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==この記事は、2010年1月 6日 (水曜日) 島津氏の出自 のつづきです。
豊臣秀吉の太閤検地(文禄4年1595)の領地朱印状によって
島津氏の領地・石高は初めて数字で把握された。
それによると、
薩摩国28万3500石余
大隅国17万5057石余
日向諸県郡(もろかたぐん)12万187石余
計57万8733石余
その後朝鮮出兵の戦功で5万石を加増される。
元和(げんな)3年(1617)、徳川2代将軍秀忠(ひでただ)の時、領地判物(りょうちはんもつ)を発給し、
島津氏の禄高は60万5607石余とされた。
それ以前の慶長14年(1609)、奄美・琉球侵攻によって琉球王国を附庸(ふよう=属国)とし、奄美諸島(道の島)を直轄地に編入していた。
これが、正式の領地として加えられるのは、三代家光のとき、寛永11年(1634)の領地判物で、
琉球国12万3700石と合わせて
合計 72万8700石余となった。俗にいう島津77万石は領地高としては確認できない。
籾高、玄米高については、大事なポイント。こちら 島津藩の石高表示についてyahoo 知恵袋
さて、奄美諸島の石高は?
奄美諸島における慶長検地の記録はない。
昇曙夢氏の『大奄美史』は「旧記によれば」として、大島5島「3万5614石」とあるが、その根拠たる旧記は明らかにされていない。
奄美諸島の検地記録が現れるのは奄美、琉球侵攻から12年後の元和7年(1621)の
4万3257石余である。
本琉球石高は、およそ8万石くらいということになる。
これは、いくつかの記録から推測される慶長期の石高2万3955石より、1万9300も多い。(増加の原因ははっきりしない)
トカラ列島
寛永16年(1639)の石高は497石 年貢は鰹節・煎汁・七島藺(い)が納められた。
参考 図説 『薩摩の群像』 学研
『しまぬゆ』 1 1609年 奄美・琉球侵略 「しまぬゆ」刊行委員会 南方新社
wiki 石高 石
====体積をあらわす単位 石
一石は大人一人が一年に食べる米の量に相当
なお、面積を表す日本の単位である反は、元は米1石の収穫が上げられる田の面積として定義されたものであった。
1石は下10斗にあたり、同じく100升、1,000合に相当する。
藩名 藩主 藩種 表高 主な領地 内高 wiki 石高より
将軍家 徳川家 将軍 400万石 飛騨・甲斐二国、および各地天領* 398万石
1 加賀藩 前田家 外様 103万石 加賀・能登二国と越中の大半 134万石
2 薩摩藩 島津家 外様 77万石 薩摩・大隅二国と日向の一部、南西諸島 75万石
3 仙台藩 伊達家 外様 63万石 陸奥の一部 99万石
4 尾張藩 尾張家 親藩 62万石 尾張・美濃二国と信濃の一部 88万石
5 紀州藩 紀州家 親藩 56万石 紀伊一国と伊勢の南部、大和の一部 58万石
6 熊本藩 細川家 外様 54万石 肥後の大半 69万石
7 福岡藩 黒田家 外様 47万石 筑前のほぼ全域 53万石
8 広島藩 浅野家 外様 43万石 安芸一国と備後の西半 49万石
9 長州藩 毛利家 外様 37万石 周防・長門二国 73万石
10 佐賀藩 鍋島家 外様 36万石 肥前佐賀郡 27万石
11 水戸藩 水戸家 親藩 35万石 常陸の一部 31万石
12 津藩 藤堂家 外様 32万石 伊勢・伊賀二国 28万石