ザワークラウト。
週に一回のコープこうべの配達日は届いた巻きずしになることが多い。
家人の誕生日祝いの抹茶のシフォンケーキのお相伴に預かった。ふわふわで旨かった。
楽屋ネタ。 時間差双子の兄妹。©M.M
八か月児はよく体を動かし、よく眠る。©M.M
来年の平昌(ピョンチャン)冬季五輪のテスト大会を兼ねたフィギュアスケートの四大陸選手権第3日は18日、韓国の江陵アイスアリーナで行われ、女子で17歳の三原舞依=神戸ポートアイランドクラブ、県芦屋高2年=が合計200・85点をマークし、初出場初優勝の快挙を果たした。
三原は16日のショートプログラム(SP)でノーミスの演技で4位につけ、この日のフリーも会心の滑りで1位になった。自己ベストを10点近く更新し、逆転で頂点に立った。
三原は神戸市須磨区出身。15年12月に発症した膝などの関節が痛む難病を乗り越え、シニア転向1年目の今季、グランプリシリーズのスケートアメリカで3位に躍進。全日本選手権でも3位に入り、3月の世界選手権代表に選ばれている。
■三原舞依の話
自分が1位にいることが信じられない。夢のよう。とてもたくさんの声援をいただいて、とても力になった。(共同)
今回検証に使われる金塊は、その重さは1キログラム、値段にして約450万円(約4万ドル)となっている。
つまりこの手のひらサイズの貴金属は、日本人の平均年収より高価というワケだ。
肝心の実験結果は、機械の圧倒的なパワーに対抗できるハズもなく、塊は一瞬でグニャグニャに。“圧殺”を繰り返すうちにプレス機の模様が移ったり、
本体に貼りついたりしたのは、恐らく金のやわらかい性質のせいだろう。引用元。
つまりこの手のひらサイズの貴金属は、日本人の平均年収より高価というワケだ。
肝心の実験結果は、機械の圧倒的なパワーに対抗できるハズもなく、塊は一瞬でグニャグニャに。“圧殺”を繰り返すうちにプレス機の模様が移ったり、
本体に貼りついたりしたのは、恐らく金のやわらかい性質のせいだろう。引用元。
2年ぶりに平井の諏訪神社に御礼のお参りをしました。土地の神社はお願いをするところではなく、ご加護に感謝をするところと
知ってからもう何年にもなります。平井の一家が無事にこの一年を送らせて頂いたことに感謝の拝礼をしました。
境内には白梅が咲いていました。
お参りしてから平井駅から同じ総武線の船橋へ向かいました。
船橋で船橋社中の社主さんと仙台の牛タンと麦飯とろろのお店でお昼をご一緒しました。
食事の後の喫茶店でのお喋りもあって楽しい時間を有難うございました。
社主さんとは昨年9月京都で開催された「書 坑迫柏樹の世界 展」でお会いして以来でした。
お別れした後、船橋で総武快速に乗り、乗り換えなしで品川駅へ。品川からがらがらの新幹線ひかりの自由席に座り帰神しました。
ひかりに乗るのはジパング倶楽部加入による乗車券と特急券30%割引を使うためです。
余談ながら親が信州諏訪の諏訪大社の氏子の家の出の者としては、
(諏訪大社上社👇)
自分がたまたま生まれた三重県四日市市に1400年代に信州諏訪から勧請された諏訪神社が四日市市の中心にあり、
家族で6年住んだ南柏がある千葉県流山市の(駒木)にも諏訪神社があり、
今も住む神戸にも諏訪神社があるのは諏訪族?の血をひく者としてはありがたいことです。
特に平井の諏訪神社に関しては、若夫婦がどこの街に住もうかとあちこちの土地をみてまわり、最終的に平井で部屋を借りることに決めた時はまだ、
当地に江戸時代からの諏訪神社があることは全く知らなかったそうで、私にしてみれば全国の諏訪神社の祭神である建御名方命から
ここに住みなさいと誘って頂いたような(そんなことはありえませんが)気がするほどです。
知ってからもう何年にもなります。平井の一家が無事にこの一年を送らせて頂いたことに感謝の拝礼をしました。
境内には白梅が咲いていました。
お参りしてから平井駅から同じ総武線の船橋へ向かいました。
船橋で船橋社中の社主さんと仙台の牛タンと麦飯とろろのお店でお昼をご一緒しました。
食事の後の喫茶店でのお喋りもあって楽しい時間を有難うございました。
社主さんとは昨年9月京都で開催された「書 坑迫柏樹の世界 展」でお会いして以来でした。
お別れした後、船橋で総武快速に乗り、乗り換えなしで品川駅へ。品川からがらがらの新幹線ひかりの自由席に座り帰神しました。
ひかりに乗るのはジパング倶楽部加入による乗車券と特急券30%割引を使うためです。
余談ながら親が信州諏訪の諏訪大社の氏子の家の出の者としては、
(諏訪大社上社👇)
自分がたまたま生まれた三重県四日市市に1400年代に信州諏訪から勧請された諏訪神社が四日市市の中心にあり、
家族で6年住んだ南柏がある千葉県流山市の(駒木)にも諏訪神社があり、
今も住む神戸にも諏訪神社があるのは諏訪族?の血をひく者としてはありがたいことです。
特に平井の諏訪神社に関しては、若夫婦がどこの街に住もうかとあちこちの土地をみてまわり、最終的に平井で部屋を借りることに決めた時はまだ、
当地に江戸時代からの諏訪神社があることは全く知らなかったそうで、私にしてみれば全国の諏訪神社の祭神である建御名方命から
ここに住みなさいと誘って頂いたような(そんなことはありえませんが)気がするほどです。
2月某日、昼の13時 阪急神戸三宮駅東改札口に7名の阪神在住弓道部OBが集合。今回の集まりは「神仙閣」がやっているカジュアルな中華の店「老房」です。
「神仙閣」の前の社長はOBの一人の兵庫高校時代の同級生です。
店の天井が高くて、西洋のお屋敷にいるような雰囲気の中で、話題の中心はやはりトランプ大統領の話に。
料理は一人一人の皿にとりわけられて運ばれてきました。
伝統的な味の中華料理を西洋料理風なserveでおいしく頂きました。
JR総武線の小岩駅を降りると、駅の構内に栃錦関の銅像がありました。子供のころ相撲雑誌で栃錦は小岩の出身と知っていたその小岩に来ることが出来て感激です。
Wikipedia:栃錦 清隆(とちにしき きよたか、1925年2月20日 - 1990年1月10日)は、東京府南葛飾郡(現・東京都江戸川区)出身の元大相撲力士。第44代横綱。・・中略・・
没後の1990年12月25日、相撲界における多大な功績を讃えられ、故郷・江戸川区南小岩にあるJR総武線・小岩駅の改札前に、横綱当時の土俵入りの姿をかたどった
栃錦の銅像が建てられた。栃錦像は現在も小岩駅のシンボルとして、待ち合わせ場所の目印になっている。
小岩も隣の新小岩も昔ながらの商店街がいくつもあって、商店街好きな阿智胡地亭にとっては憧れの街です。一家と共に楽しく商店街巡りをしました。
商店街のあちこちに稀勢の里関へのお祝いの言葉がありました。街をあげて喜んでいる様子がうかがえました。
レトロな雰囲気のお店がいくつもあります。
歩いている途中に公園で一休みするとカンザクラが花をつけていました。
昼食はインド料理の「カシミール」という店をスマホで見つけてくれて入りました。満員でしたが少し待って席に着きました。
とてもおいしくてこの味なら流行るわけだと納得です。それにしてもここ10年くらいで日本全国どこへ行ってもインド人シェフがいる
インド料理店があるのはインド料理好きにはありがたいことです。
小岩駅ホームからのシーン。
小岩から二駅の平井で降りると夕闇が迫っていて、遠くに夕日を受けた富士山が見えました。
スカイツリーもきれいに見えました。
2017.02.05 〜 2017.02.11
閲覧記事数:11149 PV、訪問者数:1822 IP、ランキング:2804 位 / 2672101ブログ
Wikipedia:栃錦 清隆(とちにしき きよたか、1925年2月20日 - 1990年1月10日)は、東京府南葛飾郡(現・東京都江戸川区)出身の元大相撲力士。第44代横綱。・・中略・・
没後の1990年12月25日、相撲界における多大な功績を讃えられ、故郷・江戸川区南小岩にあるJR総武線・小岩駅の改札前に、横綱当時の土俵入りの姿をかたどった
栃錦の銅像が建てられた。栃錦像は現在も小岩駅のシンボルとして、待ち合わせ場所の目印になっている。
小岩も隣の新小岩も昔ながらの商店街がいくつもあって、商店街好きな阿智胡地亭にとっては憧れの街です。一家と共に楽しく商店街巡りをしました。
商店街のあちこちに稀勢の里関へのお祝いの言葉がありました。街をあげて喜んでいる様子がうかがえました。
レトロな雰囲気のお店がいくつもあります。
歩いている途中に公園で一休みするとカンザクラが花をつけていました。
昼食はインド料理の「カシミール」という店をスマホで見つけてくれて入りました。満員でしたが少し待って席に着きました。
とてもおいしくてこの味なら流行るわけだと納得です。それにしてもここ10年くらいで日本全国どこへ行ってもインド人シェフがいる
インド料理店があるのはインド料理好きにはありがたいことです。
小岩駅ホームからのシーン。
小岩から二駅の平井で降りると夕闇が迫っていて、遠くに夕日を受けた富士山が見えました。
スカイツリーもきれいに見えました。
2017.02.05 〜 2017.02.11
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「蟻の兵隊」阿智胡地亭の映画レビュー:
帝国陸軍の正規軍だったが日本の官僚にいなかったことにされた兵隊たち
昭和20年8月15日、ポツダム宣言を受け入れ国際連盟に属する連合国に降伏した帝国陸軍。しかしそれ以降も中国に残り、
昭和24年まで共産軍と戦った日本軍がいた・・。
奥村和一さんはその日本軍の兵の一人だった。
中国山西省で澄田第一軍司令官(元日銀総裁 澄田 智 氏の御尊父)の軍命により2600人の将兵が残留し戦闘を4年間続けた。
その間550人が戦死した。
そしてその残った将兵たちは、彼らを山西省に置いて偽名で中国を脱出した澄田中将の国会証言(彼らは命令でなく各自が自ら希望して
中国に残ったのです)により軍籍離脱の扱いを受け、今も軍人恩給を受けることはない。
残留将兵は昭和24年に中国の捕虜となり、抑留され昭和30年にようやく帰国した。そして自分たちが自分の意思で中国に残ったと扱われて
いることを知った。その時奥村さんは30歳になっていた。
奥村和一を含む彼らは、国家に対し「軍の命令」により残留したことを認めるように訴訟を起したが、長い長い裁判の末、最高裁は上告を棄却した。
その判決書には当該裁判長は転勤と言う物理的な理由で署名していないが、そんなことが認められていることもこの映画で初めて知った。
彼らはこれで日本国から、自由意志で中国に残った民間人だと公に認定された。(この裁判の経過を辿ると、国策捜査があるくらいなら、
国策判決も充分ありえるように思えてしまう。
抽象用語の「国」ではなく、そういう判断をし、司法にそういう指示をする人間たちがいるのかもしれない、おそらく彼らが国なのだろう)
この映画は80歳の奥村和一の、事実認定を求める日常行動と中国での調査活動を撮影したドキュメンタリー映画である。
帰国して50年間、奥さんにも話さなかった初年兵教育の仕上げ課程での中国人銃剣刺殺の場に立つ奥村和一。
誰がどうという事でなく、普通の人間が人を殺す事で自分が生き延び、それを国がシステムとしてやらせる状況があったと・・・思う。
黒澤映画の「七人の侍」の宮口精二にどこか雰囲気が似ている奥村和一さん、貴方の昭和20年8月15日以降の行動は日本国としてはなかった
ことに認定されました。国家としてポツダム宣言を受諾しているにもかかわらず、それ以降も帝国陸軍の軍命が存続したとは認める事は
出来ないと言う事のようです。
しかしこの映画を見る限りは、陸大出の職業軍人である一人の軍司令官の戦犯容疑を国がかばう為に、2600人の一般将兵の人生と彼らへの
国家補償を平然と消したように見える。
靖国神社の社頭でスピーチして参詣客からタレントのような拍手を浴びた「残置諜者・小野田元少尉」と貴方の短いやりとり。
その中で奥村さんの言葉に激昂して思わず出てしまった小野田さんの醜悪な顔つきと、貴方の涼しげな眼の対比で人間の裸の姿が見えました。
これを語らずには昭和23年に「天皇陛下万歳」と中国山西省で戦死した戦友に申し訳なくて死ぬに死ねないと言う奥村和一さん、
こんな持続力のある信念を持つ日本人が、自分の同時代に生きているのかと思いましたよ。
余談ですが、奥村和一さんと共に行動している80歳を越える元将兵のなかに、40数年前に階段教室で講義を聞いたことがあることがある
「百々 和」先生がおられて、スクリーンに登場されたのには驚きました。教室で講義を受けただけなので百々先生がそんな体験をされた人
だとは全く知りませんでした。
2006年09月11日(月)記