現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

於大と多却姫

2010-07-31 22:46:29 | 戦国武将と城
初代桑名藩主「松平定勝」(1560年-1624年)の母は、
家康の生母「伝通院(於大の方)」。於大は、刈谷の
城主水野忠政の娘で、松平広忠に嫁ぎ、竹千代(家康)
を産むが、忠政の死後、於大の兄水野信元が織田家に
ついたため、於大は離縁され、後、阿久比の城主 久松
俊勝に再嫁し、定勝を生んだ。

というわけで、家康と桑名藩主 久松(松平)定勝は異父
同母の兄弟である。

多却姫は、家康の父広忠が、於大を離縁した後、平原正次
の娘に生ませた子とも、於大と久松俊勝との間に生まれた
娘ともいわれている。となると、定勝の姉か妹となる。

そして、多却姫は初め桜井松平家の忠正に嫁して、家広を
産む。忠正が若くして亡くなったので、その弟忠吉と再婚
するが、忠吉も若死にする。前夫の間に家広、忠吉との間に
忠頼が生まれた。最初「家広」が家を継ぐが、これも早世し、
異父同母弟の「忠頼」が桜井松平家当主となった。

そして多却は、家康の命で、信州高遠の保科正直に再々嫁し
正光と、(後に北条家を継いだ)正重の2男と2女を生んだ。

吾が家の祖が最初に仕えた松平忠頼の母と、最後に仕えた
保科正之の義祖母が同じ、多却姫だったということになる。
不思議な縁を感じる。


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宮本昌孝 『青嵐の馬』

2010-07-31 21:34:58 | 戦国武将と城
「松平忠頼」で検索していたら、こんな小説にめぐり合った。

宮本昌孝 『青嵐の馬』

内容
 松平忠頼は、関が原の後、遠州浜松五万石を与えられ、
 同時に、徳川家康から、異父弟の保科久太郎を預かれと
 命ぜられた。
 保科久太郎は手のつけられぬ悪たれだった。

 松平忠頼が江戸で殺され、松平家は改易となると、久太郎は
 駿府へ向かい、家康に「お家再興」を願い出る。

 すると、久太郎は、「北条氏勝の養子になって、後北条家を
 継ぐように」と命ぜられる。なにゆえ?。
 久太郎には、出生の秘密があった。

 久太郎は、信州高遠の保科正直の四男で、忠頼と生母を同じく
 する13歳下の弟で、兄弟の生母の多劫(たけ)は、家康の
 異父妹だった…。


驚いた。小説だが、確かな出典はあるのだろうか。

保科 正直(1542年-1601年)の第一子が「正光」。
久太郎はその弟ということになる。
久太郎は、1595年の生まれ、北条氏重となって、
下総国岩富、下野国富田、遠江国久野、下総国関宿、
駿河国田中、そして最期は、遠江国掛川藩主と転籍。

5人の娘がおり、その一人は大岡忠高に嫁ぎ、大岡忠相
の生母となっている。しかし男子なく、氏重の後は断絶。

保科家の方は、兄正光のもとに、秀忠の落胤「正之」
が養子としてはいり、会津保科松平家の祖となる。

わが先祖は、会津保科松平家ができた時、紀州家から
会津松平家に移籍するのである。


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松平忠頼

2010-07-31 20:33:00 | 戦国武将と城
当家の系図には「先祖は『三州松平荘牧の原』の出で、
浜松、松平忠頼に仕え、町奉行格 500石」とある。

「松平忠頼」は、天正10年(1582年)松平忠吉の次男として
生まれ。叔父・松平家広の後を継いで、武蔵松山藩の藩主と
なり、さらに、美濃金山を経て、慶長6年(1601年)浜松
五万石の大名となる。

ところが、慶長14年(1609年)、従弟の水野忠胤の江戸屋敷に
招かれた折、久米左平次と服部半八郎が囲碁の勝敗をめぐって
喧嘩となり、仲裁に入った忠頼が、逆上した久米左平次に刺殺
されてしまった。享年28。

事件の経緯から、桜井松平家は改易となった。当家の先祖も
ここで浪人となるが、忠頼の後、浜松城主となった水野重仲
に仕官し、水野氏が紀州徳川頼宣の御附家老となって新宮に
移封されるに従って、和歌山に移った。

今日、ネットで調べていて判ったが、紀州家には、松平忠頼の
三男、松平忠勝が1000石で召抱えられていた。忠勝は、父忠頼が
殺され、お家断絶となったため、叔父で桑名藩主、久松松平家の
定勝に引き取られ養子となっていた。

牧原の祖にしてみれば、旧藩主の遺児との再会である。



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古城の風景 2

2010-07-31 19:40:49 | 戦国武将と城
宮城谷昌光 『古城の風景 2』 は、松平一族の城として、
形原、岩津、安祥など 12 の城を紹介している。私も
このうちの幾つかは周った。『松平記』などで調べ尽くした
つもりだが、宮城谷氏は、どこから調べたのか、恐ろしく
詳しい。

そもそも、「 18 松平家」と言われるほど、松平姓は多い
のだが、一族が一枚岩で結束しているわけではない。

徳川家康は、天下を獲って江戸幕府を開いたが、松平一族
だからといって優遇はしなかった。本家である「太郎左衛門家」
でさえ、豊田市の東、松平郷にわずか 500石の小名のままだった。

500石なら、わが牧原家の家禄と同じだ。
私の先祖は「桜井松平忠頼」に仕えていた。桜井松平家の城は
現安城市にある。桜井松平家は、7代忠頼が28歳で横死し、
改易となった。

形原松平家の本拠地、蒲郡市には「牧原姓」が300軒もある。
こんなことをいろいろ調べるため、私は虚無僧で周っている。
私の虚無僧の旅は、実は“先祖探し”の旅なのだ。


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古城の風景 1

2010-07-31 15:24:44 | 戦国武将と城
最近「城」ブームなのだろうか。ラジオなどでも
たびたび「城めぐり」の話を耳にする。
名の知れた「城」だけでなく、戦国時代の豪族の館
程度の「城跡」を訪ねる話も多い。

名古屋城では今「本丸御殿」の再建が進められている。
名古屋城は、幕藩体制が固まりつつあった慶長15年
(1610)から数年かけて築城された。

それ以前、戦国時代の城(館)跡は、名古屋市内だけで
93もあるそうだ。因みに私の住んでる近くに「五反城」
という地名があるが、ここは「城跡」としては記録されて
いない。

宮城谷昌光の『古城の風景』は、東三河の城として
12の城を詳細に紹介している。野田城や新城、長篠
などは、歴史好きな人なら知っている城だ。その他は、
土地の者でなければ興味が無いであろうが、私にとって
は、先祖を探る貴重な資料となった。

豊橋市では、「郷土の三英傑」というと「牧野古白、酒井
忠次、池田輝政だそうだ。豊橋に城を築いたのが牧野古白。
1500年前後のこと。その当時、豊橋は「今橋城」と呼ばれ
ていた。

牧野氏の系譜はいくつかあり、豊橋と豊川(牛久保)一帯に
勢力を広げていたようだが、今川と徳川の間に挟まれて
浮沈を繰り返しながら、命脈を保った。越後(新潟)長岡藩
の牧野氏も、この流れだ。

豊川市内に「牧野町」があり、ここが牧野氏の発祥の地と
されている。「牧の原」ではない。


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牧の原城

2010-07-31 15:18:44 | 戦国武将と城
我が家の系図には「『三河 松平庄 牧ノ原』の出なので
『牧原』と名乗る」とある。私も父も親戚皆、「牧の原」
は静岡県の「牧の原」と思い込んでいた。

しかし、私が名古屋に来て、気づいた。静岡県は「遠州」だ。
「三河」なら愛知県内でなければならない。

では「三河の牧ノ原」とは どこなのか。名古屋市内には
名東区に「牧ノ原」という地名があるが、最近付けられた
地名のようだ。

岡崎市の郊外、「くらがり渓谷」の手前に「牧原」がある。
あるいは、ここではないかと思っている。徳川の出身地
松平郷にも近い。


静岡県の「牧の原」の由来も調べてみた。
東名の「牧の原SA」、「東洋一の茶園」で知られているが、
最近、町村合併で「牧の原市」が誕生した。

ここは戦国時代、武田勝頼が築かせた「諏訪原城」があった。

天正3年(1575年)長篠の戦いで武田軍が織田徳川連合軍に
大敗した後、徳川家康に攻められ 落城した。

家康は、諏訪原城を落すと、牧野康成、松平家忠らに交代で
「城番」として管理させることにした。そして、この時
「牧野城」と改名させた。『家忠日記』では「牧野原城」
とも記している。

たぶん それまで「諏訪原」と云っていたので、「牧野」に
「原」も付けて呼びならわしたのであろう、というのが私の
推測である。


子供の頃の私の夢は、老後は、牧の原台地に土地を取得して
「牧ノ原城」を建てて住むことだった。昨年、小夜の中山から
金谷まで虚無僧で旅し、そして「牧の原城」に行ってきた。
結構、しっかりと遺構が残る城跡だった。


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