NHKで幕末の尾張藩主「徳川慶勝」をとりあげていた。
慶勝は尾張の分家、高須松平家から尾張藩主となった。
会津藩主の松平容保、桑名藩主の松平定敬は弟である。
徳川義勝は、慶応4年正月に勃発した鳥羽伏見の戦いで、
さっさと官軍側に寝返ってしまった。御三家筆頭であり
ながら反徳川に回ったのだ。
弟である京都守護職会津藩主容保と京都所司代の桑名
藩主定敬も見捨てたのである。
徳川義勝は、一早く官軍に見方したにもかかわらず、
義勝が明治政府の要職に迎えられることはなかった。
そんなわけで、従来の評価は「変節、凡庸」と、あまり
芳しく無かったが、今回のNHKでは、「争いを好まず、
平和主義者」と再評価である。つい10年ほど前は、官軍に
徹底抗戦した会津藩や新撰組を「至誠、忠義の誉れ」と
賞賛する声が主流だったが、最近はこうした「無抵抗、
平和主義」が「善」とされるように、価値観が変化して
きたように感じる。
ただし、慶勝が1864年、「第一次征長軍」の総督となって
長州を攻め、長州藩家老3人と藩士11名の斬首で、決着を
つけたこと。そして4年後の1868年。鳥羽伏見で幕府軍が
敗れると即、家老3名と藩士11名を斬首し「これで許してぇ~」
と、官軍に頭を下げたことについては、NHKは取り上げ
なかった。
ま、名古屋は今、河村市長の下、「名古屋開府400年」で
元気を取り戻そうと頑張っている。その気運を後押しする
かの番組だった。
「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。
「一休と虚無僧」で別にブログを開いています。

慶勝は尾張の分家、高須松平家から尾張藩主となった。
会津藩主の松平容保、桑名藩主の松平定敬は弟である。
徳川義勝は、慶応4年正月に勃発した鳥羽伏見の戦いで、
さっさと官軍側に寝返ってしまった。御三家筆頭であり
ながら反徳川に回ったのだ。
弟である京都守護職会津藩主容保と京都所司代の桑名
藩主定敬も見捨てたのである。
徳川義勝は、一早く官軍に見方したにもかかわらず、
義勝が明治政府の要職に迎えられることはなかった。
そんなわけで、従来の評価は「変節、凡庸」と、あまり
芳しく無かったが、今回のNHKでは、「争いを好まず、
平和主義者」と再評価である。つい10年ほど前は、官軍に
徹底抗戦した会津藩や新撰組を「至誠、忠義の誉れ」と
賞賛する声が主流だったが、最近はこうした「無抵抗、
平和主義」が「善」とされるように、価値観が変化して
きたように感じる。
ただし、慶勝が1864年、「第一次征長軍」の総督となって
長州を攻め、長州藩家老3人と藩士11名の斬首で、決着を
つけたこと。そして4年後の1868年。鳥羽伏見で幕府軍が
敗れると即、家老3名と藩士11名を斬首し「これで許してぇ~」
と、官軍に頭を下げたことについては、NHKは取り上げ
なかった。
ま、名古屋は今、河村市長の下、「名古屋開府400年」で
元気を取り戻そうと頑張っている。その気運を後押しする
かの番組だった。
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