お湯の国 日本

美しい日本の温泉地中心の旅記録(おんせん鑑定士:監修) 【記事・映像は著作権、人権保護法等により無断使用を禁じます】

たそがれ清兵衛ロケ現場(湯田川温泉)

2012年07月17日 |   ✑文学逍遥 紀行

真田広之主演「たそがれ清兵衛」のロケが行われた境内。
参道から社殿を望む。深い杉木立に真直ぐな階段参道が
清兵衛の真直ぐな武士を彷彿とさせる最高のロケ現場だ。

作家藤沢周平は湯田川温泉とは深い関係がある。代表的
な作品で映画化された『たそがれ清兵衛』の撮影現場と
なったのが温泉街中央部にある由豆佐売神社。映画では
実に渋い雰囲気を醸し出す。この階段参道の正面の小道
を抜けると共同浴場『正面湯』。斎藤茂吉、横光利一、
種田山頭火、竹久夢二など多くの文人が憩った温泉郷だ。

参照湯田川温泉の中央部にある由豆佐売神社

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太宰治生家(五所川原市金木町)

2012年02月28日 |   ✑文学逍遥 紀行

映像:晴れた金木町の中心部にある太宰治記念館「尾森県五所川原市:斜陽館

青森県西北部の地吹雪ツアーが始まるころの冬景色が懐かしい。筆者は実際に
3年間金木町に居住していた。ある休日晴れた日近郊の街に出かけようと金木
の町を一歩外にでたら、其処は白魔の空間だった。町中の青空が異常に見えた。

参照太宰治(含羞と失意の作家)探訪紀行

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井上靖の間(下北半島 下風呂温泉)

2012年01月11日 |   ✑文学逍遥 紀行

映像:この部屋から津軽海峡、北海道、いさり火を眺め執筆した

作家:井上靖は小説「海峡」を執筆。その仕上げとも思われるのが長谷旅館に長期
滞在
しての執筆活動。彼が宿泊した部屋は、海岸沿いにある長谷旅館の2F参号室
(海側)で、いつも人気でふさがっていた。

・・・少しぬるかったが、少しぐらいぬるいことはいまの二人には問題でなかった。
躰の表面から、じわじわと湯が内部に向って浸透して來るように、杉原には感じら
れた。ああ、湯が滲みて来る。本州の、北の果ての海っぱたで、雪降り積もる温泉
旅館の浴槽に沈んで、俺はいま硫黄の匂いを嗅いでいる。・・・
』(小説「海峡」より)

   2012年正月長谷旅館硫黄泉は硫黄臭は当時とかわらないが、泉温は
   激熱だった。測値は45℃当時とは掛け流し方法が違っていたと推測。
参照井上靖が「・・・湯が滲みる」と唸った長谷旅館の湯殿(忘れじの温泉)

その後:2019年4月現在、残念ながら長谷旅館は解体更地となった。
    長谷旅館を解体した時に、「井上靖の間2F三号室」は跡地に
    建築の公共施設「海峡の湯」の二階に、保存展示されている。

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カインの末裔碑(有島武郎 理想の村)

2011年12月07日 |   ✑文学逍遥 紀行

未だ、封建社会のなごりがある大正時代。有島武郎は裕福が故に
渡欧できて、近代思想に触れた。自由・博愛の念が彼を押し出す。
それが代表作、小説:『カインの末裔』を生み出したとも云える。

カインの末裔:終章部分を下記に抜粋
 『・・・二人の男女は重荷の下に苦しみながら少しずつ倶知安の方に動いて
  行った。椴松帯が向うに見えた。凡の樹が裸かになった中に、この樹だ
  けは幽鬱な暗緑の葉色をあらためなかった。真直な幹が見渡す限り天を
  衝ついて、怒濤のような風の音を籠めていた。二人の男女は蟻
のように
  小さくその林に近づいて、やがてその中に呑み込まれてしまった    ・・・

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文学の小道(湯河原温泉)

2011年08月01日 |   ✑文学逍遥 紀行

映像:万葉公園と称せられる渓谷沿いの散策ルート事・・・その先に足湯公園がある。

湯河原温泉の観光スポット。東京から近い事もあり多くの文人が足向けた。そして、
この渓谷沿いの散歩道を逍遥した。夏目漱石、 芥川龍之介、竹内栖鳳、国木田独歩、
池波正太郎、小林秀雄などはこの地に逗留、多くの作品をなした。他著名人も数多い。

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森鴎外の門(奈良公園正倉院)

2010年11月09日 |   ✑文学逍遥 紀行

森鴎外は、大正6年に帝室博物館の総長に任命され、東京・京都・奈良の帝室博物館
を統括する要職であった大正7年から10年迄、秋になると鴎外は正倉院宝庫の開封
に立ち合うため奈良を訪れており滞在中の宿舎がこの場所にあった。今は門のみ残る。

解説:奈良公園正倉院に隣接してこの史跡がある。森鴎外もまた、青春の一頁だった。

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赤い絲の像(北海道函館市)

2010年05月17日 |   ✑文学逍遥 紀行

北海道函館市函館湾緑の公園の一角に津軽海峡を越えてむつ湾を見つめる像が有る。
函館市と青森市がツインシテイ提携20周年の記念事業で設置されたものだが、この
モチーフが青森県の作家太宰治の小説「思い出」の赤い絲のエピソードが元である。

思い出:太宰治の小説抜粋
『・・赤い絲について語り合つた。それはいつか学校の國語の教師が授業中に生徒へ
 語つて聞かせたことであつて、私たちの右足の小指に眼に見えぬ赤い絲がむすば
 れてゐて、それがするすると長く伸びて一方の端がきつと或る女の子のおなじ足
 指にむすびつけられてゐるのである、ふたりがどんなに離れてゐてもその絲は切
 れない、どんなに近づいても、たとえ往来で逢つても、この絲はこんぐらかるこ
 とはない、さうして私たちはその女の子を嫁にもらふことにきまつてゐるのであ
 る・・・』

解説:これは太宰が弟との会話を文字化したものであるが、太宰治はこの赤い糸の
 ように、愛人と太いロープで繋がれて玉川上水で心中死体として発見された。太
 宰治には賛否両論があるが、やはり、妻子がありながら愛人と心中したという表
 (作家が裏か表かは評価がわかれる)の面を筆者は痛烈に批判する。しかし、そ
 のどうしようもない自我が、一方で佳作を多数残した事に一目を置くのも事実だ。
記録:一方青森市にも青い海公園の津軽海峡を見渡す一角に同様の像が設置された。

参照太宰治(含羞と失意の作家)探訪紀行

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太宰治文学碑(青森県外ヶ浜町)

2010年01月03日 |   ✑文学逍遥 紀行

映像:外ケ浜町観瀾山にある文学碑。太宰が実際に座っておにぎりを食べた岩を使用。

昨年は太宰治生誕100周年。つまり生きていれば101歳。多彩な試みが青森県では行
われ今年も持続する。青森県が生んだ天才の一人かもしれない。太宰治は小説「津軽」
を執筆の為の取材旅行中、蟹田町に棲んでいた友人(中村貞)を訪ねこの山で遊んだ

観瀾山。・・・その山は、蟹田の町はづれにあつて、高さが百メートルも無いほどの小山
なのである。けれども、この山からの見はらしは、悪くなかつた。その日は、まぶしい
くらゐの上天気で、風は少しも無く、青森湾の向うに夏泊岬が見え、また、平館海峡を
へだてて下北半島が、すぐ真近かに見えた。』 (小説『津軽』より)

記録:江戸時代に吉田松陰、明治時代に大町桂月、昭和に太宰治が津軽半島突端に至る。

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太宰治文学碑(青森県芦野公園)

2009年05月10日 |   ✑文学逍遥 紀行

映像:金木芦野公園の見晴らしの良い場所登仙岬に作家:太宰治の文学碑がある。

毎年、この場所で長女津島園子氏らが集い桜桃忌が開かれる。この桜桃忌も最近は
生誕祭」となったが筆者はいささか不満である。遺族の意向と言われるが「桜桃」
という言葉には特別な意味が込められている。太宰の小説は甘酸っぱいサクランボ
の味
だ。どんなに美化しても、人間津島修治と作家太宰治とは切り離せない。桜桃の
季節に生を受け、散った人間・作家を惜しむ一人として敢えて「桜桃忌」と表現する。

   碑文:「選ばれてあることの  恍惚と不安と  二つ我にあり

解説:ヴェルレーヌの一節。太宰治&津島修治はまさにこの言葉の通り生き、死んだ。

在京時代、三鷹禅林寺を訪問した。三鷹全体が文学的香りのする街だった。筆者は上
石神井でアパート住まいであった。太宰治の墓前には、煙草や酒が供えられていた。
そして…ノートが一冊。今では珍しくないが当時は意味が分からなかった。何気にめ
くると墓参の若い女性の思いが記されていた。それから数年後社会人になって斜陽館
(太宰治の生家で、当時は人手にわたり、旅館であった)の太宰の部屋に泊まった時に
同じく大学ノートがあり、ノートには宿泊した宰ファンの思いが縷々綴られていた

筆者は別に太宰の熱烈なファンではない。一時代の寵児的存在を唯遠くから見つめる
だけだった。一方でフランスの詩人ヴェルレーヌとランボーは筆者の愛読の詩人であ
り中原中也を深く専攻、文学を常に意識した青春は今も続いている。文学とは『生』

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棟方志功碑(青森市合浦公園)

2009年04月26日 |   ✑文学逍遥 紀行

  青森県青森市の昔からの公園といったら合浦公園。今日も潮風が吹き抜ける、青森
  市民の憩いの場所である。その一隅に世界の版画家棟方志功の変わった石碑がある。

     碑文:清く高く
        美事に
        希望の大世界
        を進み抜く

  考察:棟方志功という人は邪心の無い人だ。絵も、版画も、文章も正直・真心で溢
     れている。だからこそ、見過ごしそうな作品でも人を惹きつける画力がある。

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林芙美子文学碑 ( 桜島 古里温泉 )

2009年03月27日 |   ✑文学逍遥 紀行

映像:火の島桜島の小さな温泉場の丘に林芙美子の銅像・文学記念碑が設置(06.03.18)。

放浪記の作者林芙美子の人生も又放浪の一生だった。遠くは北海道まで足跡を残して
いる。その放浪記を舞台で2,500回演じた俳優:森光子もまた凄い。全ての始まりは
このマグマの島桜島にあった。小さな温泉宿の娘と行商人の婚外子としての生い立ち
が大きなドラマを展開する。古里温泉の混浴龍神露天風呂には今も多くの人が訪れる。

碑文:『花のいのちは みじかくて 
              苦しきことのみ 多かりき
』  芙美子

所感:訪ねた時は春だった。島はずれの海辺の湯治場に旅館はもうないが僅かに当時
   が偲ばれる。林芙美子記念古里公園には幼女期の像と晩年の像が対照的に設置。
   林芙美子の少女期は「花」。しかし、女の性(さが)は咲いては散りゆく運命。女
   の一生は多くの苦しみ、悲しみに満ちていた。その事を体現した
言葉であった。

後日:その後、2012年9月末この龍神露天風呂のある古里観光ホテルが廃業した。
   桜島を代表する温泉宿が又消えた。せめて龍神露天風呂だけでも保存願う。
参照#① 古里温泉混浴温泉露天 龍神の湯 ② 桜島で味わった名湯「マグマの湯
   ③ 林 芙美子(放浪記・作家)探訪紀行

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吉川英治 (ぬる川や・・・温川温泉)

2009年03月25日 |   ✑文学逍遥 紀行

映像:青森県温川温泉の敷地内にある文豪吉川英治の文学碑(2005.7撮影)

文豪吉川英治が投宿、執筆活動をした山のいで湯温川温泉。森閑とした渓流沿い
の一軒宿は創作で疲れた心身を癒すには最適だ。昭和初期、芸術家の多くはこう
した湯宿に創作活動の拠点を求めた。下風呂温泉の井上靖、浅虫温泉の棟方志功
‣北畠八穂、大町桂月の蔦、川端康成の越後湯沢この様な温泉宿は全国に点在す。

碑文:『 ぬる川や 湯やら 霧やら 月見草 』 吉川英治

所感:吉川英治はこのいで湯で後の名作「宮本武蔵」の構想を練ったといわれる。
   温泉とは疲れた躰を癒すとともに未来に思いを馳せるにも絶好の思索空間。

参照碑文の中の月見草(青森県津軽半島小泊岬)

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柳田邸(遠野物語)

2009年01月31日 |   ✑文学逍遥 紀行
民族学者柳田國男の隠居宅が遠野昔話村の一隅に東京から移築し、保存されている。
昭和初期の日本建築物が面白い。勿論平屋、門、玄関、書斎・居間が外側から観察出来る。
書斎には柳田國男翁の写真が飾られ、この地も又タイムスリップの地だ。 ~遠野物語:完~
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草野心平筆碑(福島県いわき湯本温泉)

2009年01月07日 |   ✑文学逍遥 紀行

映像:野口雨情童謡館の向い、温泉神社の門前に草野心平の筆による歌碑がある。

    『あかずして わかるる人の 住む里は さはこのみゆる 
     山のあなたか』拾遺和歌集 詠み人しらず:草野心平筆

温泉神社の宮司姓も佐波古と名乗り、この地が万葉の時代からの歴史的な土地柄で
ある事が伺える。神社近くにある共同浴場の名が「さはこの湯」というのも頷ける。
いわき湯本温泉は、道後温泉、有馬温泉、白浜温泉と並ぶ由緒ある古湯名湯である。

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赤い靴(野口雨情記念館いわき湯本温泉)

2009年01月06日 |   ✑文学逍遥 紀行

童謡館内の一角にひと際鮮やかな赤い靴が展示販売されていた。
これが童謡「赤い靴」の複製モデル。ジーッと赤い靴を見てい
ると自然と歌詞が浮かんでくる。こころに響く童謡なのである。

  『赤い靴 はいてた 女の子 
   異人さんに つれられて 行っちゃった
 
   横浜の 埠頭から 船にのって
   異人さんに つれられて 行っちゃった 
   ・・・
   赤い靴 見るたび 考える 
   異人さんに 逢うたび 考える

野口雨情が創った童謡はこのほか沢山ある。

南京言葉 鶯の夢 ペタコ あの町この町 こがね虫 證城寺の狸囃子 蛙(かわず)の夜廻り 雨降りお月~雲の蔭 うさぎのダンス 手の鳴る方へ キューピーピーちゃん チンドンヤ 七つの子 十五夜お月さん 青い目の人形 俵はごろごろ 木の葉のお舟 シャボン玉 信田の薮 春の唄… それぞれ何時か、何処かで聞き歌った記憶が。

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