現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「邦楽ジャーナル」 H 28 / 8 月号 掲載 

2017-01-15 11:11:41 | 虚無僧って?

「邦楽ジャーナル」 H 28 / 8 月号 掲載                                          

『虚無僧曼荼羅』No.4 

虚無僧消滅への序章

仙石(せんごく)騒動

江戸幕府が崩壊する30年ほど前、但馬(たじま)国 出石(いずし)藩

(現兵庫県豊岡市出石町)で世間を騒がすお家騒動が起きた。

藩主は「仙石政美」。家老も「仙石左京」と「仙石造酒(みき)」。

同族だが、両派の争いから、筆頭老中の辞任にまで発展する事件となった。

ことの発端は虚無僧が町方に捕らえられた事から。

天保6年(1835)。虚無僧友鵞(ゆうが)が南町奉行所の手の者に捕らえられた。

友鵞は出石藩を脱藩した神谷転(うたた)で、家老の仙石左京から奉行所へ

捕縛の依頼が出されていた。その友鵞救済のために、江戸浅草にあった

一月寺番所の役僧愛璿(あいぜん)が寺社奉行に訴え出た。

『慶長の掟書』を持ち出し「虚無僧は天下勇士の一時の隠れ家、

守護不入の宗門。町方によって捕らえられるとはもってのほか。

不審の事があれば寺社奉行によって取り調べられるのが筋」と。

そして「神谷転は忠義の士で、家老仙石左京の不正を知って脱藩

したのであるから、藩に引き渡されたら死罪になるは必定」と、

出石藩の内紛をほのめかした。取り調べの中で神谷転は、

「仙石左京は子息小太郎の嫁に老中の松平康任の姪を迎え、

多額の金品を贈って、小太郎を藩主にしようと企んでいる」と

述べた。そこで老中水野忠邦が動きだした。出世欲にからむ水野忠邦は、

筆頭老中松平康任を蹴落とす恰好の口実と、仙石左京を召喚し、

申し開きもさせずに、斬首獄門という厳しい刑に処したのである。

この仙石騒動は講談にもなって世間に広まり、仙石左京は“賊臣”と

されてきたが、はたしてそうだろうか。証拠があるわけではない。

反対派にしてみれば、「恐れながら」と幕府に訴え出ても、逆に

死罪になりかねない。そこで、神谷転を虚無僧に仕立てて、

町方に捕らえさせ、寺社奉行に訴えることで、幕閣を動かすことに

成功した。推理作家も驚く巧妙なシナリオであった。

さて、神谷転は一躍忠臣となり、一月寺は『慶長の掟書』が威力を

発揮したことで鼻高々だったが、その喜びは長くは続かなかった。

この後、幕府は『掟書』の真偽を詮議することとなる。藪蛇(やぶへび)と

なったのだ。

 

岐阜芥見村虚無僧闘争事件

仙石騒動の裁定が下されたのは天保6年(1835)。この9年後の

天保15年(1844)、岐阜の芥見(あくたみ)村で、虚無僧同士の乱闘が起き、

死者まで出た。取り調べてみれば、本来武士であるはずの虚無僧が、

宗縁と称する百姓や船頭、無宿人だった。「侍しか虚無僧になれない」とか

「虚無僧以外に尺八を吹くことを禁ず」といいながら、実際には町人、

百姓、無宿人にまで本則を出し、収入源にしていた。そのことから

虚無僧の本山一月寺にまで査察がはいり、重追放の科人(とがにん)が

江戸に舞い戻って看主になっていたことが発覚、遠島(=島ながし)となった。

一月寺だけでなく理光寺、慈上寺、観念寺、松岩寺の看主の愛妾までが

捕らえられ、多くの虚無僧が女犯の罪で遠島に処せられた。

飲む打つ買うが虚無僧寺の実態だったのだ。

この取り調べの後、弘化4年(1847)、幕府は『慶長の掟書』を偽書と

断定し、虚無僧の取り締まりを強化することになる。こうして幕末には、

虚無僧の姿は見かけなくなっていた。

明治4年の太政官布告の際も「全国60ほどの虚無僧寺のうち半数が無住」と

述べられている。

 

一月寺の役僧愛璿(あいぜん)は元会津藩士と知ってびっくり。わが家の先祖も

会津藩。愛璿(あいぜん)は、三度、漢文体で長文の見事な上申書を提出し、

ついに寺社奉行を動かした。なかなかの学識と気骨があった。そして、

東京中目黒の永隆寺に神谷転の墓があると知ってまたびっくり。私の従弟の家のす

ぐ真下。遊びにいく都度前を通っていた。ここは仙石家とその藩士の菩提寺

だったそうな。ということは、神谷転は裁きの後出石藩に復帰したのだろうか。

尺八古典本曲に「転菅垣(ころすががき)」という曲がある。「転(ころ)びという手が

用いられているから」とか、「車輪が回転するように展開する曲調だから」とか、

また「神谷転が吹いていた曲なので転(うたた)菅垣」という説もある。

「看主(手)(かんしゅ)」とは虚無僧寺のトップ。剃髪している正規の僧なら「住職」。

そうでない場合は「看主(手)」とか「院代」という。

神谷転は虚無僧になって短日で上総国三黒村松見寺の看主になっていた。

虚無僧になる前から尺八の心得はあったものと思われる。松見寺の跡には

愛璿(あいぜん)が起草し、友鵞(神谷転)の筆になる立派な石碑がある。

 

 


「邦楽ジャーナル」7月号 掲載「虚無僧曼荼羅」第3回

2017-01-15 10:52:41 | 虚無僧って?

「邦楽ジャーナル」H28年7月号 寄稿記事です

『虚無僧曼荼羅』No.3

 偽書「慶長の掟書」

ネットを見ると「虚無僧は公儀隠密だった」「江戸幕府は

普化宗を保護するために、虚無僧以外の者が尺八を吹くことを

禁じた」などというようなことが書かれています。その根拠は

「慶長の掟書(ルビ:おきてがき)」と呼ばれる文書です。

「慶長の掟書」は、原本は存在せず、写しが20以上もあって、

どれ一つとして同じものが無いという代物です。お題目に

「家康公関東入国の砌(みぎり)仰せられた掟(おきて)」と

書かれたものや、「定」というのもあります。家康の関東入国は

天正18年(1590)ですが、末尾の日付は「慶長19年(1614)」に

なっているといういい加減さです。

江戸幕府の公文書は「法度(はっと)、触(ふれ)、覚(おぼえ)、

定(さだめ)」で、「掟おきて)」というのはは「村の掟」のように

特定集団内部の取り決め事です。「慶長の掟書」と類似のものに

「(慶長18年)檀那請合之掟(だんなうけあいのおきて)」というのが

あります。寺院経営に都合の良いことばかり並べ立てたもので、

これも偽書とされています。「慶長の掟」はこれを真似たのでは

ないでしょうか。

 

虚無僧は浪士の隠れ家

「慶長の掟書」の第一条に「虚無僧は勇士浪人一時の隠れ家」とあり、

末尾の条文では「表には僧の形を学び、内心では武門の正道を失わず、

武者修行の宗法と心得る可し」と。そして「武者修行だから日本国内往来の

自由を認める」と結んでいます。つまり「僧の恰好はしているが資格は

武士である」というのです。禅宗の一派とか「普化宗」という言葉は

出てきません。

条文は6項目から21項目のものまであり、順序もバラバラ、文章も異なります。

たとえば「血刀を提げて寺内に駆け込んできた者がいたら、事情を聞いて

保護せよ」という条文があります。このことから「罪を犯しても虚無僧に

なれば許された」というような説がネットで流れています。ところが、

後に幕府から咎められて、「咎人(とがにん)は一切隠し置くべからず、

縄かけ(奉行所へ)差し出す可し」と追加しているものもあります。

そして「お尋ね者や怪しい者を見つけたら捕らえて役所に差し出す可し」と、

警察権が与えられていたかのような条文もあり、虚無僧が公儀隠密だったという

説の根拠になっています。これも後に幕府から「そのようなことを

命じたことはない」と咎められ、消されているものもあります。

後書きで「この掟は延宝年中(1673-1680)、老中堀田加賀守、

太田摂津守、牧野内膳正によって再確認された」と記されているものも

あります。これにより「普化宗が幕府によって正式に承認された」と

言われていますが、延宝年間の老中にこの三人はいませんので、これも

真っ赤な嘘でした。寺社奉行でなく老中としていることは、

虚無僧が正規の僧ではないことを自覚していたとも受け取れます。

その他「虚無僧寺の看主(住職に相当)は千石の武士、一般虚無僧は

百石の武士席と定める」という付則もあり、このような大言壮語は

滑稽にさえ思えます。見方を変えれば、物乞いや辻芸人とは一線を

画したいという浪人者の虚勢でしょうか。                   

 

不可抗力?の交通事故

2017-01-13 21:12:28 | 虚無僧日記

知人の話し。

深夜、信号のある交差点で、青なので直進したら、

右側から老人がフラフラ出てきた。あわてて左に

ハンドルを切ったが バックミラーに当たって、

老人が転んだ。自分は車を左に寄せて止め、降りようと

したら、後続車がきて、老人を轢き殺してしまった。

近所の人も出てきて云うには「老人は認知症で、夜中に

度々 徘徊していた」と。

後続車も気の毒である。前の車が左に寄ったので、追い越そうと

したら、人が倒れていたのだから、避けようがない。いや、

車間距離を十分とり制限速度でノロノロ走っていれば、

事故は防げたと警察は云うが。

他人事とは思わず、災難はいつ自分にふりかかるか、用心用心


「誕」という字は「いつわり、だます」という意味!

2017-01-13 20:44:25 | 虚無僧日記

意外に知られていない漢字の意味

「誕生」とはめでたい話だが、その「誕」という字の意味は、知って驚くなかれ。

①「いつわる」というのが最初にくる。

 ア:「本心や真実を隠して,それと違うことを言う」、「嘘をつく

 イ:「だます

②「いつわり」、「」、「でたらめ」(例:荒誕)

③「大き」、「広い

④「正しくない

⑤「自分のしたいようにするさま」(例:誕放)

⑥「さて」、「ここに」(「言い始め」の助字)

そして最後に

⑦「生まれる」(例:誕生)

⑧「育てる

なるほど、言われてみれば、オギャーと生まれた時は

純真無垢、天使のように可愛く、無限の可能性を秘め、

親は子に大きな期待をかける。 ところがところが、

育ててみれば、わがまま勝手、夜中だろうとなんだろうと

わけもわからず泣いて、親をてこずらせる。

そして成長してみれば、親の願うとおりには進まず、

「こんなはずじゃなかった」と嘆き悲しませる。

まったく、人を欺き、裏切る。

さて、キリストの降誕も、人を欺くことか?。

 


漢字って やな感じやな

2017-01-13 20:43:56 | 虚無僧日記

日本は、古代「倭」の国と書かれていた。「倭奴国」とも。

「倭」とは「人に委(ゆだ)ねる」だから「奴隷」のことだ。

「和」を「倭」と。「やまと」を「邪馬台国」と、わざわざ「邪」の字に。

そして「卑弥呼」も、「日の御子(ひのみこ)」に「卑」の字。

私は、日本の古代史を初めて学んだ時、子供心に不快に思ったものだった。

日本人の祖「いざなぎ、いざなみのみこと」にも「伊邪那岐」「伊邪那美」と

「邪」の字。

漢字は西暦3世紀頃、日本に伝えられたとされる。そして奈良時代に

作られたという「日本書紀」「古事記」「万葉集」は、中国からの渡来人

(漢民族)の手助けで書かれたものであろう。

であるから、そこには、日本人を蔑視し、貶(おとし)める意図が働いて

いたのではないだろうか。

「漢字が伝わる以前、日本には文字は無かった」というのが、今のところ

定説だが、これとて、「それまでの日本は文盲の未開国だった」という

卑下した考えだ。

昨今、「漢字が伝来する以前、日本には古代文字があった」とする

説がさかんに浮上してきた。そしてその文字は、世界各国で発見

されている古代文字と類似しているという。

 


漢字は聖書から?

2017-01-13 20:42:15 | 虚無僧日記

「天」という字は「一」を書いて「大」と書く。一番大きいものですな。

では「夫」は?「二」を書いてから「人」と書く。なんで「二人」なんだろう。

「夫」という字を逆さにすると「¥」になる。保険会社に勤めていたので、

「夫が二人いるといいですね。夫という字をひっくり返すと「¥」になります。

夫が倒れれば、たちまちお金がいります。そこで二人目の夫、それが

保険です」と。セールストークです。

「夫」という字は「土」と「人」とも分解できそうです。夫は土まみれに

なって働く人か?

では「主」は? 「ナベブタ」に「土」。土に蓋をかぶせて閉じ込める。

家族に縛られる「主」の悲哀を暗示しているのでしょうか。

 

ところで、「罪」という字は、なんで「四に非ず」なんでしょう。

「四」でないと「罪」になる。

キリスト教でいう「四位基台」。つまり「神の下にアダムとエバ(夫婦)、

その下に子供の菱形(四角形)がそろわないと「罪」。

私のように離婚して夫婦が別れた人。神をないがしろにする人、

子供を捨てるような人は「罪」「罪」「罪」「罪つくり」

ここにも「漢字の中に聖書が」です。

 

 


「邦楽ジャーナル」連載 「虚無僧曼荼羅」 1

2017-01-11 17:16:58 | 虚無僧って?

昨年(H28)5月から『邦楽ジャーナル』に虚無僧の歴史について

寄稿させていただいております。その記事をアップします。

 第1回 謎だらけの虚無僧史

 私、平成の虚無僧一路でござる。子供の頃、

家の前に現れた虚無僧を見てビビッときて、

虚無僧に憧れ60年。念願かなって今晴れて

虚無僧をしておりまする。

 

ところで虚無僧って何? 大学は文学部史学科に進み、

そこで虚無僧について調べてみたら、調べれば

調べるほど謎だらけ。

一般的には 「虚無僧は禅宗のひとつ普化宗の僧。

普化宗を日本に伝えたのは紀州由良の興国寺の

開山、法鐙国師覚心」といわれています。

ところが、室町時代以前の正史には、法燈国師と

普化宗・虚無僧との関係を記す史料は出てきません。

そもそも興国寺は、当初は禅宗ではなく、高野山の

系統で寺名も西方寺でした。さらに調べれば、

教の法統には、中国にも日本にも普化宗など

なかったのです。

虚無僧の祖を中国唐代の普化禅師とし、法燈国師が

日本に伝えたという説は、江戸時代の後半になって

出された『虚鐸伝記国字解』という書物に書かれて

いるものです。その内容が創作されたものであることは

ほぼ明らかです。

では『虚鐸伝記国字解』の作者は何を根拠

そのような伝説を創作したのでしょうか。

それが虚無僧についての最大の謎です。

そして江戸時代、虚無僧は徳川家康のお墨付きを

もらったとして「関所も芝居小屋もフリーパス」、

「尺八は虚無僧しか吹いてはならない」などと

手前勝手な特権を振りかざすようになります。

その「お墨付き」と称する『慶長の御掟書』というものが、

これまた真っ赤な偽物。ねつ造だったというのですから、

何をかいわんやです。

それなのにネット上では、伝説や伝聞がまことしやかに

書かれていたり、法燈国師を「東福寺の禅僧」とか、

「普化宗は幕府の隠密のようなことをしていたため、

明治になって廃止された」などという説が拡散されて

ます。

面白いのは、「虚無僧が前に下げている箱に『明暗』と

書かれていますが、あれは明暗寺の僧であるということを

示すもので、特に意味はありません」というのも

ありました。意味は大ありです。「明暗」とは、

普化禅師の偈「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打」に由来

するもので、これこそ虚無僧の唯一の教義です。

ですが、京都の明暗寺は江戸初期は「妙安寺」でした。

そして「明暗」と書かれた偈箱 は今日では

虚無僧の定番ですが、実は江戸時代には無かったのです。

最後にもうひとつ。「虚無僧は元武士でなければ

なれなかった」というのですが、浮世絵や大津絵には

女物の着物を着た「女虚無僧」の絵がたくさんあります。

はたして「女虚無僧」はいたのでしょうか。男性が

女装していたのでしょうか。

知れば知るほど不可解な虚無僧の実像と虚像を今月から

連載させていただきます。

 


虚無僧曼荼羅 2

2017-01-11 17:08:16 | 虚無僧って?

「邦楽ジャーナル」2016.6月号に掲載

虚無僧曼荼羅 No.2

「清濁併せ持つ虚無僧」

 普化宗の公認は昭和25年

大正、昭和にかけて、“最後の虚無僧”と云われた谷狂竹は、

愛知県の新城市で警察に捕まり、留置場に入れられています。

「乞食をした」という理由で、天蓋、偈箱、尺八を取り上げられたうえ、

4、5発殴られて留置場にぶちこまれました。裁判での谷狂竹の弁明は、

「虚無僧の門付けは、一に修行で、修行僧は自ら食物を求めることは

できないので、在家の喜捨に待たねばなりません。

二に尺八の吹簫行化は、仏のに従って功徳を衆生に施すもので、

尺八の音に感じて功徳を得、道心を起こす人が現われ、ご好意で喜捨

いただくもので、こちらから無心(無理に要求)するものではありません」と。

この弁明に対する検事の意見は、「なるほど、精神的には乞食ではないが、

客観的には乞食と異なる所はない。例えば、近頃は何なに術とか、

何なに療法などと言って医師法違反をする者がいるが、病を治して

やろうという精神は悪くないにしても、違反は違反である。

従って、被告は名を虚無僧にかりても、乞食は乞食である」と。

そして判決は「拘留4日」でした。(『虚無僧 谷狂竹』稲垣衣白編より抜粋)

この両者のやりとりの中に、虚無僧は修行僧なのか物乞いなのか、

清と濁併せ持つ虚無僧の特異性が見いだされます。

そして虚無僧が「普化正宗」として宗教法人登記され、天下晴れて

公認されたのは、なんと戦後の昭和25年のことなのです。

前後して『虚無僧屋敷』『虚無僧系図』『鳴門秘帖』『甲賀屋敷』等

虚無僧を主人公にした映画が封切られました。これらの映画に登場

してくる虚無僧は“善玉”、白面の貴公子でした。主役の嵐寛寿郎、

市川歌右衛門、鶴田浩二といった大スターに憧れて、虚無僧に

変身する者も現れました。映画の主人公気取りで、虚無僧の恰好をし、

門戸に立って「六段」や「千鳥の曲」など習いたての曲を吹いて

回ったのでした。「虚無僧、昔よくみた」といわれる虚無僧の

多くはそんなコスプレ虚無僧でしょう。

では本物の虚無僧って何なのでしょう。この続きは次号に。

 

 

 


世阿弥の名言「離見の見」

2017-01-10 05:44:57 | 虚無僧日記

「離見の見」とは、「演者は、観客の立場で自分を見なければならない」ということ。

コンサートに行って失望するのは、ひとりよがりの演奏をしている場合だ。

それでも身内のファンがいて、「アンコール!」などと叫ぶものだから、

演奏者は、それで悦に入って、にこにこ笑顔で、よく知られた曲などを

演奏する。だから、最後のアンコールの曲だけが良かったりする。

それは、そこでようやく、お客の心に入ったからだ。

 ではどうやって、自分を第三者的に見ればいいのか。

世阿弥は、「目前心後(もくぜんしんご)」という言葉を用いている。

「眼は前を見ていても、心は後ろにおいておけ」ということ。

「後ろ姿を覚えねば、姿の俗なるところをわきまえず」。

後姿を見ないと、自分では見えない後姿に“卑しさ”が 出ていることに

気付かない。

歳を重ねれば重ねるほど、位が上に行けば行くほど、自分の後姿を

見ることを忘れてしまいがち。自分が卑しくならないためには、

自分を突き放して見ることが必要と。

 

私の場合は、親しいファンが、公演の後、私のトークや演奏姿勢について、

あれこれ評価してくれる。私としては、言われなくとも、自覚していることが

大抵だが、私の気づきと、指摘されたことが同じだと、より心を強くすることが

できる。こうしたアドバイスをしてくれるファンがいることが幸せである。

 


世阿弥の名言「上手は下手からも学ぶ」

2017-01-10 05:44:30 | 虚無僧日記

 『風姿花伝』 問答条々

問う。「下手な演者でも、何か一つは上手に勝った所があるものだ。                                              これを上手がしないのは、できないからなのだろうか。それとも、                                                        してはならないことだからしないのだろうか。

それに対する答え 
本当に技能と工夫とを極めた上手は、下手の真似もできる。ただし、
本当に技能と工夫とを極めた演者は、万人の中に一人もいない。                                              ただの上手は、慢心しているから、下手から学ぼうとはしないのだ。

上手にも悪い所があり、下手にも良い所は必ずあるものだ。しかし                                              それぞれの長所短所を、見きわめる人はいない。

上手は名声に安住し、悪い所に気がつかない。下手は、悪い所にも                                             気がつかないし、良い所もわからない。
だから、上手も下手も、互いに人に(自分の長所短所を)尋ねるべきだ。

稽古は厳しくやれ。(自分に悪い所はないと思う)強情心であってはならない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私も今、下手な人の演奏を聞いて、それを真似してみて、何がどう違うのか、                                                      どう工夫すれば、もっと上手に表現できるのかを考えるようになった。                                              だが、下手の人から学ぶべき長所、良い点を見つけるのはなかなか難しい。