転がる石に苔生えず、とはいうものの、またしても行き当たりばったり、まさかの一休が正月早々、道端で酔い潰れているところを作る気になってしまっている。成り行き任せも加速している感があるが、東洋絵画には、我慢するにはあまりにも面白いモチーフに溢れている。何より今に通ずるユーモアがある。 ところでせっかく一休を道端で酔い潰れさせるのであれば、門松の傍らで、と考えた。しかし一休の時代の門松はどうも今の門松とは違うようで、斜めに切った竹は徳川家康以降で、庶民は竹の代わりに笹を使っていたようである。 酔っぱらいのデータは頭の中に膨大なストックがあるが、いささかデータに品がない。そのまま使っては禅師に失礼過ぎる。穏やかに地べたに横たわって貰い、その代わり野犬にクンクンさせたい。当時の京の街には行き倒れを見付けようものなら喰ってやろうなんて犬がいくらでもいただろう。この『一休和尚酔臥図』は副題を一休作の”世の中は起きて稼いで寝て食って後は死ぬのを待つばかりなり“ にしよう。