作るつもりでいた昇龍図に〝私が手掛けるからには”というものが不足している気がしているのだが、英一蝶の戯画『不動明王図』の濡れないよう背中の火焔を傍に置いて滝に打たれる不動明王、そのユーモアは〝お前なら写真でどうする?”と私を挑発する。同じく一蝶には、酔っ払って道端に寝ている『一休和尚酔臥図』があり、ならば、と竹竿にシャレコウべ掲げた一休が、その晩酔っ払い、シャレコウべ枕に酔い潰れている酔臥図を作った。昇龍図は大きなプリント以外にこうした面白味が浮かばない。 来月房総に撮影に行くので滝を撮って来ようと思うのだが、問題は水の処理である。下ろした火焔は三遊亭圓朝や、牡丹燈篭の人魂や蝋燭でやったように炎は筆描きするつもりなのだが、問題は水の表現である。特撮監督円谷英二同様火と水が悩みの元である。今の所岩場も滝も作る可能性が高い。その滝にはむしろ妖しい女、国産馬、猿、蝙蝠をあしらって、泉鏡花の『高野聖』の一場面を決めてみたい。主人公の若き僧に関しては、幸い最近、坊様づいており。