現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

桑名の殿様

2013-03-07 16:27:36 | 「八重の桜」
名古屋から木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)を
越えれば 桑名です。今はJR東海道線が、名古屋から
北に岐阜方面へ向かうため、忘れられがちですが、
桑名は 東海道の宿場町でした。

名古屋の熱田の「宮」から 桑名の「七里の渡し」までは、
伊勢湾を 船で渡る海上航路でした。「七里」ですから
28km。船に揺られて4時間。女性にとってはトイレを
我慢しなければならず、船酔いもするし、苦痛の難所だった
ようです。

三代将軍「家光」が上洛の際、家光が船酔いを嫌ったのと、
警備上の問題で、陸路の佐屋街道が設けられたのでした。

「その手はくわなの焼き蛤」。桑名といえば蛤。
ま、それぐらいが有名で、桑名藩のこととなると、
会津ほど話題にはなりません。

私も、桑名藩主は、寛政の改革の「松平定信」の系譜とは
知りませんでした。「松平定信」は福島県の白河藩主で
「白河公」と呼ばれていました。

『桑名の殿さま ヤンレー ヤットコセー ヨーイヤナ
桑名の殿さん 時雨で茶々漬 ヨーイトナー アーレワ
アリャリャンリャン ヨイトコ ヨイトコナー」と歌う
民謡の「桑名の殿様」は、「松平定信」のこととも、
いやいや、明治のお大尽(豪商=諸戸清六)のこととも。

東京の料亭で盛大な酒宴を行い、芸者衆と大いに遊んだ
桑名の大旦那衆が、宴会の最後に桑名名産の「時雨蛤の
茶漬け」を食べた様を唄にしたのが『桑名の殿様』だそうです。

松平定敬は「松平定信」の子孫?

2013-03-07 15:04:23 | 「八重の桜」
琴古流尺八の大家「三世荒木古童」の門弟に
「松平定敬」の写真があり、説明書きに
「松平定信の孫」とありました。顔から
察するに「桑名藩主・松平定敬」のようです。

「松平定信」は(福島県)白河藩主で、寛政の
改革を行った人として有名です。

「松平定敬」は美濃の高須松平義建の子ですから、
「松平定信」と血はつながりません。

Wikipediaで調べてみました。

桑名藩主は、本多、久松松平、奥平、そして
再度、久松松平と4度藩主の国替えがありました。

白河藩主だった「松平定信」は寛政の改革の後、
失脚し、家督を「松平定永」に譲り、桑名への
国替えを幕府に願い出ます。

「定信」自身は桑名には赴かなかったようですが、
桑名では今も、「定信」の血筋であることを誇りに
しているようです。

「定信」は、実は8代将軍「吉宗」の孫で、一時期、
田安家を継ぎ、いずれは第10代将軍・徳川家治の後継と
目されていたのでしたが、田沼意次を「賄賂政治」
として批判したため、疎まれて、白河藩2代藩主・松平
定邦の養子とされたのでした。

定信から3代目の松平定猷が死去すると、嫡男「定教」は
まだ幼少であったため、多事多難の折、美濃高洲藩から
「松平定敬」を 初姫の婿養子として迎えたのでした。

鳥羽伏見の敗戦で「定敬」が失踪したため、藩では、
官軍に降服し、先代の実子「定教」を藩主として
お家再興を図った。

会津藩の「容保」も養子でありながら、藩士が主君に
忠節を尽くしたのと対象的に、桑名藩は、養子の殿様を
さっさと放り出してしまった感があります。

でも、実情はもっと複雑で、詳しくはこちら

桑名藩主「松平定敬」

2013-03-07 13:34:04 | 「八重の桜」
桑名の名勝「六華苑(ろっかえん)」は、明治に財を築いた
「諸戸清六」の邸宅で、国の重要文化財になっています。
正月ここで琴の演奏がありました。

その「六華苑」の南 数百mの所に、「九華公園」があります。
こちらが桑名城跡です。(まぎらわしい・・・)

幕末の桑名藩主は「松平定敬」です。尾張徳川の分家、
美濃高須藩主「松平義建」の八男で、12歳の時、桑名の
久松松平家に婿養子としてはいります。「義建」は子だくさんで、
次男は「尾張藩主・徳川慶勝」。三男は「石見浜田藩主・
松平武成」。五男は「御三卿の一橋家当主・一橋茂栄」。
七男が「会津藩主・松平容保」で、九男が「桑名藩主・
松平定敬」。

つまり、会津藩主「松平容保」の弟です。それで「容保」が
京都守護職になると、弟の「定敬」は「京都所司代」に
任ぜられます。この時「定敬」わずか17歳。

慶応4年(1868)正月、鳥羽伏見で桑名藩は会津とともに
進撃しますが、藩主・定敬は慶喜に強いられて、容保と
ともに江戸に遁走します。

藩主不在で、桑名藩では“お家大事”と、官軍に
降服し、城を焼かれてしまいます。帰る城を失った
「定敬」は、会津から函館まで流浪の身となります。
この時21歳。「松平容保」の名声に隠れて、その
行跡はあまり知られていません。現在の桑名の人たちも
会津ほど、戊辰戦争には関心ないようです。