奄美 海風blog

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大相撲7月場所(2018) 三日目 奄美力士星取表(幕下上位以上)

2018年07月10日 | 大相撲
大相撲7月場所(2018) 三日目 奄美力士星取表(幕下上位以上) 
幕内
明生(瀬戸内町)22歳
7月 西前16 ***        0勝3敗
5月 東十4*OOOOOOO*OO*O** 10勝5敗
3月 東十3 O***O**OOOOO*** 7勝8敗
1月 西十4 ****O**O%*OOOOO 8勝7敗
 
明生(0勝3敗)上手投げ 隠岐の海(2勝1敗)
abematb 17分13秒ごろ立ち合い
 
気持ちの強さは師匠も認める明生。負けた相撲も内容は悪くない相撲が多い。
 
隠岐の海の寄りを耐えて投げの打ち合いに持ち込んだあたりは、まだまだ好調のあかしだろう。
隠岐の海の左下手は深く、じわじわと力の入る位置をさぐりながら寄った。
一方、明生の左下手は、残したあと、追い込まれ、回り込んで投げへ転じるところで
急遽持ち変えるかっこうになっている。
はちきれんばかりの若さの明生(22)の奮闘も、ふところを深くして、終始、自分十分の攻めを維持したベテラン隠岐の海(32)の技ありの強さには歯がたたなかった。
 

 
十両
大奄美(龍郷町)25歳
7月 東十2 OO*        2勝1敗
5月 東前11*OOO******O**** 4勝11敗
3月 東前16 O*OOOOOO****OOO10勝5敗
3月 東十9 O**OO**OOOO***O 8勝7敗
 
十両二枚目●大奄美(2勝1敗)寄り切り 前頭十五枚目○竜電(2勝1敗)
abematb 8:39秒くらい立ち合い
 
千代ノ皇(与論町)27歳
7月  東十11 **O             1勝2敗
 
5月 東十9**O*O*O*O****%O 6勝9敗
3月 東十6 *OO*O**O***O**O 6勝9敗
1月 西十6 OOOOOOO******O* 8勝7敗
 
幕下
里山(奄美市)37歳
7月 東下14 *-O      1勝1敗
 
5月 東下22*-O--O-O*--O--O 5勝2敗
3月 西下14 O-O--*-*-*-*--O 3勝4敗
1月 西下20 O--*O--O-*-O*--4勝3敗

今週の西郷どんは本編はお休みで、特番第2弾「いざ革命へ!西郷と4人の男たち」 視聴率は11・8%だった。

2018年07月10日 | 歴史 民俗

今週の西郷どんは本編はお休みで、特番第2弾「いざ革命へ!西郷と4人の男たち」
視聴率は11・8%だった。

英傑4人とは 勝海舟、坂本龍馬、岩倉具視(笑福亭鶴瓶さん)、桂小五郎だ。

名瀬の書店でもその著書をよく見かける歴史家の磯田道史さんが4人の金言をわかりやすく、おもしろく紹介するもの。

前回、沖永良部の第25話は12・7%。

また、12話と13話の間に(4/1日)放送された特番第1弾『西郷どんスペシャル~鈴木亮平×渡辺謙の120日~』は9.7%だった。

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特番第2弾のタイトルが「いざ革命へ・・・」となっている。

前回、沖永良部で西郷を見送る川口雪篷が
「革命」と書かれた旗をふっていたのは、大河ドラマ後半への応援の意味もあったのだろうか。

以下は、番組の感想ではありません。
思いついたままキーを叩きます。(数字等は検索で確かめたつもりです)

維新1868までは4年くらいしかないが、このとき(沖永良部から出る)西郷は35、6才。

斉彬に抜擢され西郷が初めて江戸にいったのは28才(安政元年1854)

奄美大島に来たのが安政6年(1859年)1月 
そこで西郷は33才、愛加那は23才のとき結婚し、2人の子を産み、たぶん生涯でもっとも幸せな3年あまりを過ごす。

西郷召喚の蒸気船が沖永良部島和泊に迎えに来て川口雪篷が旗をふったのは元治元年(1864年)

西郷初めての江戸から10年目のことで、そのうち
通算約5年の島暮らし。そして沖永良部から召喚後すぐ(半年後)京都で西郷の初陣禁門の変(1864年8月20日)へと、

後半となる次回はすすむのだろう。

西郷が西南戦争、明治10年(1877年)で死ぬまで13年くらい。
享年51(満49才)

こうしてみると西郷の人生で島暮らしの時期と期間、経験は半端なものではない。

===

ついでながら、そもそも斉彬が西郷を大抜擢したのは、西郷がよく提出していた藩の農政などにたいする上申書の内容が秀逸だったからと言われる。

元治元年(1864年)に沖永良部から鹿児島に帰った西郷は足が立たなかったと言われるほど、島での牢生活で体が弱っていたなかで、
島三島(喜界島 奄美大島 徳之島の三島)の藩による過酷な収奪で困窮を極める島民の窮状を訴える上申書を手掛けている。(沖永良部島 与論島は入っていない)

これはさきに奄美大島で、自分は、藩から扶持(生活手当)を受けている身ながら、島民の窮乏を知って愕然とし、帰還の際、提出できないまま、2か月後、捕縛(公武周旋の久光の「下関で待て」を破る 前々回)され、ふたたび遠島となっていたものだという。

島民の窮乏は、西郷が尊敬してやまない斉彬と斉彬の曽祖父にあたる重豪の「蘭癖」もけっして無縁ではない。

11歳で家督を継ぎ孫の斉興(なりおき)の代まで藩政に関与し、

島にも多くの政治犯を送こととなり、西郷や大久保にも少なからず影響を与えた大きな2つのお家騒動(近思録崩れ お由羅騒動)にも関係があり、89才まで生きたといわれる重豪は、日本史の上でも大名らしい大名で重要な人物だが、島の人々にとっても、ツッコミどころの多い大名だ。この二人の蘭癖と、二人の「篤姫」の輿入れなど島は、大きな無理を強いられただろうと想像(記録もある)できるからだ。島の人ばかりではないのだろうが。

続�く