四方源太郎日記(京都府議会議員・綾部市選挙区)

これからの綾部のために、さらなる「挑戦」を!

映画「三島由紀夫VS東大全共闘」

2020年08月04日 | 家族

 4日㈫映画を観に福知山シネマに行った。10時50分から1日1回上「三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実」を観た。

 前から予告編などを観て興味があった。先日のあやべ市民新聞のコラム「福知山で上映していること。8月6日までしか上映していないこと」を知った。

 先日、別の映画を観に行った小源太「予告編を観て、面白そうだったから、一緒に観に行こう」と誘ってきた。それを聞いた父「自分も行きたい」と言うので、親子三世代で行った。

 映画館は三人で貸し切りだった。この三人で、三人だけで映画を観るというのは、これまでにはなかった。その初めてが、映画「三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実」だった。

 映画の舞台1969年(昭和44年)5月13日東大駒場キャンパス900番教室東大の「安田講堂攻防戦」の少し後のことだ。

 東大全共闘に招かれた作家・三島由紀夫1000人の学生を相手に一人で「闘論」した映像当時の関係者などによる回顧、解説、裏話ドキュメンタリー映画としてまとめ上げられていた。

 昭和44年を生きていた父、その少し後に生まれた私、歴史上の出来事として知るだけの息子、三人がそれぞれの知識や経験から観たわけだが、三人とも「面白い映画だった」という感想だった。

 高校生の小源太には内容が難しいかと思ったが、感じ取ったことは多かったようだ。

 映画後に昼ご飯を食べながら、また行き帰りの車の中で、父や私と映画の内容やその時代背景について語り合うことができた。

 50年後の今だから分かる、今しか分からない、そしてこの1年後、市ヶ谷の自衛隊での三島由紀夫の自決の理由を理解できた。

 この頃の日本では「政治」が生きていた。「お金」だけではない世界で生きることに価値を見出す人間がいた。政治家として、身につまされる気持ちにもなった。

 1969年5月13日の東大駒場900番教室ここには「熱情」と「敬意」と「言葉」があった。日本人は誇りを持って生きようとしていた。

 

 2007年(平成19年)8月6日このブログに、下記のように三島由紀夫のことを書いている。

 最初の選挙に立候補して落選したすぐ後だった。ブログにはコメントもいただいていたことに今、気が付いた。お返事しておらず、申し訳ありませんでした。

 

 四方源太郎日記:2007年8月6日「三島由紀夫のメッセージ」

 YouTubeで、ちょこちょこいろんな動画を見ている。古いドキュメンタリー番組があったりして面白い。

 小説家・三島由紀夫が演説している番組があった。

 「人は自分のためだけに生きて、自分のためだけに死ぬほど、強くない。人間は何かのためということを考えているので、生きるのも、自分のためだけというのにはすぐに飽きてしまう。死ぬのも何かのためというのが必ず出てくる。それが昔言われた大義というものです」

 「心の中に自分を超える価値が認められなければ、生きていることすら無意味だという心理状態がないわけではない」

 今の若者が抱えている様々な悩みは、三島由紀夫が言うように、戦後、「知的再建」というものができなかったからかもしれない。

 

 三島由紀夫が東大で全共闘の学生相手に講演をして、討論をしている映像もあった。

 三島が若者に日本人であることの意味などを説いている。実に冷静に話をしているのだが、学生たちはいっこうに真面目に聞く様子がない。
 日本がおかしくなりはじめたのは、ここらへんからなのかなあと感じた。

 三島由紀夫の思想や活動はほとんど知らないし、本も読んだことはない。

 でも、僕が生まれるより前に、昭和45年に自殺しているわけで、まったく生が交錯していないが、よくぞその時代にあそこまでハッキリした主張ができたなあと驚くし、今の時代にその言葉がストレートに突き刺さってくるようにも思う。

 今日も高知から「エンデの遺言」のビデオを借りに来られた方があった。先日は名古屋から来られた。

 何か、今、日本人は、メッセージを求めているように思う。

 

 映画の後ゆらのガーデン昼食「光秀ミュージアム」福知山城を観に行った。恥ずかしながら、福知山城の中に入るのは初めてのことだった。佐藤大清美術館の常設展初めて鑑賞した。佐藤大清福知山市名誉市民であり、文化勲章も受章しておられる日本を代表する画家だ。

 「光秀ミュージアム」の展示興味深いものが多かった。光秀の丹波侵攻のことは時系列でどう侵攻していったのかなど、知らないことがたくさんあった。映像などでもそれが紹介されていて面白かった。

 八上城の波多野秀治よりも黒井城の荻野直正の方が、丹波では当時、力があったようだ。綾部市(当時は何鹿郡)のことはあまり触れられておらず、丹波侵攻の主戦場ではなかったようだ。

 福知山城の天守閣からは福知山の市街地がよく見えた。

 夕方からは自宅で打ち合わせを1件


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