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(ブズカシ(Buzkashi)は2組の騎馬隊がヤギをボール代わりにして奪い合う競技で、アフガニスタンの国技ですが、あまり細かいルールなどはない競技だそうです。
“”より By maiaibing2000
http://www.flickr.com/photos/maiaibing/4334198472/)
【「NATO軍は市民の安全を十分に守っていない」】
アメリカ・オバマ政権が、今後のアフガニスタン情勢を決めるという覚悟で臨んでいる、アフガニスタン南部のヘルマンド州マルジャで米軍中心のISAFとアフガニスタン軍が進めているタリバンに対する大規模掃討作戦「モシュタラク」については、数日前にも取り上げました。
2月18日ブログ「アフガニスタン オマル師側近を拘束 大規模掃討作戦「モシュタラク」の情勢」
(http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/d/20100218)
単に、攻勢を強めるタリバンへの大規模掃討作戦であるだけでなく、作戦を事前に告知して住民の避難を可能にするとか、アメリカ撤退後のアフガニスタン治安の要となるアフガニスタン軍との共同作戦であり、その能力が試されることになるとか、タリバンを掃討した後もその地にアフガニスタン軍・警察に加え、米英軍も支援のために残り、医療機関や電気など公共サービスの復旧や統治機構の整備に乗り出し、中央政府の支配の確立までを目指すことなど、いくつかの点で注目され、アフガニスタンの戦況の今後を占うともされる作戦です。
ただ、作戦開始後、誤爆などにより16日時点までで20人の民間人犠牲者が出ており、作戦への批判も高まっていることや、タリバン側がISAF側のそうした制約を利用して、住民を“人間の盾”として使うことで、抵抗を強めていることも前期ブログで書いたところです。
そうしたなかで、更に大規模な民間人犠牲が伝えられています。
****アフガン:米軍誤爆、市民33人死亡 活動停止求める声*****
アフガニスタン南部ウルズガン州で21日、北大西洋条約機構(NATO)軍の空爆で市民少なくとも33人が死亡、十数人が負傷した。アフガン内務省によると、空爆したのは米軍機で、3台の車が次々と爆撃され、乗っていた多数の女性や子供らが犠牲になった。空爆による終わらない市民の犠牲に、アフガン国内では「米軍の活動停止」を求める声が高まっている。
南隣のヘルマンド州でも、米軍主導の大規模軍事作戦で市民の犠牲が相次いでいる。21日はカルザイ大統領が国会で「NATO軍は市民の安全を十分に守っていない」と非難。議員の間から、「市民の安全が確保されない限り、軍事作戦をやめさせるべきだ」との意見も出された。
NATO軍側は今回の空爆について、「武装勢力への応戦」としている。州警察によると、空爆後、現場付近の市民らが反米、反政府デモを行うなど、治安当局との間で極度の緊張が続いている。
ウルズガン州を巡っては、同州に駐留部隊を派遣しているオランダが、連立政権崩壊を背景に予定通り8月に撤退を開始する見通し。【2月22日 毎日】
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【97年マザルでのタリバン敗北】
アフガニスタン国内での批判はもっともなことです。
ただ、今ちょうどアハメド・ラシッド著「タリバン」を読み始めているところですが、この本で明らかにされている、ソ連支配崩壊後の各部族・軍閥の内戦状況、そこに登場するタリバンがパキスタン・サウジアラビアの支援のもとで勢力を急拡大して政権を奪取するに至る経緯はあまりにも凄惨で、昨今アフガニスタンに関して言われている“民間人犠牲云々の議論”とは全く異質・異次元の世界であるように感じられます。
1997年5月28日、北部都市マザル(マザリシャリフ)に侵攻したパシュトゥン人のタリバンに対し、シーア派ハザラ人や、ドスタム将軍を裏切ったウズベク人のマリクの一派が、反攻に出ます。
“市街戦の訓練がなく、市内の迷路のような路地を知らないタリバンは、行きどまりの道路に小型トラックを乗り入れて餌食となり、家々の中や屋根から銃火を浴びせられ、必死に逃げまどった。”
“15時間の激しい戦闘の末、600人のタリバンが街頭で殺され、1000人ほどが逃げ出そうとした飛行場で捕虜になった。”
この戦いで、タリバン数千人とパキスタン人学生数百人が捕らえられ、射殺され、集団で埋められたとも。
のちに国連が明らかにしたところでは、マリク一派によるタリバン虐殺は、“捕虜たちは拘置場所から引き出され、捕虜交換されと告げられ、羊飼いたちが使う井戸に車で連れて行かれた。井戸の深さは10~15mで、生きたまま投げ込まれた。抵抗すればまず撃たれた。井戸の底に向けて発砲され、手投げ弾が投下され、そのあとブルドーザーが井戸を埋めた”というようなものだったとも。
また、「目隠しし、後ろ手に縛ったタリバン捕虜をトラックのコンテナに押し込んで砂漠へ連れて行く。砂漠に掘った穴の前に10人ずつ立たせて撃つ。処刑は6夜ほど続いた」とか、コンテナそのものが殺害手段となり、「コンテナから死体を引き出すと、皮膚が熱で焼け焦げていた」・・・といった発言もあります。
【98年、タリバンの復讐】
これに対し、1998年8月8日、パキスタンの支援などで態勢を立て直したタリバンはマザルを急襲し、ハザラ人に対する1年前の復讐を実行します。
このときオマル師は“2時間だけ殺してもよい”との許可を戦闘部隊に与えとも。
しかし、マザルでのタリバンによるハザラ人虐殺は2日間続きます。
“タリバンは狂ったように殺し続け、(こんどは市内をよく知る現地案内人を使って)小型トラックでマザルの狭い道を走り回り、店主たち、二輪馬車ひき、買いものに出た女性や子供たち、そして山羊や羊まで、動くものはなんでも殺した。死者を直ちに葬るように命じているイスラムの教えに反して、遺体は路上に放置され腐るにまかされた。”“人々はその場で3回撃たれた。1発は頭に、1発は胸に、1発は睾丸に。女性はレイプされた。”
ここでもコンテナが復讐として使われます。“コンテナを開けたとき3人だけ生きていた。約300人が死んでいた。”
国連と赤十字国際委員会は後に、5000人ないし6000人が殺されたと推定しています。
なお、マザルは2001年、ドスタム将軍によって奪還されますが、このときもタリバン虐殺がマザル近郊で行われています。
【タリバンの本質は変わったのか?】
この種の話の数字はそのまま信用できないこともままありますが、それにしても凄惨な虐殺が双方で行われたことは推察されます。
このときから、まだ12年ほどしか経過していません。
98年、カブールを支配するタリバンは、国際援助団体をカブールから追放します。120万人市民の半数以上がNGO援助受けていたカブールはすぐに食糧・水・医療で困窮します。
窮状を訴える市民にタリバン幹部は、「われわれムスリムは、全能の神がすべての人々を食べさせてくれると信じている。外国NGOが去るなら、それは彼らが決めたことだ。われわれが彼らを追放したのではない」と、住民の社会生活への関心のなさを明らかにしています。
近年の戦いで、タリバン側からも“米軍による民間人殺害”を非難する言い分も聞かれますが、ほんの十数年前この地で、当のタリバンが行っていた戦闘は、そんな生半可なものではありませんでした。
別に、戦闘だから民間人犠牲は仕方がないとか、そんなことを言うつもりはありませんが、民間人犠牲を云々するとき、この地で繰り広げられてきた虐殺の歴史とどのように整理するのか、とまどいを感じます。
また、もしタリバンが当時と本質的に変わっていないのであれば、そういう価値観の全く異なるタリバンを相手に、民間人犠牲を抑えるという制約のもとで戦う米軍・ISAFに勝利の見込みがあるのか・・・非常に疑問にも思えます。
なお、著者アハメド・ラシッドはパキスタン人イスラム教徒で、アフガニスタン、パキスタン、中央アジアを対象に約30年間、国際的な報道を続けてきたジャーナリストですが、09年、パキスタンのイスラム過激派組織「パキスタン・タリバン運動」が欠席裁判で彼の死刑を宣告したと報じらています。