10年振りの道後温泉はいろいろ変わっていた。本館東側後方に休憩スペースがあり
「漱石坊ちゃん之碑」が真新しく建てられていた。夏目漱石が小説「坊ちゃん」を
発表してから百年を記念しての建立。10年前の訪問時にはこの広場も碑も無かった。
碑文:坊っちゃん 夏目漱石
「親譲りの無鉄砲で小供の時分から損ばかりして居る。小学校に居る時分学校
の二階から飛び降りて一週間程腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をし
たと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でも何でもない。新築の二階か
ら首を出して居たら、同級生の一人が冗談・・・」
参考:小説「坊ちゃん」での道後温泉の記述抜粋
「・・・温泉は三階の新築で上等は浴衣をかして、流しをつけて八銭で済む。その
上に女が天目へ茶を載せて出す。おれはいつでも上等へはいった。すると四十
円の月給で毎日上等へはいるのは贅沢だと云い出した。余計なお世話だ。まだ
ある。湯壺は花崗石を畳み上げて、十五畳敷ぐらいの広さに仕切ってある・・・」
参照#①上等での坊ちゃん団子 ②道後温泉本館全体像(愛媛温泉松山市)
感想:筆者も温泉の上等(貸室)に今年(2017年)休んで1,550円だった。作家夏目漱石
の時代は八銭というから値段はともかく、同じ湯浴みの伝統がいまにある感動。
吉野温泉元湯の案内文に「花の吉野山、人里離れた一軒宿 文人・修験者に
長く愛されてきた吉野の隠し湯」とある。この宿に一か月以上逗留したのが
島崎藤村である。筆者が心奪われた詩人・文学者。そのゆかりの宿を訪ねた。
記録:島崎藤村がこの宿を訪れた時は明治女学院の教え子佐藤輔子との情愛
に悩んでいた頃だ。藤村20歳、輔子21歳。この情愛の作品が 「初恋」 。
詩集若菜集に収められた詩文に胸を震わせた我青春を懐かしく回想す。
詩文:島崎藤村「若菜集」初恋より
『まだあげ初(そ)めし前髪(まへがみ)の
林檎(りんご)のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛(はなぐし)の
花ある君と思ひけり・・・』
感慨:筆者は大学で島崎藤村の研究で知られる伊東一夫教授のゼミで島崎藤村
の「夜明け前」の講座を受講。しかし、苦学生時代であり、憧れの藤村
の足跡を辿ることは叶わなかったが、今回漸く藤村の足跡の一端を辿る。
考察:島崎藤村もまた生立ちから悲劇を背負っていた。父の近親相姦(姉)と
藤村自身も姪と関係を結ぶなど明治にあっては不義密通の呪われた家系
。また、尊敬していた北村透谷の自殺が彼の文学活動に大きく影響した。
大作「夜明け前」の深く重々しい筆致はこれらが反映されたのだろうか。
参照#①島崎藤村ゆかりの小諸の布引温泉 芸術&温泉文学者 探訪紀行
映像:袰月海岸高野岬キャンプ場に設置された方言詩人:高木恭三の詩碑。
僻地の苦しみ悲しみを一身に背負ったように流れでる津軽弁詩は圧巻である。
碑文: (青い文字をなぞって、声を出して読んでください)
この村サ一度(イヅド)だて 陽(シ)コあだたごとあるガジヤ 家(エ)の土台(ドデ)
コアみんな 潮虫(スオムシ)ネ噛(カ)れでまてナ 後(ウスロ)ア塞(フサ)がた高(
タ)ゲ山ネかて潰(ツプ)されで海サのめくるえンたでバナ見ナガ あの向(ムゲ)の
陽(シ)コあだてる松前(マヅメ)の山コ あの綺麗(キレ)だだ光(シカリ)コア一度(
イヅド)だて 俺等(オランド)の村サあだたごとアあるガジヤ みんな貧ボ臭せく
てナ 生臭せ体コしてナ 若者等(ワゲモノンド)アみんな他処(ホガ)サ逃(ニ)げで
まて 頭(アダマ)サ若布(ワガメ)コ生(オ)えだえンた爺媼(ジコババ)ばりウヂヤウ
ヂヤてナ ああ あの沖(オギ)バ跳(ハネ)る海豚(エルガ)だえンた倅等(ヘガレンド
)ア 何処(ド)サ行(エ)たやだバ 路傍(ケドバダ)ネ捨(ナゲ)られでらのアみんな昔
(ムガシ)の貝殻(ケカラ)だネ 魚(サガナ)の骨(トゲ)コア腐たて一本(エッポ)の樹コ
ネだてなるやだナ 朝(アサマ)も昼(シルマ)もたンだ濃霧(ガス)ばりかがて 晩(バ
ゲ)ネなれば沖(オギ)で亡者(モンジャ)泣いでセ
この詩は彼が今別で4ケ月間代用教員をしていた頃を回顧、地元民の苦しみを表現。
参考:高木恭三 ・・・ 方言詩人 (医師:旧制弘前高校・満州医科大学卒、弘前で眼科医院開業)
参照:まるめろの花(弘前城植物園)
中里介山といえば小説「大菩薩峠」。その中に出てくるのが白骨温泉。白舟温泉
といわれていたのを「白骨温泉」と描いたことから全国的に有名となった。謂わば
白骨温泉の恩人である。その文学碑周辺も今では手入れが十分でないのが寂しい。
中里介山:小説家、代表作「大菩薩峠」は長年新聞に連載されたが未完に終わる。
小説記載:「・・・やがて白骨の温泉場に着いて、顧みて小梨平をながめたときはお
雪もその明媚(めいび)な風景によって、さきほどの恐怖が消えてしまい
ました。殊に、龍之助はここへ着くと、まず第一に『これから充分眠れ
る』という感じで安心しました。」 中里介山『大菩薩峠』より抜粋
映像:漸く辿りついた犬吠埼は雨交じり、やはり鈍色の海は吠えていた。
とうとう、犬吠埼に来た。筆者が犬吠埼に興味を持ったのは高校時代だ。
日本詩歌大全集を読み耽り、高村光太郎の詩に出会った衝撃的な青春期。
高村光太郎と長沼智恵子が再会した犬吠埼。僕は漸くここに辿り着いた。
『…いやなんです
あなたのいつてしまふのが―
おまけにお嫁にゆくなんて
よその男のこころのままになるなんて…』 (智恵子抄~人に~より)
『…あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。
ここはあなたの生れたふるさと、
あの小さな白壁の点点があなたのうち…』(智恵子抄~樹下の二人~より)
『…智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る………』 (智恵子抄~あどけないはなし~より)
光太郎と智恵子が通った樹下(詩碑の丘)で好きなフレーズを朗読した日が懐かしい
参照# 智恵子抄:樹下の二人(高村光太郎&智恵子)
碑文は宮沢賢治の自筆を写したもの、金色堂建立八百五十年を記念して建てられたという。
文語調五・七調のリフレイン詩は難解だ。しかし、金色堂を目の当りにしたその栄華の証
に邪悪な心も消えただただ感じ入り、襟をただしてその場を立ち去るという宮沢賢治の心
題目: 中尊寺
詩文: 七重の舎利の小塔に 蓋なすや緑の燐光
大盗は銀のかたびら おろがむとまづ膝だてば
赭(しや)のまなこただつぶらにて もろの肱映えかがやけり
手觸れ得ね舎利の寳塔大盗は禮して没(き)ゆる
宮沢賢治
感想:宮沢賢治は森羅万象を極めた科学者でもあった。その宮沢も金色堂の放つオーラに
感動したことは、この詩文の行間に見て取れる。しかも、この詩文の続きに平泉を
頼って落ち延びた源義経のことも詠んでいる。中尊寺は只のお寺ではない。心の里。
水郷の街柳川市は北原白秋の生家がある町でもある。柳川藩13万石の
城下町柳川は明治まで続く安定した風土で、裕福な商家に北原白秋が
育つ文学的土壌。柳川沿いの風情ある佇まいは一層詩情を掻き立てる。
記録:北原白秋生家は海産問屋から酒造業へと辿り一時期柳川一、二
の富裕で、白秋はそんな環境で育ったがやがて大火罹災、没落
へと辿る。現生家は平成に入り、復元され白秋資料館も兼ねる。
参照#北原白秋(自然派詩人/童謡歌人)探訪紀行
NHK朝ドラの主人公「繭子」像が三戸城址に建っていた。五月の連休だというのに
観光客は誰もいない。そんな寂しい佇まいの城址一角に変らぬ装いの『繭子』はいた。
繭子ひとり像:作家三浦哲郎の小説、昭和46年NHK朝ドラ人気ヒロインの繭子役の
山口果林の姿が銅像だ。此の除幕式には原作者の三浦哲郎は顔を出さなかった。
後日:三浦哲郎の「笹船日記」に、後に繭子の像について綴った文章が残されている。
『繭子よ。では、二十年後にまた逢おう。それまで私が生きていたら。おまえも
また、その日まで、たとえ緑青の瘡蓋に覆われ、枯木の杖にもたれても、ここ
にこうして立ちつづけているものなら、そのときこそ、繭子よ、私たちは心静
かに、若き日の夢のような受難について語ろう』
感想:作家三浦哲郎にとって予期しない高視聴率となった「繭子ひとり」は色んな意味
で思いもしない出来事だったかもしれない。しかしいつか作品から独り歩きし
たテレビの繭子(山口果林)にもしかしたら同志的感情を抱き始めたのかも知れない。
感慨:筆者が訪れたのはこの像が出来て44年後、三浦哲郎が二十年後にまた会おうと
いった倍の年月が経っているが・・・・繭子像は変わらぬ佇まいで歴史を観ている。
寺山修司の文学碑が寺山修司記念館の裏山に設置されている。
米軍キャンプや小川原湖を望む所に建つ本型のモニュメント。
三沢市民の森の中で寺山お気に入りのビクター犬が見つめる。
碑文:寺山修司 短歌3首
『マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや』
『君のため 一つの声と われならん 失いし日を 歌わんために』
『一粒の 向日葵の種 まきしのみに 荒野をわれの 処女地と呼びき』
歌意:歌の文字一語一語が意味をなす。筆者の想いそのまま。
参照#寺山修司(前衛芸術家・歌人)探訪紀行
映像:寺山修司記念館常設展示の机の秘密の引出しを覗くと、この書が…
僕はポッケに文庫本を忍ばせていた。岩波文庫だ。チョットお堅い題名。
それは飾りにすぎない、目の前の女の娘が気になり文字なんて追えない。
そんな時このフレーズに出会った。そうだ!街に出て素の自分を探そう。
感動:この机の引き出しこそ、ドラえもんのどこでもドア状態の場所だ。
参照#寺山修司(前衛芸術家・歌人)探訪紀行
映像:有島武郎記念館の一隅にやや壊れかかったぶどう棚があった。
『……いつでも葡萄の房は紫色に色づいて美しく粉をふきますけれども、
それを受けた大理石のような白い美しい手はどこにも見つかりません』
佳作「一房の葡萄」が偲ばれる一房の葡萄がことしも可憐に実っていた
解説:小説「一房の葡萄」は若き有島武郎の体験小説なのだが同じ心中事件
を起こした太宰治との対比で、当時の上流社会の言葉づかいの表現は太宰の
『斜陽』とは違い学習院仕込みの本物であった。田舎の坊ちゃん言葉と都会
の上流社会の日常語の違いで不自然でない。しかし、悲劇は同じく心中事件。
映像:有島武郎の内面は繊細で潔いものだったと想像されるミニチャペル
有島武郎記念館では館内でかなしみの軌跡に触れるもよし
庭園に配置されたモニュメントで大地に根差した魂に触れ
るもよい。ときは移ろえど人の心根はそんなに変わらない。
流行作家:有島武朗45歳、人妻美人編集者:波多野秋子29歳、二人の心中
遺体が見つかったのは七月七日天の川の運命の日だった。当時姦通罪
は最も不名誉な罪。彼らは不倫でも不純でもなかった。それ故心中と
いう手段で愛を貫いた。ニセコに来るとこの悲しみに心暫し打たれる。
参照 # 有島武郎記念館(北海道ニセコ町)
映像:詩人・文学者・評論家で知られる伊藤整の文学碑、若い頃主に評論を読む。
伊藤整が北海道出身という事を忘れてた。小樽市街地からニセコへ向かう途中
道路沿いに『伊藤整文学碑』の標柱を見つけて引きかえし、地元の人の道案内
でこの碑のある丘に辿りついた。小樽市の郊外、海がとても綺麗に見える丘だ。
映像:夢千代日記の夢千代像(吉永小百合がモデル)が温泉場を背景に建立されている。
山陰地方の日本海側は行政区分が立て込んでいる。福井、京都、兵庫、島根と分割され、
湯村温泉はその中の兵庫県に属している。知ってのとおり兵庫県は瀬戸内海側にも分布。
湯村温泉は二つの海の交差点的温泉地とも云える。そしてあの悲しいドラマが展開する。
夢千代日記:NHKの夜ドラで湯村温泉を舞台に白血病を病む温泉芸者の切ない恋愛ド
ラマ。吉永小百合は若いころ「愛と死を見つめて」という映画でやはり顔面癌の乙
女役を演じている。彼女の美しさはこの哀切な役柄で一層際立った様な気がする。
感動の映画:吉永小百合が演じた『愛と死を見つめて』は涙をなくしては観れない。ど
んなに愛し合っても死という肉体の崩壊からは逃げられない。恐怖に慄きながら
純愛を貫き死んでいった「マコ…甘えてばかりでごめんねミコはとっても幸せな
の」難病軟骨肉腫に冒された小島道子と3年間も支え続けた恋人高野誠の実話だ。
願い:湯村温泉の温泉街、荒湯公園、春来川周辺を逍遥すると温泉街の横丁から吉永小
百合扮する夢千代がフッと目前に現れる様な錯覚に。この街はいまでも息づいて
いる温泉場。全国にはこの様な温泉集落がある。いつまでも続いて欲しいと願う。
追悼:夢千代日記の作者・脚本家早坂曉氏が2017.1.16に死去。また昭和の星が消えた。
吉永小百合が「『夢千代日記』は早坂さんからいただいた大きなプレゼントでし
た。私の大切な宝物です」とコメントを寄せている。同時に湯村温泉の宝だった。
小雪舞う温泉街を夢千代扮する吉永小百合が傘を片手に通る。そんな、思いをこの像に
込めた設置した。NHK連続ドラマ『夢千代日記』以降の湯村温泉のシンボルは『夢千
代』。吉永小百合は名誉町民となり、街の至所に夢千代・小百合の記憶が置かれている
渓流を登り詰め、銚子大滝の手前に詩人:佐藤春夫の歌碑がある。
三本木高校の校歌作成を依頼されて十和田湖・奥入瀬渓流を周遊
したのだとか。流石の詩人にも景勝は魂を打つものだったらしい。
参考:奥入瀬渓流をうたった詩の中で、筆者が好きな部分を掲載。
碑文:奥入瀬渓谷の賦(佐藤春夫作)
『・・・・・・・・・・・・・・・・
さもあらばあれ木洩日(こもれび)の
漂ふ波に光あり
水泡(みずわ)は白く花を咲き
鶯老いて春長し
・・・・・・・・・・・・・・・・・』
参照#歌碑の眼前にある、奥入瀬渓流「銚子大滝」