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明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



本日は田村正和のカメラを壊してしまった、いやそんなことはしていない、と目が覚めた。いつもより悩む時間が短くて助かった。 当初、芭蕉庵をおんぼろの東屋をイメージしていたが、周囲の門弟、タニマチがいたわけであるし、サロンのように芭蕉をしたった人達が集ったようなので、私や多部未華子のような暮らしぶりではなく、きちんとしていたであろう。門弟の中には女房に命じて、師匠宅を掃除に行かせた、なんてのもいたかもしれない。 芭蕉は酒を飲んだらしいし、門人その他と区会を催した。茶碗が十個たかいくつか置いていたらしい。それを英一蝶、だったか誰だったか、に聞いたニ、三代目かの市川團十郎が書き残している。十個かどうかはともかく、ある程度の人数を招き入れていたことは間違いはない。門弟が師匠のために、米を蓄えた大きなひようたんというのは絵的には面白いのだが、いかにも入れなさいと、目立つところにぶら下げておくのは変だろう。 三遊亭圓朝を旧知の鏑木清方が思い出しながら描いた、肖像画の傑作は、何事か企んだ表情に見え、私が見落としている圓朝がいるのではないか、と読めるだけの物を探して読んだが、師匠に裏切られても見捨てず、弟子も守るような人物で、あの表情は、芸に対する表情だあったのだ、と最終的に納得した。ただ、よく聞く話だが、身内である倅の出来が悪くて勘当している。 考えてみると、肝心な芭蕉像はすでにあるのだから、芭蕉の人となりについてはともかく置いておいて、明日は土台となる合板をと柱だけでも入手したいと考えている。

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一日  


午前中、昨日の幼馴染みの金魚に対するアドバイスを思い出していた。できれば違う種類の金魚を混泳させるべきではない、と。ほとんどがオランダ獅子頭系の中にいる虎柄の朱文金のことをいっている。そこで寒山拾得のことを説明し、虎役は別の種類にしたいのだ、というとうなずいていた。小学校の時、学芸会で、私の企画立案した寸劇に何度となく付き合った友人は、さすがになんだそれは?などとは一言もいわない。本日の入道雲が金魚の頭の肉瘤に見える。 何度もやってしまうのだが、ポケットに札を入れたまま洗濯してしまい、いつものようにレンジで乾かしたのだが、火花が散って発火、万札が焦げた。こんなことは初めてである。全焼ではないので、広げずそのまま銀行に持って行くと、日本銀行の審査が必要という。書類に色々書き込む「たぶん3枚だと…。」その後江東文化センターに行き、芭蕉記念館の担当者と待ち合わせる。本日講座を開いておられる日本歌人クラブ会長の藤原龍一郎さんを担当者にご紹介することが出来た。私の以前の住まいの真ん前の小学校の御出身で江東区在住、芭蕉サミットその他、お力を貸して頂けるのではないか、と以前から話していた。担当はアイデアマンであるので、さっそく色々企画を思い付いていたようで何よりであった。 その後、居酒屋にて芭蕉庵の打ち合わせ。簡単な図面に具体的なサイズを書き込んである。高さはおよそ70センチ。ようやく決まった。難航したのは、当初私の芭蕉像を中に設置しようと考えたせいで、そのままでは家から出ないくらいのサイズとなるところであった。 芭蕉庵にはひようたんが備えられてあったという。門弟達が師匠のために米をもちより入れて置いたらしい。そういった身の回りに関する情報をできるだけ集めるようお願いしておいた。 帰りのタクシーで、そういえば一万円札はキラキラしている部分がある。インクに金属が含まれていて発火したのかもしれない。何度もレンチンしたのに今まで発火しなかったのは、私のポケットにキラキラした札が入っていなかったせいだろう。運が良かった、ということにしておいた。

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3D  


寒山拾得に関しては順調に金魚を眺めており、何の問題も差し障りもなく、ただ金魚を眺め暮らすという試みに関しては成功しているといえよう。一方、芭蕉記念館の芭蕉庵は、当初私の芭蕉像が、あたかも庵に住まうが如くに、と構想を描いていたが、そうなると少々大き過ぎる。そのままではベランダからでないと家を出ないであろう。またかたわらに芭蕉の樹はもちろん、出来れば古池も欲しい。 そもそも空間を把握する能力に問題があり、何十回も行って来た個展会場の飾り付けはすべてお任せしてしまい、一度も独力でやったことがない身としては、会場の事情なども考慮しなくてはならない。半分にカットすることも考えた。いっそ実際の8分の1くらいならどうだろう。芭蕉の樹も古池も当然オーケーである。しかしそうなると、芭蕉庵にて句作に思いを馳せる芭蕉を配するために座像として制作した芭蕉像が飾れない。 昔、デイスコ用に、人間大の人形を作ったことがあるが、頭部の制作時間は大きかろうと、といつもとたいして変わらなかった。だが逆に小さくとなると話が違ってくる。手のひらに収まるというのと、私の込めたいことを込めるためにはどうしてもいつものサイズは必要なのである。 ところが本日、3Dプリンターで小さく出力する、というのを思い付いた。1997 年に、 初の作家シリーズの個展を開催したおりに、ある人物が、立体をデータとして取り込める機械が日本に一台あり、それでスキャンして映像としてその時展示していた作家を動かしてみたいといった。その時の私はというと、ワープロすら触ったことがなく、スキヤニングという言葉が使われたかどうかも定かではないが、意味も判らず相手にしなかった。もっともその当時のCG映像はたいした物ではなく、余計なことをしないで良かった、と思ったものだが。今だったらまず、ロバート・ジョンソン、葛飾北斎、松尾芭蕉を動かしてみたい。

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芭蕉庵制作にあたり、納期はある程度任せていただくようお願いした。人形制作ならともかく、専門分野ではないので大工のようにはいかない。申し訳ないが、芭蕉庵の完成度で感心してもらおうとはハナから思っていない。ジャズ、ブルース時代の楽器もそうだったが、主役の人物をより良く見せるために作りたい。高さはおおよそ1メートル15 センチ前後。海辺の低い土地の深川だけに床は少し高め考えている。 金魚水槽には主だった寒山拾得メンバーがすでに揃ってしまったが、金魚にはまって間がないので、新しい金魚を入れたくてしょうがない。そういえば閭丘胤(りよきゆういん)が、高僧を期待したか、寒山と拾得を訪ねて行った寺には、その他大勢の僧達がいたではないか。早速決めたルールを拡大解釈し、アリオ北砂のペットショップでアイアンコメットという、鉄というより真鍮色の小さな魚を二匹買った。一匹500円くらいで、8のつく本日は生体20パーセント引きなので、罪悪感も薄まる。 思えば子供の頃から、この罪悪感を薄める工夫をし続けている気がするのだが気のせいであろうか。まあ人生上の味わいは、こんなところにこそ生ずるのであろう。とかなんとかいいながら。 子供の頃から飼っていた熱帯魚はシクリッドといって気が荒く、縄張りを主張するの魚種で、金魚と違って歯がある。混泳には気を作ったが、金魚はその点安心である。来たばかりのアイアンコメットは、私と初対面のはずが、すでに前からいたかのように、餌くれと、自分の何倍もある寒山や拾得等と互角に一緒になってジタバタしている。調子の良い奴だ。 時を忘れて水槽を眺めていると、いっそのこと、河本のカウンターを水槽の前に設置し、と考えないではないが、それは場所を取りすぎる。できれば折り畳みで、ウイスキーの瓶とショットグラス、あとは南京豆がどうにか乗る程度のテーブルが良い。などと書いていたら、木場の立ち肉屋のオヤジから次々と動画含めた河本の懐かしい画像が送られてきた。

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芭蕉庵は、当初私の人形サイズに合わせると、かなりな大きさになり、展示スペースのことを考えても、半分にカットした方が良いと考えていたのだが、芭蕉立像は54センチ、帽子を引いて53センチ。身長を158センチくらいとすると、私のイメージしていた東屋は、屋根を別にして一辺が1メートル4センチ、と思ったほどには大きくない。そこで結局芭蕉庵全体を作ることにした。古池まで手が回るかは判らないが、芭蕉の樹は庵の傍らにあったようだし、これは作らなければならない。開店を前に、カラオケ装置が店に入らなかった、荒井注と逆に、屋根を取り外し出来るようにしておかないと、部屋から出ない可能性があるが、制作上面倒なことになりそうであったら、ベランダから降ろそう。 先日まで、グループ展をやっていた江東区文化センターへ、『戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭 』"ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶"を観に行く。沖縄へはまだ車が逆の車線を走っていた頃、三回ほど行った。歩いていた婆さんから「ニッポンから来たね?」といわれたのを覚えている。まだコザ市があった。沖縄戦が悲惨であったことは想像ができたが、何がどう悲惨であったかが描かれていた。一人に浴びせられた弾薬は470発だったという。本土決戦の時間稼ぎに沖縄は利用され、友軍と呼んでいた兵隊は市民を守ろうとはせず。集団自決の悲惨。捕まれば殺される、と親に殺されることを望む子供達。手を下した親は投降して米軍に殺されようとしたら、水、食料を与えられ助けられてしまう無惨。教育、洗脳の恐ろしさ。上映後、ナレーシヨンの宝田明の対談。相変わらずカッコが良い。幼稚園児の頃、どちらがゴジラかも知らずに始めて観たのが『キングコング対ゴジラ』怪獣が実物大に見える恐ろしさ。キングコングのアップで父の背中に隠れ、しばらく悪夢を観た。宝田明、渾身のナレーションが胸に響いた。

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芭蕉庵の制作にあたり、既に一体収蔵されている立像の高さを、芭蕉記念館に問い合わせている。すべてカンに頼って制作しているので、自分の作品のサイズは知らない。アイデアスケッチの類いを一切描かない私も芭蕉庵のおおよそのスケッチを描いた。身長158センチ前後、と設定し、人形の立像に合わせてサイズが決まるだろう。 父は工学部を出て、サラリーマン時代、船のイカリの設計をやっていた。ところが私はというと、誰かが笑わせようと画策したかのように、父とは何もかも正反対の人間になってしまった。算数など、こんなつまらない物が大人になって必要になるはずがない、と思っていた。小学1年のある日、計算が出来た人から廊下に出て答え合わせをする。という授業で一度だけ一番で廊下に出た。これが私の人生における数学上のハイライトであった。まだ加と減しかなく、乗除はなかった。何しろハイライトであるから木造校舎の匂いとともに鮮明に覚えている。 人形制作は、まず頭部を作り、それに合わせて身体を作る。ジャズ、ブルースシリーズの頃は、頭部の次に、それに合わせてまず楽器を作ったが、すべてカンに頼っていたために、ウエス・モンゴメリーに、オクターブ奏法をさせるはずが、ギターが大きすぎて、背後に立て掛けることしかできなかった。そう思うと、グランドピアノ作った時も万事その調子で、制作に数字が登場するのは始めてかもしれない。作るのが、かっての違う建造物だから仕方がないだろう。だがしかし、私に人並みな計算能力があったとしよう。100パーセント制作を続けては来られなかったであろう。そう考えると、私の笑顔は、計算能力の欠如が支えている、といっても過言ではない。いや笑顔どころか私の幸せを支えているのは、といっても良い。


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スケッチブックに何か描いて構想を練ると、往々にして、最初の一枚目のイメージが固定化してしまい、面倒なことになる。メモ用紙の悪戯描きを深夜ゴミ箱あさって探したこともある。よって本当はあ ああだこうだ、とスケッチブックブック相手にやりたいのだが、一切やらない。だがしかし、人間が登場しない芭蕉庵だったら大丈夫であろう。スケッチブックと鉛筆と物差しを買って来た。遅くとも、今月中に寸法出しは済ませたい。深川は水が出やすい土地であるから、床下を高めにしたい。どんな高さに設置されるかにもよるが、屋根が邪魔で、芭蕉が良く見えないのも困る。門弟の中には、そこそこの商人もいたようだし、それなりの庵だったかもしれないが、華美を好まない質素な人物だったそうであるし、俳句の枯れたイメージもあることだし、と芭蕉像制作時にいっていたことと一転、パブリックイメージに殉じようという、私である。しかし記録が残されているわけではなし、様々な人が描いた芭蕉庵も憶測に過ぎない。そうであれば、パソコンの空き段ボール箱を乱歩が潜む屋根裏に仕立て上げた経験しかない私とすれば、美しい芭蕉庵よりは、経年変化も著しい、ボロ屋を作る方が面白いに決まっている。先日のグループ展に出品した、人形制作者の仕事場風景には、しゃれこうべが置いてあったが、何人かの方に「ホンモノですか?」と聞かれた。澁澤龍彦邸の骸骨でさえレプリカであるから、私の家にホンモノがあるわけがない。単なるプラモデルである。しかし撮影用に、と、リアルな塗装をしているうちにやり過ぎてしまい、夜が明ける頃には、すっかり佃煮じみてしまった。つまりやるなら醤油で煮しめたような芭蕉庵の方が、作るなら面白い。

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最近眠くてしようがない件だが、最近飲めるようになったブラックコーヒーを飲むのだが、やはり体質的にカフェインが効かないようである。一時抹茶に凝ったことがあったが、良く眠れた。眠眠打破とかいうのもさっぱりであった。エナジードリンクとやらを始めて飲んでみたが、何も起こらず。 深川のコーナンに小津安二郎旧居跡の前を通り、工具を買いに行く。引っ越し以前も良くここを通ったが、何処に何があるが判っているのでどうしても来てしまう。 その先には軒下にへたり込む、枯れ枝のような芭蕉の銅像。芭蕉を制作中は、私より年下のくせに、このクソジジイ、と銅像を横目に呪いながら深川図書館に通った。数々の人物を作って来たが、腹を立てながらファイトを燃やし制作したのは松尾芭蕉だけである。何しろ、会ったこともないのに、適当なことを、と与謝蕪村にも腹を立てていた。その頃知らなかった、芭門の一人の肖像画を最近見たが、やはり下ぶくれの顔に吊り気味の目、耳と鼻が大きく、明らかに芭蕉を身近に見ていた門弟だと判る。野見宿禰や当麻蹴速、または寒山と拾得など、居たかどうかも判らない人物とは訳が違う。いい加減なことば出来ない。 芭蕉庵に関して、ある参考になりそうな資料を見付けた。友人に相談すると、様式的に時代が違う。芭蕉マニアにはうるさいこと言われるのではないか、と言う。”マニアっていったって、いい加減な芭蕉像で平気でいるんだから、気にするかよ?“

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芭蕉庵の落書きの件は、何も作り始めてもいないのに考える事ではない。それは私も判っている。こういう時思い出すのは遠藤周作がいった“やらなければならない事がある時、他のことをせずにいられない人を怠け者という”おっしゃる通りである。しかし怠け者の上に名案が降ってくるのもしばしばそんな時である。 作業机の上で、現場合わせで切ったり貼ったりすれば良い、と考えていたが、小、中学校の技術家庭科が2か3だった私である。空間把握能力にも相当難があり、フライボールは捕れない。部屋の間取りを描こうとすると、しばしば紙面からはみ出す。そう考えると、良く制作を続けて来たな、と思うが、手の届く範囲ならなんとかなるようである。芭蕉庵は私にはサイズが大きすぎる。そこで仕事でCADを扱っている友人に図面を書いてもらうことにした。まずは庵の枠組みさえ出来れば、手の届く範囲となり、何とかなるだろう。スケッチの類いは一切描かないが、今度ばかりはそうはいかない。 そういえば、古池のことは考えていたが、それより何よりまず肝心なのは芭蕉の木だろう。植物に関しては、殆ど興味がないのでどうやって作れば良いのか。面倒な事は後回し、最後に自分の首を締めることになるのがお馴染みのパターンだが、まだ始めてもいないのに後悔は出来ない。

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古池  




明日はプリント収納用のタンスが届くので片付ける。これで立体とプリントを分けて収納が出来る。到着時刻によっては、明日にはコーナンに行って、芭蕉制庵制作用の工具、材料などチェックしに行きたい。三島のことをようやく考えないようになった。 芭蕉庵も作るのだから、写真作品も手がけたい。一つはどこかの実景に芭蕉庵を配し、勿論古池もどこかを撮影したい。深川の松尾芭蕉の写真作品の決定版として残したい。ついでに夜の芭蕉庵の芭蕉も。久しぶりにこれでもか、と陰影礼賛とい行きたい。今回は江東区のコミュニティ財団の依頼であるから、たった1カットのためにここまでやるのか、というお馴染みの罪悪感を感じないですむ。何よりである。 昨日の段ボール箱で作った江戸川乱歩の屋根裏と違って長く展示されるものであるから、強度に関しても考慮しなくてはならない。 アリオ北砂で買い物をしていて展示用の古池のアイデアが浮かんだ。土台をかさ上げして、池の穴を作る訳には行かない。展示スペースを考えるとタライぐらいの面積か。水溜りに近い。 名張市の中相作さんから新著『うつし世の三重』江戸川乱歩三重県随筆集を賜る。伊賀といえば、松尾芭蕉である。当地からもサミットには関係者がお出でいただくのであろう。



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昼に知人と待ち合わせ、泰明小学校近くの蕎麦屋、泰明庵で食事。刺身、天ぷら日本酒と少々食べ過ぎ。山野楽器でギターのストラップ、シールドを買おうと行った。入り口で初めて体温を計られるが、エレキギターの階は閉鎖中。森下の芭蕉記念館に向かう。 2階の展示室へ。十二月の『芭蕉サミット』に向け、9月17日より『深川芭蕉庵』という催事があり、芭蕉庵を作らなければならない。私の芭蕉像のサイズに合わせると、かなりの大きさになってしまう。芭蕉庵は八百屋お七の火事で焼失したり、売却したり、と三軒の存在が確認されているようである。それも一部屋だっり三部屋の場合もあったという。スペースのことを考えると、一棟丸ごとは厳しいので一棟の後ろ部分をカットせざるを得ないであろう。芭蕉の木は必要不可欠であるが、そうなると池も欲しくなる。まあ、やれることとやれないことはある。庵まで作るとなると石塚式ピクトリアリズムと、もう一つ本物の芭蕉の木や池、背景を合成して、それこそ深川の芭蕉庵を再現してみたいし、またさらに欲が出てきて、暗い庵内に燭台の蝋燭一本の灯りに浮かぶ西洋画調陰影の芭蕉の姿。蝋燭の周囲には飛び交う二、三匹の蛾。 段々私の過剰の虫が湧いて来た。何しろ江東区に依頼されているので、こういう渡世で生きる上での拭いきれない罪悪感は感じないですむ。

ふげん社のページへ

https://fugensha.jp/artists/kimiaki-ishizuka

 



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芭蕉をに着彩。先日、こんな色を塗ろうと、滑り込みで絵具を買いに行ったが結局使わず。陰影をなくす手法は、先に背景を用意し、そこに個々に撮影したものを配するのだが、この背景というより下地と合わなくなってしまった。楽譜がないアドリブである…仕方がない。その代わり主役の撮影は撮る向きは決まっているから迷うことなく、たまに上下左右、数度動かしてみる程度である。どうせ切り抜くのであるから画面が傾いていても問題はない。 昨日、パンフレットとは別に壁に掲げるキャプションをふげん社に送信した。配られるパンフレットを見ながらごく簡単なキャプションを読んでもらおうということである。会場でのこれは何ですか?という空気は慣れっこではあるものの、今回はさすがに飾りっぱなしでは不親切であろう。緊急事態期間と会期がまるかぶりである。正直いうと、絶対来いよ、と声をかけられたのは、毎日自転車でふげん社の前を通り自分の工房に通う友人だけである。三島だけに決行が似合う、といったものの、確かにモチーフが例えば室生犀星だった場合とはやはり心持ちが違う。よりによって三島とは。これは何かの縁だろうと、思う。一つ間違いないのは、この機会がなかったら生まれなかった作品があることである。寺山は正確ではないが、フットボールを観た後は赤い色が違って見えるとかいった。ちょっとしたことで作品が一変してしまうから、私は作りかけの首をポケットに、外出先で度々確認する。気が気でない。良いが悪いかは別にして、今だからこその作品がある。 飯沢耕太郎さんにお付き合いいただくトークショーは無観客で、ということになったが。つい最近気がついたが、普段見ているユーチューブと違って編集はない訳である。うっかりしたことは言えないということである。
https://youtu.be/eiGxJ6OXJxQ



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江東区芭蕉記念館のある森下駅を歩いていたら、芭蕉いろいろとかいう、芭蕉の肖像画のパネルが20枚ほどズラリと並んでいた。これがまた見事なくらい、門弟の描いた肖像画が反映されていない。またわざと門弟達の作品を外したとしか考えられない。理由は判らないが、俳句の枯れたイメージのためなのか、どうしても青林堂の創業者みたいな人物だと思い込ませたいらしい。一体目の芭蕉像が記念館に収蔵された時、門弟の肖像のみを参考に制作、と掲げるようにいったのだが。ちゃんとやってくれているだろうか。多勢に部勢、私の芭蕉はイメージが違うといわれている。そもそも私より年下なのに、と半分腹を立てて作った。全国を歩き回り、還暦前に死んでいる人物である。少なくとも2体目はそれを掲げることを条件にしよう。 葛飾北斎の新作の撮影場所が、コロナで閉鎖。画室で海女と蛸の絡みを凝視する画狂老人を考えていて、そのために前のめりにしていただけに残念である。写真というものは、無いものは撮ってはいけないことになっている。ただ考えてみたら、蛸と絡んだ北斎。数百メートルの大女のヌードにすでにタコは登場している。多すぎであった。円谷英二ではないがタコを使うのは面白い。撮影後食べて美味しいし。 今後随時、今まで作ってきた人物を陰影のない石塚式ピクトリアリズムで新たに撮り直して行くつもりであるが、寺山修司もまだである。寺山と永井荷風はどんな街に持っていっても絵になる双璧である。ところが寺山は何かやってもらおうとすると何もやってくれない。正確にいうと突っ立っている以外、やってもらうことを思いつかないのである。本人はどんな鳥も想像力より高くは飛べないだろうと言っていたのだが。またいずれ。

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芭蕉と共演予定のオブジェは、北斎の背景と同様、撮影不可と思われたが、さっさと短時間で撮り終えろ、とまるで盗賊の手引きをする実は一味の番頭からのようなメールをもらった。 好きな本の書影をアップするというブックバトン二日目で昭和44年講談社江戸川乱歩全集第一回配本屋根裏の散歩者をアップした。乱歩はまだ生きていた。人からの又聞きで15歳の時に好きだった物は一生好きだ、乱歩と谷崎についてはよくそういっていたのだが、12歳の時だったことが発覚。どうりで小遣いが足りずに続かなかった。大人向けの乱歩は初めてであったが、この第一回配本は乱歩のの短編の名作が並んでいる面目躍如。白昼の笑顔が怖い事など初めて知った。 装画は横尾忠則さんで、変わった絵だなと思ったが、読後にまさに江戸川乱歩の世界だとビックリした。横尾さんにお会いした時にこのボロボロの本にサインをいただいた。 薔薇十字社の男の死は、元々三島と横尾さんの二人の写真集になるはずであった。企画者の内藤さんは一人では三島が引き受けないと考えたと伺った。横尾さんが怪我をして、その間に三島が自分の分を撮り終えてしまったのであった。三島には待っていられない事情もあったし。







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松尾芭蕉乾燥に入る。私は気分が著しく天気に左右される。だからといってコロナじゃなくても散歩にも出かけないけれど。せっかくの晴天、まずは天日で乾燥。以前はネットでも目にしなかった芭蕉像を見ることができる。私は嫌味なくらい門弟3人の描いた肖像画だけを参考にしたが、杉風の初めて見る肖像画も見たが、下膨れの顔に、立派な鼻と耳たぶ。いくらか吊り気味の目。それぞれ画力に差はあるにしても、これはすべてに共通していて、師匠の面影を後世に残そう、という門弟達の想いが伝わって来て、なんだかしみじみとくるものがある。被り物の下は禿ていたのも間違いがない。 歴史的大家を私ごときがくさす機会はないのでいってみるが、何枚いい加減な芭蕉像を描き散らした与謝蕪。蕪村はまだ尊敬して描いているからまだマシだが、全国には県会議員や村長の顔にしているのもありそうである。ホントはどんな顔をしていたんだ?と少しは気にならないものなのか。とはいうものの、私が夏目漱石がワシバナだ、といったところで、加工された鼻の漱石写真が展覧会の度にパンフレットやポスター、図録に使われ続けるのであろう。本人にウソつかれればしようがない。私とデスマスクを見た人だけが、鼻のカタチなんか気にしてるから胃潰瘍なんかになるんだ、と思うのだろう。 北斎の背景に設定していた場所が閉鎖中で、画室で絵を描く北斎を断念した。これだから写真は嫌だよ、とグチの一つも言いたくなるが、芭蕉にしても本日、あるブツと芭蕉の共演というアイデアが浮かんだ。私はこんな時、思い付いた!という顔をするそうだが、ある人に、鍵持ってるなら開けてくれれば私一人が忍び込んで撮ってきたい、といっている。

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