「邦楽ジャーナル」12月号
普化の信奉者
堺の一路
私は「吸江(きゅうこう)流尺八の一路(いちろ)」と自称していますが、
実は600年前、一休と同時代に「一路」という人物がいました。
「一路は泉州(現大阪府)堺の人。ある日一休が一路を訪ね
“万法みな道あり、一路とはいかに”と問うと、一路は“万事休めと
いいながら一休(ひとやす)みとはこれいかに”と返し、二人は
大笑いして無二の親友となった」という話があります。
よくできた話ですが、これは江戸時代に書かれたもので、
それ以前の一休関連の史料には出てきません。ただし一路が
実在していたことは、当時の人の日記や漢詩などから明らかです。
一路も貴人の出で、作詩に長(た)け、宮中や文人の間でも知られる
存在でしたが遁世(とんせい)し、その生きざまは一休同様に
自由磊落(らいらく)だったようです。最後は食を断って自死しています。
その死にざまは、棺桶に入って昇天したという普化にも通じるところがあります。
吸江庵の朗庵
さて、もう一人「朗庵(うあん)」について、黒川道祐(? - 1691)の
『雍州府志(ようしゅうふし)』に記載があります。「雍州(ようしゅう)」とは
山城国のことで、京都の名所旧跡、寺社等をくまなく探索して、由緒、
伝聞を書き留めたものです。宇治の川辺にあった「吸江庵(きゅうこうあん)」について。
「中世異僧あり朗庵と号す。普化振鈴の作略を慕い、常に尺八を好み
自ら普化道者と号す。尺八一枝の外、一物をも携えず。大徳寺一休和尚と
友として善し。一説に虚無僧の祖たるなり」と。
その「朗庵」の絵というのがあります。この絵の上には、
「余(私)が東奥行脚(あんぎゃ)の砌(みぎり)、鎌倉の建長寺に
逗留した折り、祥啓(しょうけい)という画僧が、わが体の
はなはだ異なるを見て紙に描いてくれた。それで(私が)年来の所執
(しょしゅう)を述べて書く」
「龍頭を切断して以来
尺八寸中古今に通ず
吹き出す無常心の一曲
三千里の外知音絶す
文明丁酉(ていゆう)の秋、宇治の旧蘆にて朗庵」
と書かれています。
「文明丁酉」は文明9年(1477)。一休は文明13年(1481)に
88歳で亡くなっていますので、一休の最晩年の頃のこととなります。
さて、この「朗庵」の絵に描かれている尺八は、異様に長く、
上の方に響孔がついていますので、中国の洞簫(どうしょう)のようです。
釣り竿にはリールがついており、明らかに日本人離れした恰好ですので、
中国からの渡来人ではないかと思われます。
そして「龍頭切断」の詩偈(しげ)は、一休の没後30年ほどして書かれた
『體源抄(たいげんしょう)』には「狂雲子(きょううんし)の作」と
記されています。「狂雲子」とは一休のことですから、朗庵は
一休と親交があり、一休から聞いた詩偈を書いたのではないかと、
私は推察しています。
「龍頭」は「両頭」に掛けたもので、『明頭来明頭打、暗頭来暗頭打』の
普化の偈に通じます。竹の両端を切って作られた尺八から吹き出す
無常心の曲は、古今東西の真理に通じ、三千里の彼方まで普く
照らし絶える」というのでしょうか。
一休から普化の存在を知り、普化の境涯を真似、「普化道者」
「今普化」と呼ばれたのが「朗庵」でした。
この絵は後世かなり知られていたようで、何点かの写しがありますし、
狂言の『楽阿弥』にも「かの朗庵の頌にも龍頭を切断し…」とのセリフが
あります。また、この絵から創作されたのでしようか、「蘆安(ロアン)という
渡来人に、一休が “おまえさんの言葉はわからないが、その尺八を吹いて
全国どこへでも行ける”と諭した」というような話もあります。
「言葉はいらない、尺八一管の音で衆生を済度(さいど)する」という
虚無僧の悟りに通じます。
図1 「一路居士」 (『秀雅百人一首』 弘化5 緑亭川柳 葛飾北斎等画 より)
図2 「祥啓筆 朗庵像」 (『日本画大成』 昭6 東方書院 より)