ネットの力はすごいですね。作家の「池月映」さんから
わが家の先祖について情報をいただきました。
「池月」さんは、
大東流合気術の「武田惣角」について
研究されている方で、「武田惣角」の隣人「佐藤忠孝」の
妻「やお」は「牧原一郎の五女」で、坂下に墓がある
と教えてくれました。
『八重の桜』で「西田敏行」が演じている「西郷頼母」は
「合気術の伝承者ではなかったか」と云われているの
ですが、「池月」氏は「合気術」は、殿様の親衛隊である
「御供番」に伝えられたと、新たな見解を示されています。
「御供番」は特に武芸に優れた者60名ほどで、「牧原一郎」は
「御供番頭」だった。「佐藤忠孝」の祖父「佐藤金右衛門」も
「武田惣角」の妻の祖父も「御供番」だったとのこと。
牧原一郎の五女「やお」が、なぜ坂下の「佐藤家」に嫁いだのか、
不思議だったのですが、「お供番」同士のつながりがあった
と知って納得しました。
「牧原一郎」は、戊辰戦争当時すでに67歳で隠居の身
でしたが、8月23日西軍迫るの報に「容保公」の側近
として滝沢本陣まで出陣します。しかし、西軍の進撃を
支えきれず「老いの身で足手まといになって申し訳ない」と
自害しようとします。一度首を刺したのですが、その時、
「容保公」から「君、あわて早まるなかれ」と止められ、
感涙にむせび、出血を抑えながら甲賀口郭門までお供し、
自邸に入って自害しました。「御供番頭」だったから
隠居していても「君側の護衛」を勤めたと、池月氏からの
情報で判りました。
家督を継いでいた長男?「源六郎(勘太夫・寅彦と改名)」は
「物頭(中隊長)鉄砲隊」で活躍し、明治3年、斗南
三本木に移住しました。その子孫に「牧原一郎」が
おり、川崎市鶴見に住んでいたようです。
私の従兄弟の「源治郎」が亡くなった時、鶴見の葬儀会場で
そこの係りの方が「つい先日も『牧原一郎』という方の
葬儀がありました。ご親戚ですか?」と教えてくれたのです。
御縁の不思議を感じました。