現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「語るべき時に語る」

2011-09-02 10:14:34 | 虚無僧日記
中日新聞の「運勢」欄。

「語るべき時に語り、黙すべき時に黙するは
人生の妙を知る人」と。まさに「金言」。


ある「朝起会場」での話。会長を迎えての厳粛な場で、
後ろで子供が騒ぎだした。どうやら、1本しかない
タオルを奪い合ってケンカになったようだ。

普通なら、母親が立っていって 子供を叱りつけるなり、
外に連れ出すところだが、「朝起会」では、「子供は
叱らずに、自覚を待つ」と教える。その学びの場。
母親も他の会員もどうすべきか、みな気がき でない。

すると、会長みずから、子供のところに足を運ばれた。
(会長はどうされるおつもりか、どう叱るのか) 会員は
固唾を呑んで見守った。

会長は、二人の子供の頭に手をやって「次からは2本
もってこようね」と、優しく一言。これで二人の子供は
とりあいをやめた。


街で喧嘩やトラブルに遭遇した時、多くの人は見て見ぬ
ふりをする。「黙すべき時でないのに“黙”す」。

喧嘩の仲裁、トラブルの解決に、適切な一言で止めさせ
られたらと思う。これが「語るべき時に語る」かと、
常々思うのだが、これが なかなか難しい。

「人生の妙を知る」まで「器作り」の修行か。





「言い訳」は 「いいわけ」ない。

2011-09-02 10:07:10 | 虚無僧日記
今朝の「朝起会」で、Wさんの演談。
「一昨日、婦人部長からケータイに電話がはいって
いたのに気づかなかった。翌日になって『すみません
お風呂にはいっていたものですから』と謝ると。
『お風呂は いいんだけどね・・・』と一言。

そこでWさんは「はっ」と気がついた。
『お風呂にはいっていた』というのは、謝ったことに
ならない。言い訳けし、自分を正当化しようとする心。
相手にとって、そんなことはどうでもいいことなのだ。

自己のプライド、驕慢な心を捨てるのがこの学び。
余計なことをいわず、「電話に出れなくて すみま
せんでした」で済むことだったのだと。

なるほど・・・。
待ち合わせで遅刻すると、しきりに言い訳をする
人がいる。「車が混んでいた。電車が遅れた」と。
でも、10分早く出ていれば 遅れなかったのだ。
そんな言い訳は 聞き苦しい。

ところが、外人は違う。遅刻した時、ああだ こうだと、
遅れた理由を並べ立て、弁解することで、自分を
正当化し、そして 決して謝らない。

ひとこと「遅れてすみません」で許すのが日本人。
最近、外国かぶれの日本人が多くなってきた。

「地獄・極楽」はキリスト教の影響か

2011-09-02 09:13:43 | 心の問題
五木寛之『親鸞』で、浄土宗というものが理解できた。
「釈迦にも よろずの仏たちにも見放された悪逆非道の
者でも、阿弥陀様だけは『救ってあげよう』と本願を
立てられた。その阿弥陀の本願にすがる誓いの言葉が
「南無阿弥陀仏」。

浄土真宗の寺で法話を聞いた。「釈迦は、地獄も
極楽もあの世も、前世も来世も、見てきたわけで
ないから知らないといっている。でも、行き先の
判らないミステリーツアーは不安でしょ?死んだら
その先どうなるの?と不安を抱えて生きるなら、
浄土に行けると信じた方が、気持ちが楽になりま
せんか」と。

同じ仏教でも、禅宗は「来世も前世も無い」という
釈迦本来の教えを踏襲している。

私は、浄土宗の「地獄・極楽」の思想は、キリスト教が
混入してのものではないかと考えている。キリスト教は
唐代に中国にはいってきており、日本にも平安時代に
伝わっている。

平安時代の初期「聖徳太子信仰」が盛んになる。
聖徳太子が、馬小屋で生まれ「厩(うまやど)の皇子」と
呼ばれた伝説は、正にキリストと一体化させたものと
思えるのだ。