孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

トルコ観光 アジアとヨーロッパにまたがる世界唯一の都市、イスタンブール

2022-09-08 22:41:57 | 身辺雑記・その他
1日からのトルコ観光を終えて、先ほど(8日夜)帰国。
コロナ水際対策が丁度変更になって、帰国直前のPCR検査は不要に。

羽田国際線の対応ぶりは、大量にチェック要員を動員しての人海戦術。

私の場合は、今夜は東京に宿泊して、明日早朝のフライトで自宅に。
空港で検査して問題なければ、一応今回旅行も終了に。

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イスタンブールで泊まったインタコンチネンタルホテルからも近い、新市街地中心にあるタクシム広場は街歩きの基点になる場所です。



広場の中央には共和国記念碑があります。地下鉄やトラム、バス乗り場などが集まっており観光へのアクセスが便利な場所。


広場から新市街のメインストリートであるイスティクラール通りが伸びており観光客も多く訪れる広場です。



↑ ↓ スイーツのお店が多かったよう。



朝早い時間なので、ケバブも"太って"います。
これから焼けた表面を削り取られ、次第に痩せ細っていきます。


↓ 昼食をとった旧市街エジプシャンバザールそばのレストランからの眺め。

金角湾をはさんで対岸は新市街。中央の塔はガラタ塔。 橋はガラタ橋。
両岸ともにヨーロッパ側



↓ 7日午後訪れた最後の観光スポット、トプカプ宮殿からアジア側の眺め



言うまでもなくイスタンブールはアジアとヨーロッパにまたがる世界唯一の都市です。さらに旧市街、新市街とその表情は多彩。
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トルコ観光  コンスタンチノープル攻防戦 アヤソフィアの変遷

2022-09-08 04:20:56 | 身辺雑記・その他
1日から8日までトルコを観光しています。
9月6日はイスタンブールに戻り、ボスポラス海峡のクルーズと、市内観光の前半。

イスタンブールはかつてコンスタンチノープルと呼ばれる東ローマ帝国の首都で、20回以上に及ぶ外敵の攻撃に対し、1204年の第四次十字軍による攻撃以外は鉄壁の城壁でこれを撃退してきましたが、1453年にオスマントルコのメフメト2世の攻撃によって遂に陥落し、東ローマ帝国は消滅しました。

この攻防戦で、守備側はガラタ塔付近の金角湾入り口を鉄鎖で海峡封鎖し、オスマン艦隊の金角湾侵入を阻止しましたが、これに対し、オスマントルコ軍は艦船を車輪付き台車に乗せて陸に引上げ、山越えして湾に収入させる奇策をとったとされます。

歴史上最も有名な攻防戦のひとつです。


【マルシアクラッチ: コンスタンチノープルの陥落 13 (calforniwa.blogspot.com) 】

↓ 画像左手前がガラタ橋  守備側はこの付近を鉄鎖で海上封鎖したのでしょう。
一方、メフメト2世は、画像右奥のガラタ塔の奥を「オスマン艦隊の山越え」させました。




*****アヤソフィア****
トルコ共和国のイスタンブールにあるモスク。2020年7月までは博物館であった。

元々は東ローマ帝国(ビザンツ帝国、ビザンティン帝国)時代に首都コンスタンティノープルで建てられたキリスト教正教会の大聖堂を起源とし、帝国第一の格式を誇る教会、コンスタンティノープル総主教座の所在地であったが、1204年から1261年まではラテン帝国支配下においてローマ・カトリックの教徒大聖堂とされていた。

その後はオスマン帝国によるコンスタンティノープルの陥落が起きた1453年5月29日から1931年までの長期間にわたりイスラム教モスクとして改築を繰り返し使用されて現在の特徴的な姿となった。

トルコ共和国政府は1935年2月1日、世俗的な博物館とし、それが2020年7月まで続いた。【ウィキペディア】
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上記のように宗教的変遷を経験してきた壮麗なアヤソフィアですが、2020年にエルドアン大統領が再びモスクとして利用することを決定。

入り口付近のキリスト教関連装飾は、礼拝時には白いカーテンで覆われるとか。

また中央祭壇上部の装飾もカーテンで覆われています。



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