現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

ボクシング世界王者誕生

2008-05-20 22:08:17 | 社会問題
ボクシング=WBAライト級、小堀が世界王者に(ロイター) - goo ニュース

ライト級で、小堀佑介が、ガッツ石松、畑山隆則
に続いて3人目の世界王者になった、そうな。
今朝のラジオで「新聞の1面に載ってもいいくらい
のニュースだが、新聞各紙、小さな扱いだった」と。
小堀氏のコメントも「王者になっても目立たずに
生きていきます」と。

フライ級の世界王者内藤大助氏も、亀田大毅との
防衛戦で一躍有名になった。赤旗5/18日曜版に
次の記事。

貧乏でいじめに遭っていた少年時代。高卒後強く
なりたい一心で始めたボクシング。そして「ボク
シングはすばらしい。あれだけ殴りあっていても、
終わると抱き合いたくなる」と、悪玉亀田のおかげ
で、善玉の人格者として、好感をもって受け入れ
られる。

そして愛妻家。「おれと結婚していなければ、
3LDKにも住めたのに、文句も言わない。
そこがまた好きなんだ」と。

世界王者でも3LDKに住めない?。虚無僧の私が
3LDKに独りで住んでいる。いいのだろうか?
ボクシング界は大変な世界と知る。

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5/20 読売新聞に掲載

2008-05-20 21:10:33 | 虚無僧日記
昨日の中島砦の跡の近清商店さんで催された
「琵琶と尺八」の催しが、5/20読売新聞朝刊
に掲載された。写真も去年より大きく、顔と
名前がはっきり判る。宣伝効果は大きい。

ところで、名古屋は中日新聞のシェアが85%。
全国1位を争う読売と朝日合わせても10%に
満たない。毎日はとうとう夕刊を廃止するとか。
名古屋は独特な文化圏なのだ。

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司会のエディ加藤さん

2008-05-20 11:16:31 | Weblog
5/19中島砦での「尺八・琵琶公演」で司会を
していただいた加藤さん。実に愉快な人だ。


「I am soly, フク、ソウリー」
「Do you understand? 電器スタンド、ギャスリン・
スタァーンド」
「センスいいね。顔は団扇(うちわ)みたいだげと」

ポンポンポンポン、ギャグが飛び出す。30秒に一回は
笑わせる。頭の回転が速い。しかし、それも日頃の努力。
絶えず辞書を引き、隣りの似た言葉、反対語をチェック、
川柳なども目を通してネタを探す。産みの努力をしている
とのこと。

20秒に1回は笑わせたという林家三平師匠も、四六時中
ネタを考え、思いつくと、寝ていても、起きてノートに
書き留める。ビッシリ、ネタが書かれたノートが60冊に
もなったという。
「寝ていて思いついたから“ネタ”だ」

それでも舞台でネタが切れ、咄嗟に口にしたのが
「よし子さぁーん。どうもスイマセン」だった?。
よし子さんは奥さんかと思っていたら、愛人だったらしい。
奥さんは、子供3人育てるのに、もっともっと苦労したとか。

みな、たゆまぬ努力の結果なのだ。

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5/19 中島砦で尺八、琵琶

2008-05-20 10:23:30 | 虚無僧日記
鳴海の中島砦は、織田信長が桶狭間へ突撃の
下知をした場所。天下取りへの第一歩を記した
「決起の地」だ。その碑の右隣りが、一路会会員
の高島氏宅。江戸時代からの名門旧家だそうだ。

その高島氏の紹介で、左隣りの近清(こんせい)
商店の社長、近藤典親氏から、毎年5/19桶狭間
の日に「尺八と琵琶の演奏」を頼まれる。近藤氏
は、鳴海の町起しのために日々駈けずり回って
おられる。私の袈裟もこちらで作っていただいた。

今回の演目は、琵琶「桶狭間」と「耳なし芳一」。
その間に、先日 Yahooオークションで手に入れた
『一節切(ひとよぎり)』を披露。中世から現代
までの尺八の変遷も、さまざまな尺八を用いて
演奏しながら紹介した。今回4回目となるが、
「毎年楽しみにしている」という方、初めての方、
みな一様に楽しんでもらえたようだ。

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桶狭間の論功行賞

2008-05-20 08:01:41 | 虚無僧日記
昨今、桶狭間の論功行賞で、一番槍の服部小平太や
首を獲った毛利新介より、報償が多かったのは、
「義元が酒宴の最中」と伝えてきた簗瀬政綱だった。
信長は武功よりも、情報伝達に価値を見出していた
と、評価する説が、ビジネス本でさかんに取り上げ
られている。しかし、簗瀬に沓掛(現豊明)城を与え
たのは、桶狭間の2年後のことである。桶狭間の
論功行賞にしては、遅すぎるという反論もある。

また、一番の功労である蜂須賀小六には、何も与え
られなかった。信長は、小六に「家臣として召抱える」
と言ったが、小六は「木下藤吉郎に使える方がましだ」
と答えて、信長の不興をかったとか。

藤吉郎は、この時、信長に仕えてまだ2年、ようやく
草履取りから足軽の頭になった所である。
野武士の棟梁だった蜂須賀小六も、徳川の世には阿波
(徳島)一国の領主となるのである。

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桶狭間の真相

2008-05-20 07:49:42 | 虚無僧日記
5/19は桶狭間の合戦があった日。この日早朝
4時、信長は供廻衆だけを従えて清洲を発った。
8時、熱田神宮に祈願。ここで兵の集結を待つ。
10時、中島砦まで兵を進める。手前の鳴海城も
ま横の大高城も今川方。丸根、鷲津の砦も、
前夜今川に攻められ陥落しているから、信長は、
敵中深く進軍したのである。大高には18歳で初陣
の松平元康(後の徳川家康)が、前夜、兵糧を
運んで大高城に入っていた。周囲みな敵。今川軍
はなぜ信長の行軍をやすやすと見過ごしたのか。
信長は、「敵は昨夜の戦で疲れ、勝利に酔って
油断している」と、家来に告げている。

中島砦で待つことしばらく、伝令が来た。あらか
じめ、蜂須賀小六や木下藤吉郎(後の秀吉)ら
川並衆(水運業)を使って、桶狭間の小高い丘の
上に休息所を設け、酒肴を用意し、戦勝の祝宴の
準備をして義元を歓待する手はずになっていた。
こうした裏工作は、内密裏に行なわれていたから、
信長は、清洲を発った時から勝利を確信していた
のだ。
すべては首尾よく進展し、伝令は「敵将今川義元は、
桶狭間に陣を張り、勝利の酒盛りの最中」と伝えて
きた。そこへ折りしも、一転にわかに空かき曇り、
激しい風雨となった。「天は我れに味方せり」と
信長の下知が飛ぶ。

信長軍は一気に桶狭間の義元本陣を目指して
突撃開始。中島砦からは2km。その間、10万の
今川軍は、村々の略奪に走る者、炎天下に鎧を
脱ぎ、武器をはずして休息する者、そして折から
の風雨に右往左往、まったく無統制状態だった。
信長の精鋭は、抵抗を受けることなく義元の陣
近くに迫ったのである。

そして、小高い丘の裾で塗り物の輿を見つけ、
丘の上が義元の本陣と確認する。義元の周りは
300騎の旗本衆が固めていて、異変に気づき応戦。
すわ敵襲と知るや、数十騎が義元をとり囲んで、
山の反対斜面を下って、大高方面へ逃げる。
義元は肥満で馬に乗れず徒歩で逃げたとも。

それを信長の馬廻衆が追いかけ、一人二人と
切り崩しついに、田楽狭間の深田に追い詰めて、
服部小平太が一番槍をつけ、毛利新介が義元の
首を獲った。

これが桶狭間の真相である。

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