伊賀上野と言えば「忍者ハットリくん」の「服部半蔵」。
その子孫が、なんと桑名藩の家老になっていました。
初代「服部半蔵正成(まさなり)」は、徳川家康に仕え、
江戸城で今の残る「半蔵門」に屋敷がありました。
(東京の地下鉄「半蔵門線」は服部半蔵に由来しています)
初代「正成」の子「正就(まさなり)」は、不祥事を
起こして、家康の勘気を蒙り追放された。その妻が
「桑名藩主松平定勝」の娘であったため、妻は三人の
子供を連れて 実家の桑名に戻り、子らは松平家の
親族として重用されたのでした。
十二代目の服部半蔵正義」は 弘化2年(1845)生れ。
慶応元年(1865年)、21歳で 家督を継ぎ、家老となる。
当時、桑名藩主の松平定敬(さだあき)は 京都所司代
でしたから半蔵も京都で藩主の側近として仕えた。
慶応4年(1868)正月、鳥羽伏見の戦いで敗走。
桑名の城内では、恭順派が官軍に降服して、城を
焼かれたため、城に入れず、大坂から江戸を経て、
桑名藩の飛び地「越後柏崎」へ。さらに、庄内
(山形県鶴岡市)へ転戦し、そこでで降伏しました。
明治2年、庄内を出発し、東京を経て桑名に帰還。
半蔵は桑名藩大参事や第三大区長(桑名郡長)などを
務めましたとさ。
その子孫が、なんと桑名藩の家老になっていました。
初代「服部半蔵正成(まさなり)」は、徳川家康に仕え、
江戸城で今の残る「半蔵門」に屋敷がありました。
(東京の地下鉄「半蔵門線」は服部半蔵に由来しています)
初代「正成」の子「正就(まさなり)」は、不祥事を
起こして、家康の勘気を蒙り追放された。その妻が
「桑名藩主松平定勝」の娘であったため、妻は三人の
子供を連れて 実家の桑名に戻り、子らは松平家の
親族として重用されたのでした。
十二代目の服部半蔵正義」は 弘化2年(1845)生れ。
慶応元年(1865年)、21歳で 家督を継ぎ、家老となる。
当時、桑名藩主の松平定敬(さだあき)は 京都所司代
でしたから半蔵も京都で藩主の側近として仕えた。
慶応4年(1868)正月、鳥羽伏見の戦いで敗走。
桑名の城内では、恭順派が官軍に降服して、城を
焼かれたため、城に入れず、大坂から江戸を経て、
桑名藩の飛び地「越後柏崎」へ。さらに、庄内
(山形県鶴岡市)へ転戦し、そこでで降伏しました。
明治2年、庄内を出発し、東京を経て桑名に帰還。
半蔵は桑名藩大参事や第三大区長(桑名郡長)などを
務めましたとさ。