奄美 海風blog

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島津氏の出自

2010年01月06日 | 歴史 民俗

ウィキペディアと本で調べました。その記録です。

島津氏

平安時代末ごろの惟宗広言(これむね・ひろこと)が祖と伝えられる。
広言は、秦の始皇帝の末裔の渡来人の秦氏の子孫の流れをくむともいわれるが定かではない。

最近では、島津氏の祖は、惟宗姓を称した島津忠久である、と言われる。

近衛家(後述)の家司であった惟宗広言が忠久の養父であるとの説(室町時代の記録)もあったが、最近の研究では、島津忠久自身が惟宗家の出身で源頼朝から破格の処遇を受けたとする説が有力。

近衛家(このえけ=五摂家(鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家のひとつで公家である)と島津家との密接な関係は、こちらを参考。

江戸時代の薩摩藩と幕府との間の政略結婚(竹姫 茂姫 篤姫)も近衛家の支援なくしては実現できなかった。また、そのために藩財政は圧迫され、奄美や沖縄の人々に大きな負担となってのしかかったことも忘れてはならない。

現在では、忠久が頼朝の落胤であるとする説は「偽源氏説」とされ否定されている。

島津の荘の起源は、万寿年間(1024~1027年)、大宰府の役人だった平季基(たいらのすえもと)と弟の良宗(よしむね)が開発した日向国諸県群(ひゅうがこく・もろかた)島津(現在の宮崎県都城市郡元(みやこのじょうし・こおりもと)付近)を関白(天皇の代わりに政治を行う職。実質的に公家の最高位であった)・藤原頼道(よりみち=藤原道長の子)に寄進したことによる。

何度かの争いのあと、平氏滅亡後の1185年、島津忠久は、島津の荘の下司職(げししき=荘園管理実務)に補任(ぶにん)、翌年に地頭職(じとうしき=領主)となり、支配権が保証された。

島津氏は鎌倉時代薩摩国島津の荘の下司職・地頭職を保持、のち薩摩・大隈・日向の守護を世襲した。

島津氏の薩摩下向が本格化するのは、元寇(げんこう)=蒙古襲来(文永の役(ぶんえいのえき・1274年)弘安の役(こうあんのえき・1281年)を契機とした、3代島津久経(ひさつね)の以降のこととされる。領国への土着(在地化)が確認できるのは、三州守護職を回復し、島津氏の守護大名としての基礎を作った5代貞久(ただひさ)以降ともいわれる。

島津氏発祥の地 論争 google

南北朝~室町時代は一族の内紛分裂を繰り返したあと、戦国時代に貴久(たかひさ1514-1571 15代当主)が出て薩摩・大隈を統一し、子の義久は九州全土をほぼ平定し、島津氏の全盛期を築いた。

しかし、九州統一目前にした1587年に豊臣秀吉に敗れ(九州の役)、版図は薩隈日3ケ国に縮小した。

秀吉の朝鮮出兵(文禄の役1592年)まであと5年、薩摩の奄美・琉球侵攻まで、あと19年の時である。

江戸時代は外様大名屈指の雄藩として77万石(後述)を領した。

現在の当主は歴代33代?にあたり、去年、5月徳之島町であった「薩摩藩、奄美・琉球侵攻四百年記念行事」で来島してあいさつし話題になった。

====シリーズ「あの時も歴史は動いていた」第2回につづく

島津氏 歴代当主 wiki 島津氏

1 島津忠久 
2 島津忠時 
3 島津久経 
4 島津忠宗 
5 島津貞久 
6 島津師久 
6 島津氏久 
7 島津伊久 
7 島津元久 
8 島津久豊 
9 島津忠国 
10島津立久 
11島津忠昌 
12島津忠治 
13島津忠隆 
14島津勝久 
15島津貴久 争乱の薩摩を統一。 
16島津義久 三州を統一し、一時九州統一目前に迫るなど島津氏の全盛期を築く。
17島津義弘 
18島津忠恒/家久(1602-1638) 初代鹿児島藩主。1609年奄美侵攻
19島津光久 
20島津綱貴 
21島津吉貴 
22島津継豊 
23島津宗信 
24島津重年 
25島津重豪 
26島津斉宣 
27島津斉興 
28島津斉彬 
29島津忠義 12代鹿児島藩主 斉彬の養子。島津久光の嫡男。明治維新