未だにChina親派の多いと心配される台湾ですが、経済面では日本企業よりその危険さに目覚めてきているようです。
台湾人がChinaから脱出しているようです。宮崎さんが報告してくれています。
これに比べて日本企業の平和ボケはもうどうにもならないのかと呆れるしかない。
「宮崎正弘の国際情勢解題」より 令和五年(2023)4月13日(木曜日) 通巻第7705号
そして中国から台湾人がいなくなった
中国から30万人の台湾人が逃げ出して。。。
1980年代、中国が改革開放に転じたとき海外華僑は半信半疑だった。
最初は香港の華僑が、それも零細企業がスイッチの部品とか、プラスチック成形機を運んで、人件費の安さに惹かれ中国に進出した。
といっても広東語の通じる広州から深せんにかけて進出した地域は限定されていた。広東人にとって上海語はまったく理解できない。
華僑コネクションを通じて噂を伝え聞いた台湾人が、おそるおそる、繊維、プラスチック、玩具、軽工業や機械部品の工場を大陸に移管し始めた。第一に台湾 語は福建語の変形だから言葉が通じる福州、厦門あたりへ。第二の理由は言葉だった。アパレル進出の台湾工場では大陸の女工さんたちを台湾の五分の一以下の 給与で雇用できた。
台湾企業の中国投資ブームが起こった。ウーロン茶のノウハウから唐墨の処理方法まで台湾人が大陸へ持ち込んだ。台湾の経営者のなかには現地妻を抱える手合いもかなり夥しく、そのお手当の安さを吹聴したものだった。
ここでマフィアが絡み出した。台湾人の住まいを狙う窃盗、強盗事件が頻発。殺人事件も相当数にのぼった。ついで脅迫、誘拐による身代金、美人局ときた。
政治的に見ると江沢民から胡錦濤時代の二十年間、中国ではかなりの程度まで商業活動は自由で、ぼちぼちスナックがナイトクラブとなり、高給バアやらワインバー、なかには日本酒の銘酒をそろえたバアもできた。めざましい経済発展がおきた。
倶楽部は大概が銀座の真似でボトルキープの棚がめだった。殆どのビジネスホテルにカラオケバーがあった。
1990年代に台湾は中国投資を上限5000万ドルとして正式に許可し始める。
台湾プラスチックの王永慶会長に、この頃インタビューに行ったが、上限額を超える投資を中国大陸になすというので「禁止されているのでは?」と聞いた。
王は「米国子会社の投資とするので台湾の規制には引っかからない」とあっけらかんとしていた。
金門島の知事に会いに行くと、「台湾から対岸の厦門へ橋をかける」と豪語しはじめ、具体的な青写真を見せてくれた。
「台湾侵略にミサイルを配備している国に金門島から橋を繋げるのは危険では?」と尋ねた。「大丈夫、われわれは中国人同士、考えていることはわかる」と胸を張った。
▲42万から16万人と三分の一近くまで激減した
2011年、中国に40万人の台湾人が駐在、あるいは移住していた
2015年、42万人となった。おそらくピーク、習近平の台湾強攻策が始まった。
2020年、往時の半分近い242000人に減った。理由はコロナ、共産党の強硬な態度、そして中国以外への工場移転である。このころ、台湾の世論調査では台湾独立をのぞむ台湾人が過半、現状維持が25・7%、両岸統一を語る人は11・8%だった。
2021年 中国に滞在している台湾人は163000人に激減した。その傾向は歯止めがかからず、現在はもっと減っているはずである
主因はコロナ災禍で、工場を休業し台湾へ帰り、そのまま戻らなかった。くわえて習近平の独裁が確定し、台湾統一を前面にだして軍事訓練、威嚇を本格化させたため嫌気をさすようになった。
つぎに人件費の高騰で川下産業の典型、繊維や玩具、雑貨などは中国からベトナムへ、カンボジアへ、そしてバングラデシュへ工場を移転した。台湾企業の繊維の町だった厦門近辺はゴーストタウン化した。
結局、台湾企業も技術を盗まれ、投資した工場はかれらに乗っ取られ、愛人たちはさっさと金を持ち逃げ、投資そのものが間違いだったことに気がついた。
日本企業諸氏、この台湾起業家たちの教訓をどう読むか?
台湾人がこれ程Chinaから撤退しているのは知りませんでした。これを同じ危機として考えられない日本の経営者達は救い様のない平和ボケなのでしょうか。やはり、日本の将来は真っ暗なようです。