“軍部はあたかも外国を占領した軍隊のように振舞った。9月の末までサンチアゴの街角には骨を砕かれ爪をはがされた死体がころがっていた。チリ中央部を流れているヌブレ川を渡ろうとした農夫たちは、腕を縛られたままの首なし死体がいくつも川を流れているのを目撃した。タルカゥアノ港の漁師たちは、チリ海軍によって海に投げ込まれた死体が人肉の塊となって漁網にかかるようになり、操業を停止した。”(トマス・ハウザー著、古藤晃訳『ミッシング』より)【ラジオ・チリ http://homepage3.nifty.com/Margarete//kaigen/chili_730911-001.html】
【「拷問は共産主義を根絶するために必要なのだ。祖国の幸福のために必要なのだ。」】
アメリカでは2001年9月に起きた同時多発テロから11日で12年を迎え、「9.11」の追悼行事が行われましたが、南米チリでは40年前、もうひとつの「9.11」がありました。
サルバドール・アジェンデは、1970年4度目の左翼統一候補としてチリ大統領選に出馬し,小差で当選。
社会党,共産党などのいわゆる人民連合を率いて世界で初めて議会制民主主義に基づく社会主義への移行を試み,アメリカ系資本下の銅産業の無償国有化,主要産業・企業の社会化,農地改革等の急進的な諸政策を実施し世界の注目を集めたました。
しかし、左右の政治対立、社会主義化に伴う経済の混乱のなかで、1973年9月11日,アメリカの支援も受けた軍部・警察によるクーデタが起き,戦闘中の大統領官邸で死亡,政権は崩壊しました。
この軍事クーデターで成立したピノチェト政権下では、多数の左派市民が誘拐され拷問を受け、死亡しています。
アジェンデ政権の崩壊、軍事政権下の弾圧については、2012年2月9日ブログ「中南米軍事政権とその負の遺産 チリ、グアテマラ、アルゼンチン、そしてパナマ」(http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/d/20120209)でも触れたことがあります。
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現在の中南米は左派政権が主流ですが、かつては右派軍事政権が多く存在していました。中南米の軍事政権・軍事クーデターということでは、個人的には73年のチリ・アジェンデ政権の軍事クーデターによる崩壊を思い出します。
東西冷戦のなかにあって、社会主義政権としては初めて自由選挙によって合法的に政権を獲得したアジェンデ政権、軍事クーデターに抵抗して大統領官邸に籠城、自ら銃を手にとって応戦し、死んでいった文民大統領(最近の調査で、直接の死因は自殺と言われています)、クーデターさなかでの国民へ向けた最後の演説・・・、そうした悲壮なイメージと、その後のチリ・クーデターを扱った映画「サンチャゴに雨が降る」(75年)「ミッシング」(82年)の影響でしょうか。
ニクソン米大統領・キッシンジャー国防長官など、当時の反社会主義アメリカ政権の意向も反映したクーデターでしたが、もちろん、アジェンデ大統領は悲劇のヒーローという訳ではなく、アジェンデ政権当時、国有化政策や土地問題などの改革でチリ経済・社会はかなりの混乱状態にあり、その施策にも問題はあったとも指摘されます。
この軍事クーデターを起こしたのは、後に大統領に就任するピノチェト将軍ですが、クーデター直後に戒厳令が敷かれ、アジェンデ支持派の多数の市民がサッカースタジアムに集められ、容赦なく虐殺されたと言われています。
また、その後もピノチェト政権下で、多数の左派市民が誘拐され拷問を受け、死亡していますが、そうした拷問行為に対して抗議した聖職者に、ピノチェト大統領は「あんた方(聖職者)は、哀れみ深く情け深いという贅沢を自分に許すことができる。しかし、私は軍人だ。国家元首として、チリ国民全体に責任を負っている。共産主義の疫病が国民の中に入り込んだのだ。だから、私は共産主義を根絶しなければならない。(中略)彼らは拷問にかけられなければならない。そうしない限り、彼らは自白しない。解ってもらえるかな。拷問は共産主義を根絶するために必要なのだ。祖国の幸福のために必要なのだ。」【ウィキペディア】と、拷問を正当化したそうです。
(2012年2月9日ブログ再録)
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その後チリは、1990年に文民政権に復帰し、中道・中道左派政党連合による政権が続いていましたが、2010年に右派連合のピニェラ現大統領に代わっています。
【ピニェラ大統領「過去を忘れてはならないが、そのトラウマを乗り越える時がきた」】
****チリ軍事クーデターから40年、大統領が和解を呼び掛け****
南米チリは11日、サルバドール・アジェンデ大統領(当時)が戦闘中に死亡し、アウグスト・ピノチェト陸軍司令官が権力の座に就いた1973年9月11日のクーデターから40年を迎えた。
チリではいまなお分裂が続いており、10日から11日朝にかけて首都サンティアゴの内外で混乱が発生。警察の発表によると車やバリケードに火をつけたデモ隊の少なくとも68人が逮捕された。
セバスティアン・ピニェラ大統領は記念演説で「過去を忘れてはならないが、そのトラウマを乗り越える時がきた。私たちが子供たちに残せる最良の遺産は、和解した平和な国である」と述べ、国民に和解を訴えた。
民政に移管した1990年以来チリ初の右派の元首である同大統領は、和解のためにはチリ国民が「真実と正義の道を進み続ける」必要があると強調した。
17年続いた独裁時代に3200人が死亡し、約3万8000人が拷問されたチリでは、当時の真相を全て明らかにするよう求める圧力が強まっている。
ピノチェト元大統領は裁判にかけられることなく2006 年に死亡、チリの司法制度の下ではピノチェト時代の犯罪に関わる約1300件が未解決となっている。
当時から1200人近くが行方不明のままであり、それを追悼して10日には約1000人が大統領府近くで地面に横たわった。【9月12日 AFP】
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【「連行され、行方不明となった愛する人々がどうなったのかが分かるまで、私たちは休むことはない」】
8日には、弾圧の真相究明を求める人々による大規模なデモも行われています。
****人権求めて6万人がデモ、クーデターから40年のチリ****
チリの首都サンティアゴ市内で8日、アウグスト・ピノチェト司令官が率いた軍事評議会によるクーデターから11日でちょうど40年になるのに合わせ、約6万人が人権を求めてデモ行進した。
デモ参加者らは、クーデター後の軍事政権下で死亡したり誘拐されたりした親族の写真を掲げて、市内を行進。
主催団体の代表は「40年たったが、私たちはいまだに真実と正義を求めている。連行され、行方不明となった愛する人々がどうなったのかが分かるまで、私たちは休むことはない」と語った。
2時間にわたったデモ行進の後には、フードをかぶった参加者の一団がバリケードを設置し、警察機動隊と衝突。一部の警官はデモ隊から投石を受けたり、棒で殴られたりした。機動隊は催涙ガスや高圧放水などを使って鎮圧に当たった。【9月9日 AFP】
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【過去の重み】
国民和解は重要ですが、そのためには過去の清算が必要です。
ピニェラ大統領の「過去を忘れてはならないが、そのトラウマを乗り越える時がきた」という主張もわかりますが、弾圧された側とそうでない側(別にピニェラ大統領が弾圧に加担した訳ではありませんが)では、過去の持つ重みが異なります。弾圧された側にとっては“今も続く過去”であり、「もう、いいじゃないか・・・」という話にはなりません。
日本と中国・韓国の間の歴史認識を巡る対立の根底にも、そうした支配された側と支配した側の間の“過去の重み”の違いがあるのでしょう。
しかし、その“過去の重み”の違いを現在の政治対立を有利にする手段として使っていては、いつまでも和解は手にできません。
双方にバランス感覚が求められるところですが・・・なかなか。