茨城生まれの父は蕎麦食いで、うどんに対して「病人の食い物」といっていた。私もその意見に賛同したが、それは近所の蕎麦屋に原因がある。丸麺のうどんがすこぶる付きに不味かった。ベロベロとすぐ伸びてしまう。かといって、狭い下町では町内に何でもあったが、近所の店に遠慮して、蕎麦屋は蕎麦屋、中華は中華と、ほとんど浮気をすることはなかった。お陰でうどんは不味い物だというイメージが植え付けられてしまった。しかしそうこうして、スーパーの生麺をたまたま食べたら、驚くほど美味かった。おそらく東京のうどんが不味いというより、あの店が特別不味かったのだろう。 かといって普段食べるかというとまず食べない。何か食べたい、と思う時、私の場合、鼻の奥に食べ物のイメージ、つまり香りが蘇り、○○が食べたい,と思うのだが、うどんには、私が知る限り、特定の香りがない。結果、うイメージするに至らないのである。それに蕎麦とうどんがあればどうしても蕎麦に行く。 近所のアリオ北砂の中のフードコートに讃岐うどんはなまるがあり、トッピングを自分で取って行くらしいと思いながらも、そもそも美味さが判っていないからスルーしてきた。ところが先日、通りかかったら注文している人がいて、つい私も真似して注文し食べてみた。猫舌でもあるしかけうどんに天ぷらを二品。さてその夜の寝床である。どうもあのうどんが思い出されて仕方がない。翌日開店早々食べに出掛けた。永井荷風や大川橋蔵のように同じ物を毎日食べても平気な人間がいる。私にもそういうところがあり、以来毎日一度は食べている。 私が不思議でならないのは、自分の中に実体のない物に惹かれる感じ。また食べたいと思い出しながら、何を思い出しているのか判らないという。まさに麻薬的というべきか。