名瀬の書店でもその著書をよく見かける歴史家の磯田道史さんが4人の金言をわかりやすく、おもしろく紹介するもの。
前回、沖永良部の第25話は12・7%。
また、12話と13話の間に(4/1日)放送された特番第1弾『西郷どんスペシャル~鈴木亮平×渡辺謙の120日~』は9.7%だった。
===
特番第2弾のタイトルが「いざ革命へ・・・」となっている。
前回、沖永良部で西郷を見送る川口雪篷が
「革命」と書かれた旗をふっていたのは、大河ドラマ後半への応援の意味もあったのだろうか。
以下は、番組の感想ではありません。
思いついたままキーを叩きます。(数字等は検索で確かめたつもりです)
維新1868までは4年くらいしかないが、このとき(沖永良部から出る)西郷は35、6才。
斉彬に抜擢され西郷が初めて江戸にいったのは28才(安政元年1854)
奄美大島に来たのが安政6年(1859年)1月
そこで西郷は33才、愛加那は23才のとき結婚し、2人の子を産み、たぶん生涯でもっとも幸せな3年あまりを過ごす。
西郷召喚の蒸気船が沖永良部島和泊に迎えに来て川口雪篷が旗をふったのは元治元年(1864年)
西郷初めての江戸から10年目のことで、そのうち
通算約5年の島暮らし。そして沖永良部から召喚後すぐ(半年後)京都で西郷の初陣禁門の変(1864年8月20日)へと、
後半となる次回はすすむのだろう。
西郷が西南戦争、明治10年(1877年)で死ぬまで13年くらい。
享年51(満49才)
こうしてみると西郷の人生で島暮らしの時期と期間、経験は半端なものではない。
===
ついでながら、そもそも斉彬が西郷を大抜擢したのは、西郷がよく提出していた藩の農政などにたいする上申書の内容が秀逸だったからと言われる。
元治元年(1864年)に沖永良部から鹿児島に帰った西郷は足が立たなかったと言われるほど、島での牢生活で体が弱っていたなかで、
島三島(喜界島 奄美大島 徳之島の三島)の藩による過酷な収奪で困窮を極める島民の窮状を訴える上申書を手掛けている。(沖永良部島 与論島は入っていない)
これはさきに奄美大島で、自分は、藩から扶持(生活手当)を受けている身ながら、島民の窮乏を知って愕然とし、帰還の際、提出できないまま、2か月後、捕縛(公武周旋の久光の「下関で待て」を破る 前々回)され、ふたたび遠島となっていたものだという。
島民の窮乏は、西郷が尊敬してやまない斉彬と斉彬の曽祖父にあたる重豪の「蘭癖」もけっして無縁ではない。
11歳で家督を継ぎ孫の斉興(なりおき)の代まで藩政に関与し、
島にも多くの政治犯を送こととなり、西郷や大久保にも少なからず影響を与えた大きな2つのお家騒動(近思録崩れ お由羅騒動)にも関係があり、89才まで生きたといわれる重豪は、日本史の上でも大名らしい大名で重要な人物だが、島の人々にとっても、ツッコミどころの多い大名だ。この二人の蘭癖と、二人の「篤姫」の輿入れなど島は、大きな無理を強いられただろうと想像(記録もある)できるからだ。島の人ばかりではないのだろうが。
続�く