明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



ようやく屋根に取り掛かる。しかし予定より材料を使い700×450ミリ2枚のうち1枚だけをとりあえず。明日は梁用の材料を買って、屋根裏の構造部分をや作るか、もしくはペインティングナイフで、漆喰の壁塗りをするか。今日の収穫は、屋根の板葺き部分の制作方法を思い付いたことである。屋根はとりあえず目につくし、中を覗けば、当然屋根裏に目が行くだろう。 日曜大工好きだった父は、サラリーマン時代イカリの設計者であった。そのせいだろう。鉛筆の芯をやたらと長く尖らせていた。私と来たら、ぶきっちょっゆえ、鉛筆をナイフで削るのが苦手で、鉛筆削り専門であった。そしてまた父とは性格か逆で雑な私である。そのシワ寄せを、最初の頃手掛けた部分を剥がし修正。鉛筆さえ尖らせておけば、シワ寄せはもう少し少なかったかもしれない。しかし私が仮に、父ほど鉛筆を尖らせる人間であったなら、形もイメージもあやふやな人間などという物をモチーフにしようなどとは絶対に考えなかったであろう。ベリベリと壁を剥がすことにはなったけれども、これでいいのだ。



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ようやく屋根に取り掛かる。しかし予定より材料を使い700×450ミリ2枚のうち1枚だけをとりあえず。明日は梁用の材料を買って、屋根裏の構造部分をや作るか、もしくはペインティングナイフで、漆喰の壁塗りをするか。今日の収穫は、屋根の板葺き部分の制作方法を思い付いたことである。屋根はとりあえず目につくし、中を覗けば、当然屋根裏に目が行くだろう。 日曜大工好きだった父は、サラリーマン時代イカリの設計者であった。そのせいだろう。鉛筆の芯をやたらと長く尖らせていた。私と来たら、ぶきっちょっゆえ、鉛筆をナイフで削るのが苦手で、鉛筆削り専門であった。そしてまた父とは性格か逆で雑な私である。そのシワ寄せを、最初の頃手掛けた部分を剥がし修正。鉛筆さえ尖らせておけば、シワ寄せはもう少し少なかったかもしれない。しかし私が仮に、父ほど鉛筆を尖らせる人間であったなら、形もイメージもあやふやな人間などという物をモチーフにしようなどとは絶対に考えなかったであろう。ベリベリと壁を剥がすことにはなったけれども、これでいいのだ。



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一昨日深夜、芭蕉庵建設現場ででちょっとした事故があった。子供の頃、ボーイスカウトで、強風に煽られテントが大変なことになったのを思い出した。あの頃のテントは今の物とは別物の原始的であった。嵐に襲われた訳ではないのに、事故は作業台の上で起きたが、なんとか土俵際でこらえ、昨日はとにかく補強に務めた。おかげで本日は、揺らせばさすがに多少ミシミシいうけれども、すっかり頑丈になった。こうなったらむしろ、と。屋根に続く構造部分をすべて取り去り、屋根を帽子のように、ただ置くだけで済むようにし、搬入時に固めることにした。あまり複雑な連結部分は、上手く合わさるかどうか、自信もなかった。 必要になってから、ぶっつけ本番で失敗、学びながらの試行錯誤は、たった数日で、成長を自覚出来る。これが利点であり、楽しくもある。勿論、あくまで人物制作に対しての周辺技術に限る訳であるが。と、一昨日深夜、何が起きたかはともかく、泣いたカラスはもう笑っているのであった。 今週、内外装の漆喰作業のために油彩画用ペインティングナイフを注文する。イメージ通りに行くかは、やってからである。漆喰、着彩に備えるため、戸板、その他の部品は装着せず待機させ、明日からは屋根の構造部分に取り掛かることにする。



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最近訃報ばかり耳にしている気がする。コロナで忘れがちになっているが、放射能の影響は関係ないのだろうか。あまりノンビリもしていられない。 午後ホームセンターへ。壁や戸を作りながら、これを組み立ててしまうと、内装がやりにくくなる。出来上がった部分を剥がすのはもう懲りたので、この辺りから順序を慎重に考えながらやらないとならない。窓二つが完成。一つは閉じた状態。やはり実際の家屋とは勝手が違う。端材で文机も作ろう。明日は漆喰に相当する物を作り、明後日には左官屋のまねごとをしたい。 昨日ホームの母に電話した際、芭蕉庵を作っている話をすると、父が生きていたら手伝って貰えたのに、という。小学生の夏休みの宿題じゃないよ、という話だが、そういえば毎日のようにホームセンターにかよつていると、日曜大工好きであった父のことを想い出す。父愛用の手製の工具箱には、抜いて曲がった釘まで取ってあった。



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芭蕉庵、壁の2面が塞がった。今日が冷え込んだせいかもしれないが、スカスカよりもなんとなく落ち着く。屋根はがら空きで、操り人形の舞台のようである。この辺りから制作工程を良く考えないと、やりにくくなるだろう。寒山拾得水槽は、豊干の乗る虎役の朱文金の成長が早く、それは良いのだが、肝心の虎模様が色抜けし、ただオレンジ色の金魚になつてしまったのでクビ。ベランダに出向。同時にアイアンコメツト二匹も。こちらは真鍮色だつたのが赤銅色に、いずれも色揚げ用の餌が良くなかった。これで水槽に余裕が出たので、明日も行くであろうホームセンターで黒らんちゆうを買ってしまいそうである。 寒くなり木製角型の手焙り火鉢は、埃を防ぐために蓋をして仕舞おうと思っているうちに、使う時期が来てしまった。老人の盆栽が、毎日ニヨキニヨキ伸びて忙しくてしようがないという感じなのだろう、と想像が付くようになってしまった。これは長い間制作して来て培った時間感覚、ペース配分に狂いが生じる、ということでもあり、あくびをしている間に二日も経ってしまう。気を付けなければならない。



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昨日深川江戸資料館で、知らないで良いことも知ってしまった。私のイメージでは、もっと単純なはずだったが、昔の大工は余計なことまでしてくれており。 本日は屋根の一部と壁の一部。といつても、単に塞がっただけたが。あまり塞ぐと、やりにくくなるので、そこそこにして進めて行く。 一つ残念なことあり。当初、私の人形に合わせて作ろうと考えたのだが、あまりに大きくなりすぎるので、芭蕉の座像で40センチ位の作品を3Dで25センチ位に縮小することを考えていたのだが、国内の出力する場所が撤退していた。よって撮影は日本で出来るが、出力はドイツで、ということで2ヶ月かかるという。とても間に合わない。実物大の人形は作れても、小さい人形は作れない。込める情報の最小単位が私の作品サイズなので。 もっとも人形を中に配したいと、私が思っていただけであり、問題は特にないのだが、ただどうせなら芭蕉が良く見えるように、正面の戸をとっ払い、立てかけるつもりでいたので、芭蕉がいないのならあここまで開け広げる必要はない。少々考えどころとなった。



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天井裏の梁の制作は先延ばしして、深川江戸資料館に向かう。16年に個展『深川の人形作家 石塚公昭の世界』を開催した。その時点で展示出来る作品をすべて展示し、中締めともいえる展示であった。これにより、作家シリーズも長くやり過ぎたかも知れない、と思い始め、以後変化の時を迎えることになった。この後石塚式ピクトリアリズムにも拍車がかかって行った。 ゴールデンウィーク中でもあり、清澄白河が観光地となっており、8000人超の入場者を数えたが、なんといっても江戸時代の深川を再現した家並みが見事である。再現といっても、技術の保持者を集め、無い物は道具から作り、材料、その他こだわった文化財である。多少貢献してきたこともあり、三遊亭圓朝、泉鏡花他の背景に使わせて貰った。来月からの松尾芭蕉関連の催事の際には、今年制作した松尾芭蕉像も、こちらに展示される予定である。今日はスマホ片手に、各部分の見学に行って来た。天井や外壁、軒下等を観て回った。見なければ良かった、なんて部分もあったが。 そこから近いホームセンターへ、記憶を頼りに材料の調達。今週は屋根裏、外壁に着手する事になるだろう。屋根は板葺きに決めた。 昨日届いたマックミニはまだ箱から出しただけである。パソコンで出来ることは好きだが、パソコン自体が好きな訳ではない。



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昨日、梁に使う材料を御茶ノ水に買いに行ったのだが、画材店の前を通り、先にギター用ストラップとピックを買い、画材店に戻るとシャッターが閉まっていた。梁を作ってから、と他の部材を取り付けず足踏みして我慢をしていたのが無駄になった。そんな自分に腹を立て、腹の虫を鎮める為に地元に帰って店に飛び込み、アルコールにて腹中を消毒した。 本日こそ、と鼻息を粗くしていたら、注文していたマックミニが届く日ではないか。メールを見ると配達中である。仕方がない、窓枠など、先に作りながら待っていると、街に流れる四時半のチャイム。何故昨日、ストラップなど、昨日でなくともかまわない物を先に買った?作ることとなると気がせいて、せっかちに変身する私は、イライラ。本日も腹の虫を鎮める対処の必要が生じたではないか。こうなると、明日御茶ノ水に行くと、この二日間がよけい悔しくなりそうなので、明日は行かないことにする。昔は、家を出て、忘れ物に気が付くと、頭に来て別の道を通ったりした。梁は後回しにして、いつものホームセンターに行き、外壁材を入手することにした。懸念といえばそこにいる黒らんちゆうが欲しくならないか、である。 屋根は茅葺き藁葺きも考えないではないが、丁度良い材料があればだが、なんだか如何にもであり、普通な気もする。いっそ所々ペンペン草が生えたような屋根にしたくもあり。芭蕉庵は門弟、支持者によるサロン的な場所であったようで、茶碗が10個置いてあったとも聞く。 母は明日退院。子供の頃は私がチック症になるほど口煩い母であったが、その代わりというか、ホームで楽しくやってくれており、そんな親の話はあまり聞かないので、有難いことである。



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一日  


ミニチュアだろうと檜の断面からは良い香りがする。床を張り終える。実際の家と違い、床を張ったことで強度がさらに増した。昨日は朝から作業していて食事をとったのは夜。お陰で腰痛出る。慣れない切り出しナイフで指を切り、張ったばかりの床に血を垂らす。松の廊下の人傷沙汰。これで明日からは屋根に取りかかる。毎日ホームセンターに通っているが、決まっているのは外側のサイズだけなので、作りながら決めて行かないと、部品のサイズを間違えてしまうので、結局はこうなる。お陰で金魚売り場で、我慢出来ずに、背びれが無い魚なんでおかしいだろ、なんていってたのに、らんちゆうを買ってしまう。水槽に入れてみると、金魚の赤色は、考えられる全色が揃った。 先日、芭蕉記念館で、設置される予定の場所を確認して来たが、入るだろうが、入るというだけで、予定している芭蕉の樹や出来れば古池まで手を出したいところであるが横一列に並べることになってしまう。やはり数字だけで想像するのと、立体は違って来る。担当者にその旨伝える。新たにケースを作る事になりそうである。 銀座奥野ビルの白石ちえこさんの個展に行き、白石さんと、白石さんの旧友と飲みに行く、その友人が寒山拾得について一家言ある人で驚く。さらに白石さんの知り合いで海苔巻きを切ると寒山拾得、なんてアーティストが居るそうで、私がいうのもなんだが、変わった人はいるものである。



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屋根を残して小屋部分の骨組みできる。部品が増えるたび、強度が増すのを感じ、面白くなってきた。この調子でいくと今週中に、屋根を含めた骨組みが、すべて出来るかもしれない。江戸川乱歩の『屋根裏の散歩者』で屋根裏を作ったことがあるが、あの時同様、丸太をちようなで削ったような梁を作ろう。来週には床を張り、窓も作りたい。 屋根裏といえば、工芸学校を出て、岐阜の瑞浪にある製陶工場に就職した。一人暮らしの婆さんが大家の二階建ての離れに二人で住んだ。一部屋は屋根裏部屋で、太い梁が行く手を阻む、まさに屋根裏。普通はどちらが屋根裏てに住むかで揉めるものだろうが、私は当然のように屋根裏を志願。当時は写真には興味はなく、まして後に尻はしよりして、屋根裏に潜む江戸川乱歩を作るとは思わす、一枚も残っていない。 父が土日の休みに就職した息子の顔を見に来た。夜は二人してコタツに足を。っ込んで寝た。隙間から外が見え異様に寒い晩であったが、母に一緒に行かないで良かった。あまりに可哀想で連れて帰りたかった、と亡くなった父が言ったと聞いたのは最近だが、私の知っている父とは思えない台詞に本気で驚いた。しかし、この辺りが父と母の違いだが、どっちに住んでると思う?と母に聞けば”屋根裏に決まってる“と母は苦笑いだろう。そんな訳で、覗けば見える芭蕉庵の屋根裏は、羽織の裏のように力を入れてみたい。 画像処理で日本的遠近感的に背景を歪ませてもイメージ通りにならないので、最初から背景を歪ませて作ればどうだろう。その場合効果的なのは、直前的な室内の調度品や壁、障子、襖であろう。と先日書いたが、書きながら、これから芭蕉庵を作るんだよな。それが経験、布石になるのだろう。と頭の隅で。誰が絵図を書いているのか、こうやって偶然が関連付けされ、毛細血管を少しづつ伸ばすように、新たに変化をして行くのが私の通常パターンである。といいながら、なんでこうなるのか不思議である。



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昨日は芭蕉庵用の材木を購入したが、本日は新木場の『もくもく』へ。一緒に行った知人が、神代欅のブロックを買った。私もどうせなら、材が潤沢にああった時代であろうから、ケチケチと塗装で誤魔化したりせず、いやミニチュアゆえ多少は誤魔化す必要はあろうけれども、渋い所に銘木を使って見たいものである。完成の暁に、大工が墨壺をそっと置いて行くらしいが、いつ頃からの習慣であろうか。それも粘土で作りたい。かつての東大寺の大工のように、判らない所に、駄句なり、何某かぼやきでも書き残して見たいものである。勿論、露見を防ぐために堅牢に作らなければならない。さらにホームセンターに出かけ、足りない道具を入手。どうしても金魚売り場を覗いてしまう。ギター、パイプ、鑑賞魚等、購入時の楽しさはたまらない物だが、いくら眺めても、ウチの連中より可愛らし金魚はおらず我慢をした。 最近はもっぱら頭の中で、芭蕉庵の制作工程のシユミレーシヨンを繰り返している。誰だ、大手ゼネコンの元部長に「まずは四本柱を立てれば良いですか?」などと質問した奴は?馬鹿な事をいっているんじやない。あの時の私とは今は別人である。と思いたい。イメージさえ頭に浮かべば、いずれ最終的には目の前にそれは必ず現れるはずである。人形にしても、作る前に、これは首尾良く完成するな、と確信したことは一度もない。頭の中にイメージが浮かび、あとはひたすら祈るだけである。すると頭の中のイメージが可視化され、気が付くと目の前に現れている。養老孟司がいったと思うが”人間は頭の中に浮かんだ物を作るように出来ている“私はこの仕組みの為に、幼い時から苦しみ続け、いや何物にも代えがたい快楽を得てきている。頭の中にイメージが浮かんでいない私はただの棒の如き物である。



 


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昨日、芭蕉記念館で『タウン誌深川』のエッセイ用の写真を撮りに行ったとき、どなたか私のブログを見た方がいたようで、酒ばかり飲んでいるようだが、芭蕉庵はいつ完成するのだ、といわれたと聞いた。私のブログなどは、駄法螺ばかりで、酒を飲んだ、と言っている時は、そう書いているだけで実際は飲んでいないのである。 ことあるごとに、全国の芭蕉像は適当でいい加減な爺ばかりだといっているが、それは門弟達の師匠の実像を肖像画として伝えた想いを不憫に思うからではあるが、多勢に無勢、私が勝手に下手クソな芭蕉像を創作した、と思われたくない、というのも当然ある訳で、記念館の職員にさえ「髭が濃すぎるのではないか?」などと、まるで先週芭蕉と打ち合わせしたばかりだが、みたいに言われる始末である。 ある芭蕉研究家が芭蕉の肖像について“もし人間の容貌というものが、その人の精神生活の履歴を物語るものであるとするならば、芭蕉の肖像に認められるそれらの特徴は、その作品からかれの人間を解く重要な鍵を提供するものではないだろうか”と言っている。私が作家本人をわざわざ作中に登場させ、またその鼻筋一つにこだわるのも、そう考えるからであり、そこをないがしろにしたら成り立たないのである。そのせいで、作家シリーズを始めてから今日まで、一から作るのであれば一年に六人がせいぜいなのである。よって、残りの時間を考えると、すでに頭部がある人物以外はもう実在した人物は作らない、と決めたのである。

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次号の『タウン誌深川』は暮れに芭蕉記念館で芭蕉サミットがあり、各施設でも芭蕉関連の催事があるので、松尾芭蕉特集で、今年の新作が表紙に使われることになり、急遽エッセイ用のカットを撮影に出かけた。大正時代に、芭蕉が愛蔵したとされる石蛙が見つかった所から、東京府が、芭蕉庵跡地と認定した所に芭蕉稲荷神社があり、記念館はその目と鼻にある。神社を背景に、と見に行ったが、鳥居も現在は木製でもなく、絵にならなかったので、記念館敷地内の“古池や蛙飛びこむ水の音”の碑の前で撮影。久しぶりに合成でなく、人形を国定忠治の刀のように捧げ持ち、カメラを額に当てる『名月赤城山撮法』は芭蕉像が重すぎ片手では無理なので、職員に持って頂いた。 思えば”俳聖“松尾芭蕉、“劇聖“九代目市川團十郎を作り、ジャンルは異なるが、いずれ寒山と拾得、豊干の“三聖“を作る。ついでに“角聖”常陸山谷右エ門、”拳聖”ピストン堀口まで、なんて考えたりして。三遊亭圓朝も”聖”が付いても良さそうだが、ゴロが悪いのか。常陸山に対し、双葉山に値する古今亭志ん生まで作っているのだが。 芭蕉庵を作るに辺り、芭蕉の日常品に対する記録があれば集めておいて欲しい、とお願いしておいたが、芭蕉のために、門弟達が持ち寄った米を容れておいたヒヨウタンは、60センチほどの大きさであることが判った。当然備えることにする。 記念館の最寄り駅の森下には、各時代の絵師の手になる芭蕉像のパネルが掲示されている。これが見事に各人各様、一人として門弟の描き残した肖像を反映させた物は無い。いくら有名絵師だとしても、芭蕉庵の所在した地元がいかがなものであろうか。 館内の展示物にも、各時代に描かれた芭蕉像がいくつも展示されているが、ようやく、後世門弟の芭蕉像を参考にした物を一つ見た。妖怪画を多数残した鳥山石燕である。妖怪という、イメージの産物を画いておきながら、いざ実在した人物を画く際には、ちゃんと門弟の作品を参考にする。『解るぞその気持ち,!』私も常に本当のことはどうでも良い、現実より夜の夢だ、といいながら、実在した人物を作る際には、鼻筋一つ実像にこだわってしまう。数百年前の、妖怪画の石燕に共感するとは思わなかった。

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こんなことが先方に知れると不安にさせてしまいそうだが、当ブログを読んでいる訳がない。知り合いの大手ゼネコン元部長に、芭蕉庵制作に関するメールをした。「まず四本の柱を立てるべきですよね?」専門外のこと故、どんな常識があるか判りゃしない。遺跡を作ったような素朴な連中だって、まずは柱を四本だったろう。数年前まで、高層ビルを建てて来た人に聞くようなことではないが、私のレベルに合わせた返答をいただいた。屋根を別に同時に作るべきである、と。なるほど。これでおおよそ把握した。それを聞かなければ、内部が作り難かろうと、下から上に、最後に屋根を作ったろう。もう大丈夫だ。ユーチューブで一応東屋の建て方などを観ている。 11月中旬まで、一切人形は作るつもりはない。しばしば経験したことであるが、しばらく作らないでいて、久しぶりに作ると、何故だか上手くなっていることがある。それまで真面目に作って来た故の御褒美だ、と解釈している。ただこの作らない期間が中々作れないから気が付かないが、有効ポイントは、結構貯まっているものである。勿論、一日さぽると取り返すのに時間がかかる、なんて渡世もあるだろうけれど。コロナのせいで、褒美に気が付く人も必ず居るに違いない。褒美は有難く受け取っておくべきであろう。 今週中には柱が建つ予定だが、かつてグラントピアノを、その内部構造まで作った経験があるから、あれを考えたら、と思っている。ただその作り方が。設計図などなく、すべて目測で、ピアノのカーブしているところを粘土で作る、という、今思うと考えられない非合理な作り方をしていた。芭蕉庵も、作っている所は決して人に見られてはならないだろう。そして完成する頃には、いつものように思うだろう。”人生も夏休みのバイトの如し。慣れた頃に終わるのであろう“

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大和田常務を観ていて誰かに似てるな、と思ったら、ウチの豊干禅師こと青文魚を正面から見た顔であった。嫌いだったカリフラワーのような金魚の肉瘤は、これによって魚らしからぬ人間地味た正面の顔を見せ、それがオランダ獅子頭という金魚ばかりになった理由でもあるのだが、これが大和田常務に似ているのである。私が誰かに似ている、という時、一般人がいうのとは違い、相当似ていることを意味するはずである。いずれ連中の正面の顔をちゃんと撮ってみたい。 やはり中国産琉金ショートテールは隔離して餌を控えると、腹を上に浮くこともなくなる。残念だが、寒山拾得劇団のメンバーには無理があるかもしれない。セロファンのような真紅の模様がプラチナホワイトの下地に生えて捨てがたいのだが、他の連中と一緒にすると、一緒になって餌を食い、フーセンのように浮かんでしまうだろう。内臓に何かがあってからでは手遅れである。 明日辺り、ホームセンター出かけ、芭蕉庵の土台となるベニヤをサイズに切り、基本となる柱、その他道具類を買いに行こう、と考えているが、ここに至れば金魚コーナーを素通りすることは出来そうもない。ウチにいる兄弟達と比べると、すでに一回り以上小さく見える。 李登輝がお忍びで訪れた芭蕉記念館には芭蕉の樹がある。台風でも来たら、すぐ駄目になってしまうそうだが、そんな芭蕉の樹だからこそ、芭蕉を名乗ったそうである。今のうちに撮影しておこう、と考えていたが、今回は撮影するだけてなく、作らなければならない。 作家シリーズの最初の6人の一人澁澤龍彦は、夢の島植物園で、南方の植物の陰で撮ったが、確か、バナナか芭蕉があった?と思って検索したら、あった。ドームの中であるし、台風も気にせず、慌てる必要はなくなった。

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