現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

音楽は 暴力にもなる

2013-03-25 17:11:37 | 心の問題
3/24 毎日新聞で作曲家の「千住 明」氏が
こんなことを言っていました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「心を癒すだとか、心を温めるとか、東日本大震災の
被災地への音楽の“押し売り”がものすごく多い。
それを東北の人たちは断れない。だから僕は
音楽家たちに対して、音楽は暴力にもなるから
気をつけろというメッセージを発信し続けて
います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私も同感です。私などは、音楽の好き嫌いが
はっきりしています。聴きたくもない音楽を
聴かされるのは苦痛です。

音楽もTPOがあります。ジャズはブルーノートで、
ロックならドームで、クラシックはコンサートホールで、
高いお金を払って聴けば、それなりの感動があります。

避難所になっている体育館で、タダで聴きたいとは
思いません。ボランティア団体が来て、演奏していて、
「うるさい!」とトラブルになった事件がありましたっけ。
「のんきに歌なんか歌っている場合じゃないだろう。
歌よりも瓦礫の片付けを手伝ってくれたらどうなの」
という声もありました。

ロックやフォークバンドの方もよく老人ホームに
慰問演奏に来られるようです。狭い室内にPA(音響設備)を
セットして、ボリュームいっぱいにしてガンガン
がなりたてます。静かに寝ていたいという病人もいます。
それをお年寄りは断れない。じっと時間の過ぎるのを
待っているのです。

その点、尺八は「いいねぇ」と言ってもらえます。
音楽は「時には暴力」。そう思います。

会津藩の砲術指南

2013-03-25 16:29:26 | わが家のこと
山本覚馬の家は代々「会津藩の砲術指南」でした。
ネットでは「長沼流砲術指南」と書いてあるのも
見つけましたが「はて?」です。

「長沼流」は、江戸時代初期に軍学者「長沼澹斎」が
開いた兵法の一派ですが、甲州流をベースに明の兵制を
加味し、さらに西洋の鉄砲も重要視しており、「鉄砲を
弓隊の三倍用意せよ」と説いています。

ですから、江戸時代の半ば「長沼流」は 最新鋭の
兵法で「山鹿流兵法」と人気を二分したと言われます。
会津藩では 天明年間(1781~88)に採用されました。

しかし「長沼流」は兵法全般であって「長沼流砲術」と
いうのは、耳にしません。

会津藩での砲術は、「自由斎流、荻野流、永田流、
稲留流、種子島流、知徹流、一味流、新格流・棒火矢術、
諸葛流、高島流、夢想流、石橋流矢鉄砲毒火矢術、
堅毘流、北条流」と 15も 流派があって、それぞれに
「師範1名」が 登録されていました。

その中でも「稲留流」は人気があり、薩摩藩でも
採用されています。

さて、当家の祖「牧原源兵衛直矢」は「稲留流砲術指南」
でした。その父と長兄は「山鹿流兵法指南」でした。
「直矢」は三男坊でしたので、「砲術家」を目指したので
しょうか。

山本家は「高嶋流」だったという書き込みもありました。
いずれも「火縄銃」だったのですが、山本家はいち早く
「洋式の最新式銃」の研究に取り組んだのでした。

牧原直矢の次男「宗仲」は、山本覚馬らが京都に建てた
「洋学所」にはいり、西洋医術も学びます。そして
「蛤御門の変」で負傷した会津藩士の治療に当たる
のですが、過労で病死し、京都黒谷金戒光明寺の
「会津藩墓地」に埋葬されました。23歳でした。




大垣屋(大沢)清八

2013-03-25 15:36:13 | 「八重の桜」
『八重の桜』第12回は「蛤御門の変」。
戦争は一日で終結したが、京の町は3日4晩
燃え続け、3~4万戸もの家が焼けてしもうた。

長州が3千の兵を引き連れて上洛し、御所に発砲。
薩摩が長州藩邸を襲撃して火を放ち、それが元で、
京の都が大火となったのに、京童は、会津を“鬼”
とののしり、覚馬たちに石を投げる。悔しいですね。
「新撰組」があまりにも凶暴で恐れられたから
でしょうか。

どうやら長州は、多額の金をばら撒き「幕府を
倒せば、年貢も半減され、暮らしも豊かになる」
と喧伝してたようです。それを阻んだ会津は憎いと。


そこで登場したのが「松方弘樹」さん演じる
「大垣屋清八」。会津藩の御用商人。
「戦をするのが お侍さんの商売ですが・・・(庶民は
たまったもんじゃない)」というようなことを、
実に旨く表現していました。
「西洋の学問しても、家焼かずに済む戦のやりようは、
わからんもんでっしゃろか?」と。

この時、山本覚馬の胸に深く刻まれるものがあり、
覚馬は 明治以降、京都の復興に尽力するのです。
今までのドラマでは描かれることの無かった「京都の
ドンと焼き」を、東日本大震災の復興と重ね合わせる
意図がここにあったようです。

「松方弘樹」さんが演ずるのですから、明治以降も
山本覚馬や新島襄と深く関わる重要な役回りの
ようです。

ネットで調べると、「大垣屋清八」は 実在した
人物でした。

「大垣屋清八」の養子となった「大澤 善助」が
「大沢商会=現 大沢商会グループ」の創業者で、
京都電気鉄道の創立者とのことです。

原作者は実によく史実の細部まで浚って、上手く
組み立てていると感心します。





「蛤御門(禁門)の変」

2013-03-25 14:52:11 | 「八重の桜」
3/24『八重の桜』第12回、「蛤御門の戦い」。

「蛤御門」とは、天明8(1788)年の京都大火災で、
それまで“開かずの門”だったのが 開いたため、
焼くと殻を開く蛤に例えて「蛤御門」と呼ばれる
ようになったと言われます。

「蛤御門」は最初「長州」が警備していましたが、
前年の「8月18日の政変」によって、長州が追放され、
会津藩が警備することとなったのでした。

一年後の1864(元治元)年7月、長州兵が逆襲。
2~3千の兵を率いて上洛、蛤御門を警備している
会津藩に発砲しました。

長州の一隊は 筑前藩が守る中立売門を突破し
て御所内に侵入したが、乾門を守る薩摩藩兵が
援軍に駆けつけ、撃退したのでした。


この戦闘で、会津藩の戦死者は60名。長州藩の
戦死者は200名。少ない気がします。

今まで「蛤御門の戦い」というと、ドラマでは
チャンチャンバラバラの斬りあいでしたが、
『八重の桜』では「山本覚馬」が主人公なので、
鉄砲隊が前に出、長州との撃ち合いでした。
実際そうだったのでしょう。

最初に槍を構えて、銃弾を浴びた人は“お気の毒サマ”
です。戦死者名簿を見ると、100石以上の高士は
わずか5人。あとは下士や足軽、家人のようです。
黒谷の会津藩墓地には、藩士として22人しか
葬られていません。身分差別ですかな。

尚、この時の「山本覚馬」も「軍事取調 兼
大砲頭取」ですが「13人扶持」と 身分は
下でした。でも、鉄砲の重要性を藩の重役に
知らしめた場面でした。