現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

幸田露伴『努力論』

2013-03-18 12:27:50 | 虚無僧日記
幸田露伴のエッセイ集『努力論』。岩波文庫でも出ていますが、
今やネットでも全文が見れます。大正元年の著で、文体は
難解ですが、今日でも通用する内容です。
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努力するのは、何らかの幸せを得るため。
幸せになりたければ、具体的な目標をもって 努力すればいい。

努力は、厭な事であっても、イヤイヤやらないで、
やる気を出す工夫をし、楽しんで、自らすすんでやるべし。

楽しめるようになることで、喜んで為したり、夢中になって
為したりできるようになれたら、苦しい努力ではなくなるのです。

努力していれば日々、“充実感”という幸せを感じることができる。
努力は自分を育てることにつながり、今後の幸せに貢献する。

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まさにその通り。音痴でリズム感の悪い私は「尺八」で
人一倍努力してきたが、一度も辛いとか苦しいなどと
思ったことはない。難しい曲も吹けるようになれば“楽しい”。
「イチロー」選手もそのようなことを言っていました。


もう一度「幸田露伴」の『努力論』から
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成功者は、自分の意志、知慮、勤勉、仁徳の力によって
好結果を得たと信じている。失敗者は、自分には罪はなく、
運命のせいで 苦しい目に遭っていると嘆いている。

・「有福」先祖や親の徳で得ている「福」には感謝。
・「惜福」その福を惜しむべし。無駄に浪費してはいけない。
・「分福」人の上に立つ者は、福を他人に分け与えるべし。
・「植福」庭にりんごの木を植え、果実をたくさん実らせ、
皆に分け与えるように、自分の力・情・智を、世のため人の
ために供すべし。

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これは、「実践倫理宏正会」の上広会長の年頭の辞で
話された。「植福」できる人になるべい。

確定申告「必要経費」とは?

2013-03-18 10:29:20 | 社会問題
競馬配当「脱税」裁判、JRAに問い合わせ殺到(読売新聞) - goo ニュース


競馬の「はずれ馬券」は「必要経費にならない」として、
所得税法違反に問われた件。

男性は 馬券購入に 約28億7000万円をつぎ込み、
約30億1000万円の配当を得た。国税庁は「必要経費として
控除されるのは当たり馬券の購入額だけ」としている。

そこで「必要経費」とは何か、調べてみました。
「必要経費」とは、

(1)総収入金額に対応する売上原価その他その総収入金額を
 得るために“直接要した費用”の額

(2)その年に生じた販売費、一般管理費 その他業務上の費用の額

なるほど「その収入を得るために、直接要した費用」とのこと。
となると、保険のセールスマンは?、

何百枚ものチラシを撒き、ティッシユやタオルなどの
ノベルティ商品を配り、日頃から多くの人と付き合いを深め、
交通費などもかかっていますが、「一件契約が成立した場合、
その契約のために要した費用のみ」ということになります。

そんなバカなです。
ま、(2)の「その他業務上の費用」として認められるという
ことでしょうか。保険セールスには認められて、競馬ファン
には認められない。なんか不公平ですね。


佐久間象山の子「恪二郎」

2013-03-18 09:06:55 | 「八重の桜」
新撰組の隊士の中に「三浦啓之助」という男がいました。

なんと、あの「佐久間象山」の子でした。「象山」の正室は
勝海舟の妹「順」さんですが、「啓之助」は お妾さんの
「お蝶さん」が生んだ子です。

嘉永元年(1848年)の生まれですから「象山」が暗殺された時
16歳。「佐久間家」は お家お取りつぶしとなりましたので、
「三浦啓之助」と名乗り、「父の仇を討つ」と新撰組に入隊します。
この時、会津藩士の「山本覚馬」が新撰組に「紹介状」を
書いたようです。

なにせ「佐久間象山」の子ですから、新撰組では特別待遇で、
また「象山」の正妻(勝海舟の妹)からの仕送りもあって、
わがまま勝手し放題。遊郭に居りびたり、乱暴狼藉も働く。
新撰組では扱いに困り、土方歳三は、松代藩に帰藩するよう
うながすのですが、聴かず、粗暴で隊規を乱し、新選組を
脱走します。

そして、戊辰戦争では ちゃっかり薩摩軍に参加し、越後
方面に転戦しました。

明治の世となると、勝海舟の甥であることを良いことに、
外国人から英語を習ったり、慶応義塾に通ったりもしましたが、
女にうつつを抜かして、中退。

七光りを活用して 司法省に出仕するも、日本橋でケンカして、
仲裁に入った巡査をボコボコにして、ここもクビになって
しまったそうです。

そして明治10年(1877年)2月26日、たまたま食べたウナギの
蒲焼にあたって、あっけなく死んでしまったのです。