「邦楽ジャーナル」 H 28 / 8 月号 掲載
『虚無僧曼荼羅』No.4
虚無僧消滅への序章
仙石(せんごく)騒動
江戸幕府が崩壊する30年ほど前、但馬(たじま)国 出石(いずし)藩
藩主は「仙石政美」。家老も「仙石左京」と「仙石造酒(みき)」。
同族だが、両派の争いから、筆頭老中の辞任にまで発展する事件となった。
ことの発端は虚無僧が町方に捕らえられた事から。
天保6年(1835)。虚無僧友鵞(ゆうが)が南町奉行所の手の者に捕らえられた。
友鵞は出石藩を脱藩した神谷転(うたた)で、家老の仙石左京から奉行所へ
捕縛の依頼が出されていた。その友鵞救済のために、江戸浅草にあった
一月寺番所の役僧愛璿(あいぜん)が寺社奉行に訴え出た。
『慶長の掟書』を持ち出し「虚無僧は天下勇士の一時の隠れ家、
守護不入の宗門。町方によって捕らえられるとはもってのほか。
不審の事があれば寺社奉行によって取り調べられるのが筋」と。
そして「神谷転は忠義の士で、家老仙石左京の不正を知って脱藩
したのであるから、藩に引き渡されたら死罪になるは必定」と、
出石藩の内紛をほのめかした。取り調べの中で神谷転は、
「仙石左京は子息小太郎の嫁に老中の松平康任の姪を迎え、
多額の金品を贈って、小太郎を藩主にしようと企んでいる」と
述べた。そこで老中水野忠邦が動きだした。出世欲にからむ水野忠邦は、
筆頭老中松平康任を蹴落とす恰好の口実と、仙石左京を召喚し、
申し開きもさせずに、斬首獄門という厳しい刑に処したのである。
この仙石騒動は講談にもなって世間に広まり、仙石左京は“賊臣”と
されてきたが、はたしてそうだろうか。証拠があるわけではない。
反対派にしてみれば、「恐れながら」と幕府に訴え出ても、逆に
死罪になりかねない。そこで、神谷転を虚無僧に仕立てて、
町方に捕らえさせ、寺社奉行に訴えることで、幕閣を動かすことに
成功した。推理作家も驚く巧妙なシナリオであった。
さて、神谷転は一躍忠臣となり、一月寺は『慶長の掟書』が威力を
発揮したことで鼻高々だったが、その喜びは長くは続かなかった。
この後、幕府は『掟書』の真偽を詮議することとなる。藪蛇(やぶへび)と
なったのだ。
岐阜芥見村虚無僧闘争事件
仙石騒動の裁定が下されたのは天保6年(1835)。この9年後の
天保15年(1844)、岐阜の芥見(あくたみ)村で、虚無僧同士の乱闘が起き、
死者まで出た。取り調べてみれば、本来武士であるはずの虚無僧が、
宗縁と称する百姓や船頭、無宿人だった。「侍しか虚無僧になれない」とか
「虚無僧以外に尺八を吹くことを禁ず」といいながら、実際には町人、
百姓、無宿人にまで本則を出し、収入源にしていた。そのことから
虚無僧の本山一月寺にまで査察がはいり、重追放の科人(とがにん)が
江戸に舞い戻って看主になっていたことが発覚、遠島(=島ながし)となった。
一月寺だけでなく理光寺、慈上寺、観念寺、松岩寺の看主の愛妾までが
捕らえられ、多くの虚無僧が女犯の罪で遠島に処せられた。
飲む打つ買うが虚無僧寺の実態だったのだ。
この取り調べの後、弘化4年(1847)、幕府は『慶長の掟書』を偽書と
断定し、虚無僧の取り締まりを強化することになる。こうして幕末には、
虚無僧の姿は見かけなくなっていた。
明治4年の太政官布告の際も「全国60ほどの虚無僧寺のうち半数が無住」と
述べられている。
一月寺の役僧愛璿(あいぜん)は元会津藩士と知ってびっくり。わが家の先祖も
会津藩。愛璿(あいぜん)は、三度、漢文体で長文の見事な上申書を提出し、
ついに寺社奉行を動かした。なかなかの学識と気骨があった。そして、
東京中目黒の永隆寺に神谷転の墓があると知ってまたびっくり。私の従弟の家のす
ぐ真下。遊びにいく都度前を通っていた。ここは仙石家とその藩士の菩提寺
だったそうな。ということは、神谷転は裁きの後出石藩に復帰したのだろうか。
尺八古典本曲に「転菅垣(ころすががき)」という曲がある。「転(ころ)びという手が
用いられているから」とか、「車輪が回転するように展開する曲調だから」とか、
また「神谷転が吹いていた曲なので転(うたた)菅垣」という説もある。
「看主(手)(かんしゅ)」とは虚無僧寺のトップ。剃髪している正規の僧なら「住職」。
そうでない場合は「看主(手)」とか「院代」という。
神谷転は虚無僧になって短日で上総国三黒村松見寺の看主になっていた。
虚無僧になる前から尺八の心得はあったものと思われる。松見寺の跡には
愛璿(あいぜん)が起草し、友鵞(神谷転)の筆になる立派な石碑がある。