平季基は現在の宮崎県都城市周辺の荒れ地を荘園として開墾しこれを関白の藤原頼通に寄進。後に日本最大級の島津荘となる(薩摩・大隅・日向)。
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2018年3月31日
頼通から5代目の基実から近衛家を称し(近衛家の祖)、以後島津家とは戦国から幕末まで対外貿易の権限や徳川幕府との婚姻など互いに重要な関係を保つことにな
平清盛は摂関家との連携のため基実を娘婿とするが、基実は若死し島津荘は清盛の事実上の支配下に。やがて平家は滅亡し、奪還すべく近衛家と利害が一致した鎌倉幕府は1185年、摂関家の家司である惟宗忠久を島津荘の下司職に任命。忠久は広大な島津荘を本貫にしようと島津姓を名乗った。(島津家の祖)
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2018年3月31日