托鉢の僧が来た。
ちょうど私は玄関の外にいた。
僧は私を無視して玄関に佇み家の中に向けて経を読み始めた。
私は僧に近づき「ご苦労様です」と言った。
僧は「高野山 金剛峰寺から托鉢に来ました」と言った。
年齢は55歳から60歳ぐらい。笠を被り左手には托鉢用と思われる木製の器を持っている。中には1枚の5千円札と何枚かの千円札が見えた。右手に鐘を持っている。黒い袈裟を着て白色の地下足袋を履いていた。
私は、いろいろなことが頭に浮かんできたので、質問させてもらった。
「托鉢とは珍しいですね」
「はい。荒行としてやっています」
「どちらに宿泊されているのですか?」
「寺に泊まっています。寺は宗派を問わず私のような者を受け入れしなくてはいけないのです」
「失礼ですけど、この托鉢で集まったお金は、どうなるのですか?」
「お布施ですか?これは有効に使わせていただくということです。寺の修理だけで年間10億円かかります。その他に末寺までめんどうを見なくてはいけないのです。ですから浄財として使うのです」
僧は経を読み始める。
するとまた私の質問。
「済みません。もう一つ・・・・・・・・・」
「私も長く托鉢をやっているが、こんなに長く話をしたことはない」
「管長は松長某某。私も院を持っていて檀家が4千7百人居ます」
「朝と夜は寺で出されたものを食べますが昼は一切食べていません。袈裟がぼろぼろになろうと修行を続けなくてはならないのです」
僧が経を読もうとすると質問が浮かんでくる。
「あの、済みません・・・・・・・・・」
「10月に高野山に戻らなくてはいけないので、それまでに修善寺まで行きます。そういう予定を立てて出てきました」
「私も高野山大学に行きます。生徒に教えなくてはならないのです」
「なぜ荒行をするかと言いますと机上の空論ではいけないのです。自分で苦しみに耐えてこそ人々に対して説得力を持つのです。若い者は一発で見抜きます」
「高野山大学を出てきても、それだけでは本山には残れません」
私の質問がしばし途絶えた。
すると僧は経を読み始めた。
私はその姿を真横でだまって眺めていた。
経を読み終えたら1000円を渡し、ついでに妻を呼んで僧と一緒に写真を撮ってもらおうと考えていた。
しかしほとんど経らしい経は読まず頭を下げてさっさと立ち去ってしまった。
その姿を見て私は 「疑わしい」 と思い始めた。
托鉢用の器の中。上に5千円札があり、その下に何枚かの千円札でコインは無い。
もし私が布施をするとしたら、たぶん千円になるであろう。それは器の中のお金を見て決める可能性が高くそれを見越していたのではないかと思われる。
しかしお布施などは料金とは違い、いくらでもよいはず。だからコインがあってもよさそうなものだ。それが札ばかり。しかも5千円札が一番上に乗っている。最後にお布施した人が5千円を出したのかもしれないが私の家の周りで、そんな多額のお布施をする人がいるとは思われない。わざとらしさを感じる。
左手にしている腕時計がチラッと見えたがピンク色のカルティエのように見えた。高額な時計でないとしても、少なくとも僧らしくないデザインの物であった。
声はよく透り読経で鍛えられた坊さんの声にも思えるが肝心のお経が聞いたことも無いようなもので、はっきりと発音せずインチキくさかった。
私の質問に答えるが少しずつはぐらかしているような節が見受けられた。
矢継ぎ早の質問に少し苛立ちを感じているらしく、僧の目が「もう黙れ」と言っていた。
「若者は一発で見抜く」と言ったとき「おまえは見抜けないのか」というようなプレッシャーを感じさせた。
立ち去っていくとき衣の後ろが白く汚れ少し擦り切れたところもあった。これも演出のように見えてしまった。自分で荒行だと言うし、いかに托鉢が厳しいものであるのかの証明になるようにしてあるように思える。こちらに関しても、わざとらしさを感じてしまう。
僧を疑う自分の姿。
今の世を渡るには手堅いのかもしれない。
寂しい世の中になったことも事実だ。
ちょうど私は玄関の外にいた。
僧は私を無視して玄関に佇み家の中に向けて経を読み始めた。
私は僧に近づき「ご苦労様です」と言った。
僧は「高野山 金剛峰寺から托鉢に来ました」と言った。
年齢は55歳から60歳ぐらい。笠を被り左手には托鉢用と思われる木製の器を持っている。中には1枚の5千円札と何枚かの千円札が見えた。右手に鐘を持っている。黒い袈裟を着て白色の地下足袋を履いていた。
私は、いろいろなことが頭に浮かんできたので、質問させてもらった。
「托鉢とは珍しいですね」
「はい。荒行としてやっています」
「どちらに宿泊されているのですか?」
「寺に泊まっています。寺は宗派を問わず私のような者を受け入れしなくてはいけないのです」
「失礼ですけど、この托鉢で集まったお金は、どうなるのですか?」
「お布施ですか?これは有効に使わせていただくということです。寺の修理だけで年間10億円かかります。その他に末寺までめんどうを見なくてはいけないのです。ですから浄財として使うのです」
僧は経を読み始める。
するとまた私の質問。
「済みません。もう一つ・・・・・・・・・」
「私も長く托鉢をやっているが、こんなに長く話をしたことはない」
「管長は松長某某。私も院を持っていて檀家が4千7百人居ます」
「朝と夜は寺で出されたものを食べますが昼は一切食べていません。袈裟がぼろぼろになろうと修行を続けなくてはならないのです」
僧が経を読もうとすると質問が浮かんでくる。
「あの、済みません・・・・・・・・・」
「10月に高野山に戻らなくてはいけないので、それまでに修善寺まで行きます。そういう予定を立てて出てきました」
「私も高野山大学に行きます。生徒に教えなくてはならないのです」
「なぜ荒行をするかと言いますと机上の空論ではいけないのです。自分で苦しみに耐えてこそ人々に対して説得力を持つのです。若い者は一発で見抜きます」
「高野山大学を出てきても、それだけでは本山には残れません」
私の質問がしばし途絶えた。
すると僧は経を読み始めた。
私はその姿を真横でだまって眺めていた。
経を読み終えたら1000円を渡し、ついでに妻を呼んで僧と一緒に写真を撮ってもらおうと考えていた。
しかしほとんど経らしい経は読まず頭を下げてさっさと立ち去ってしまった。
その姿を見て私は 「疑わしい」 と思い始めた。
托鉢用の器の中。上に5千円札があり、その下に何枚かの千円札でコインは無い。
もし私が布施をするとしたら、たぶん千円になるであろう。それは器の中のお金を見て決める可能性が高くそれを見越していたのではないかと思われる。
しかしお布施などは料金とは違い、いくらでもよいはず。だからコインがあってもよさそうなものだ。それが札ばかり。しかも5千円札が一番上に乗っている。最後にお布施した人が5千円を出したのかもしれないが私の家の周りで、そんな多額のお布施をする人がいるとは思われない。わざとらしさを感じる。
左手にしている腕時計がチラッと見えたがピンク色のカルティエのように見えた。高額な時計でないとしても、少なくとも僧らしくないデザインの物であった。
声はよく透り読経で鍛えられた坊さんの声にも思えるが肝心のお経が聞いたことも無いようなもので、はっきりと発音せずインチキくさかった。
私の質問に答えるが少しずつはぐらかしているような節が見受けられた。
矢継ぎ早の質問に少し苛立ちを感じているらしく、僧の目が「もう黙れ」と言っていた。
「若者は一発で見抜く」と言ったとき「おまえは見抜けないのか」というようなプレッシャーを感じさせた。
立ち去っていくとき衣の後ろが白く汚れ少し擦り切れたところもあった。これも演出のように見えてしまった。自分で荒行だと言うし、いかに托鉢が厳しいものであるのかの証明になるようにしてあるように思える。こちらに関しても、わざとらしさを感じてしまう。
僧を疑う自分の姿。
今の世を渡るには手堅いのかもしれない。
寂しい世の中になったことも事実だ。