現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

八橋検校はグレゴリオ聖歌を聴き得たか?

2021-07-19 09:19:07 | 筝尺八演奏家

皆川達夫氏の「西洋音楽は、信長の頃、今想像する以上に日本に広まっていた」という説は、傾聴に値する。

 


天文18年(1549年)フランシスコ・デ・ザビエルが渡来し、キリスト教の布教に 賛美歌が重要な役割を果たしていたことは否めない。
2年後の天文20年(1551年)ザビエルは、山口の大内義隆に謁した折、「楽器」を献上している。

30年後の、天正7年(1579年)アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日し、日本各地にセミナリョやコレジョを設立して、神学教育と音楽指導に力を入れた。少年たちは 毎日1時間の音楽訓練(声楽と器楽ともに)を受け、「オルガンで歌うこと、クラヴォ(鍵盤楽器)を弾くことを学び、すでに相当なる合唱隊があった。

天正9年(1581年)織田信長は 日本人少年たちが演奏するクラヴォやヴィオラ(弦楽器)を聞き、おおいに満足したという。
 
翌天正10年(1582年)ヨーロッパに向けて 4人の「天正遣欧使節」が派遣さ、彼らはヨーロッパ各地を訪問し、臆することなく己れらの演奏を披露した。ポルトガルのエーヴォラ大聖堂では、巨大なパイプ・オルガンを見事に弾きあげた。

天正18年(1590年)帰国した少年使節一行は、聚楽第で 関白秀吉に謁し、持参したリウト(リュート)、アルパ(ハープ)、ラベイカ(レベック、高音ヴァイオリン)、クラヴォを合奏しつつ歌っている。秀吉はひたすらに聞き入り、三度ほど くり返し演奏をさせ、その後一つひとつの楽器を手にとって 色々と尋ねた

やがて日本でも 洋楽器の製作が始まる。慶長6年(1601年)には竹管を備えた)オルガンや、種々の楽器が製作されたが、それらは日本(の諸聖堂における聖祭で大いに利用された。
宣教師ルイス・フロイスは「日本人はヨーロッパの諸楽器を上手に弾く」と報告している」。

というわけで、皆川氏は「日本人は、天平の昔、中国(唐)の音楽を取り入れたと同様に、天正年間、西洋の音楽は、日本国内に、今思う以上に広がっていた」と説く。

ところが、江戸幕府は、1613年からキリシタン弾圧に踏み切り、多くの伴天連やキリシタンを処刑し、追放した。

八橋検校が生まれたのは、高山右近らが処刑された翌年の1614年である。
生まれは、岩城(福島県の平)とされる。盲人であったため、琵琶や三味線を生業とし、20代の頃は摂津(神戸)に居た。その後江戸に下り、筑紫善導寺の僧・法水に師事して「筑紫箏」を学んだとされる。

「八橋は筑紫の善導寺で筑紫箏を学んだ」という説もあるが、八橋が筑紫に行ったという史料は無い。また、グレゴリオ聖歌を耳にすることができたか?。キリシタン禁制の世である。可能性は低いと言わざるをえない。



松代真田家と「小野お通」

2021-07-14 08:26:15 | 筝尺八演奏家

「松代」と言えば 「群発地震」で知られる所となった。                                                           それ以前は 「太平洋戦争末期に、大本営と皇居の移転先として大地下壕が掘られた所」として知られていた。結局終戦で移転することは無かった。                                        

先年、NHK大河ドラマで「真田丸」をやっていた。その真田家が江戸時代領主だった所。                                                  

「真田といえば 上田城で、真田幸村は 大阪の陣で討死にしたはず」と思われているが、実は幸村の兄「信之」は徳川方に付き、松代で幕末まで存続していたのでした。家名存続のため二股をかけたというわけだ。

                                               先年、虚無僧で行ってきた。江戸時代の「藩校」や「真田家」他、武家屋敷がそっくり当時のまま保存されていた。

私の関心事は、ここ松代の真田家に「八橋流筝曲」が伝承されていたこと。真田家の什器・宝物が大切に保存されてきた土地柄だからこそ、「八橋流」も伝承
されてきたのだと納得です。

そして、真田宝物館で出している機関誌『松代』の第3号に「小野お通」と題して「真田淑子」女史が詳述しており、それをいただいてきた。

 


八橋検校と小野お通

2021-07-14 08:25:56 | 筝尺八演奏家

近世筝曲の始祖「八橋検校」の起こした筝曲「八橋流」は途絶えたとされていたが、どっこい、松代市に住む真田志ん」さんという女性が「八橋流」を正しく伝承している ことが判り、昭和44 年には国の無形文化財に指定された。

昭和48年、古屋富蔵さんの会で、私は「真田志ん」さんの『六段』の演奏を聴いている。現在伝わる『六段』とあまりにも違うことに、私の頭は真っ白になった。

 

「真田志ん」さんは、その3年後の 昭和51(1976)年、92歳で亡くなられた。

その後、娘の「叔子」さんが継承し、「八橋流」について調べたことを真田宝物館の機関誌『松代』第3号で発表し、また、地元の本屋から私家本として『小野お通』を出版している。 真田淑子(さなだ・よしこ)著。風景社
(長野県長野市) 初版:平成2年5月(1990年)定価:2500円 A5判。

その「淑子」さんも 平成15(2003)年、90歳で亡くなられた。
宗家は消滅したが、門下生により「八橋流」筝曲は厳格に伝承されている。

さて、「なぜ、松代に『八橋流』が伝承されたのか」
これが、3通り憶測される。

①2代藩主「真田信政」の側室「お伏(二代目お通)」が、京都で 八橋検校から直接に筝を習ったという。



「2代目小野お通」とは、その母も「お通」といい、初代藩主である父「真田信之」が深く思いを寄せていた女性であった。この「初代お通(通子)」は、京都にいて、和歌や書画・琴にも優れ、信長や秀吉らとも親交があったと伝えられている。最初、塩川伯耆守に嫁いだが、夫が本能寺の変で討死にしたため、渡瀬羽林家に再嫁。一女をもうけた。
その娘が、上田藩主であった真田信之(信幸)の側室となり、真田信之(信幸)が 元和8年(1622年) 松代転封に伴い、母の「お通」も 松代に移り住み、松代で歿した。

娘の「2代目お通」(1587~1679年) が、京都で、八橋検校から「八橋流箏曲」を学び、それを 勘解由家に伝えたとされる。


③『真田勘解由家文書』では、松代の8代藩主「真田幸貫」が、藩士の禰津権太夫夫妻を京都に派遣して、八橋流 16代目の有一座頭」から「八橋流」を習わせ、藩内に八橋流を広めさせたと記している。
8代幸貫は、陸奥白河藩主 松平(久松)定信の二男で、真田家に養子として入り、箏や茶道、書などの文化を奨励した。


「初代と娘の“二代目お通”が八橋検校から直接『八橋流』を習った」という説には無理がある。

「2代お通の 京都在住が、1622年の松代移住前とすると、「八橋検校」はまだ8歳。「2代目お通」が八橋から直接習ったというのは、後世の挿話であろう。

となると、江戸時代半ば、八橋流16代目の「有一座頭」から伝承されたものというのが確実ではないか。

真田勘解由家」は、真田家二代信政と「2代目小野お通」の子「信就」を初代とする真田家の分家。現在も屋敷が現存し、子孫が住んでおられ、蔵の中には古文書類が多数あるとのことだが、その公開を拒まれているとのこと。

松代藩に伝えられたという「八橋流」は、八橋流16代目の有一座頭」から 禰津権太夫の妻千勢が 娘 喜尾へ免許を与え、喜尾が娘の伊豫(横田家へ嫁す)に伝え、伊豫が娘の由婦( 真田家へ嫁す)に伝え、由婦から孫の「真田志ん」に
伝承 されたというのが、私の説である。




今日7/12は八橋検校の命日

2021-07-12 22:02:33 | 虚無僧日記

今日7月13日は近世筝曲の始祖「八橋検校」の命日。

八橋は1685(貞享2)年6月12日(グレゴリオ暦の7月13日歿。なお「八橋忌」は旧暦の6月12日に墓所の常光院と法然院で行われる。

その常光院なんと、京都の金戒光明寺内にある。金戒光明寺は、幕末 京都守護職を勤めた会津藩の本陣があった所。大きな山門の横に塔頭のひとつ「常光院」があり、その門前に琴柱を模した碑があるのをいつも目にしていた。

 

さて、八橋検校は、箏を習ったことがある人なら誰でも知っている『六段の調べ』の作曲者とか、京都の銘菓「八ツ橋」として知られているのですが、この双方とも伝承はいささか怪しい。

 

まず、お菓子の「八ツ橋」について

京都土産の定番「八ツ橋」を製造販売している会社は14社もある

その内、最も有名な「聖護院八ツ橋総本店」と「井筒八ツ橋本舗」など6社は「金戒光明寺内常光院の八橋検校の墓参に訪れる人を対象に聖護院の森で売り出したもので、八橋に因んで筝の形を模した干菓子」と「八橋検校」説を唱えている。

これに対して、「本家西尾八ツ橋」と「本家八ツ橋」の2社は「三河の僧から制法を学んだもので、在原業平の『伊勢物語』に登場してくる三河国(現愛知県知立市)の八橋に因んで ❝橋の形❞ を模したもの」と主張している。

知立市の隣りは西尾市だが、西尾八ツ橋西尾は経営者の「西尾松太郎・為治、為一」の姓である。

 

 


八橋検校の出生地「いわき市」と「沖縄」の関係

2021-07-12 21:12:03 | 筝尺八演奏家

八橋検校」の出生地は、岩城国(福島県)(たいら=現いわき市)とされている。『筝曲大意抄』にそう書かれているそうな。


「いわき市平」の生まれかは判らないが、八橋検校は「岩城平(たいら)藩の江戸屋敷に、お抱え楽師として勤めていた時期があった。しかしそれは晩年の事。




いわき平藩、内藤家の三代目藩主「内藤風虎」こと内藤義泰(又は義概)が、なかなかの風流大名だった。この殿様の庇護のもと、八橋は筝曲を大成し、一般庶民にも広げた。

その八橋流」が、沖縄信州松代に伝えられたとされる。

この謎を解くヒントが見つかった。

なんと、沖縄の「エイサー」は、福島県いわき市に伝わる「じゃんがら念仏踊り」が原型とか。なぜ?

江戸時代の初め、まだ沖縄が琉球国として独立していた頃、岩城の出身の浄土宗の僧「袋中(たいちゅう)」上人」が、明国に渡ろうとして果たせず、琉球に留まり、琉球国王の信任を得ていたとのこと。その「袋中上人」が、岩城の芸能を琉球に伝えたという。

琉球の三線の曲に「落しすがち」という八橋流の筝曲の手使われているとのこと「滝落とし菅垣(すががき)」であろうか。「滝落とし」という曲は尺八にもある。また「菅垣(すががき)」とはお箏の手だが、尺八曲にも「山谷菅垣」とか「秋田菅垣」とか多くある

であるから八橋流筝曲は「袋中上人」が琉球(沖縄)に伝えたのであろうか。

袋中上人」と「八橋検校」は交流があり、「袋中」は八橋から三絃と箏との手ほどきを受けていたのではないか、と考えたいが、残念ながら、

八橋検校は、慶長19年(1614年)~貞享2年6月12日(1685年7月13 日)の人。

袋中上人」は、天文12年(1552)-寛永16年(1639)の人で、袋中」が琉球に渡ったのは、慶長8年(1603年)だから、八橋はまだ生まれていない。

であるから袋中が八橋から箏、三絃を学んで沖縄に伝えたとは考えられない。

逆に「六段」の原型、雅楽の楽箏や筑紫流の「六段」が岩城に広まっていて、「袋中」や「八橋」も、それを知っていたとは考えられないだろうか。





「六段」の作曲者は「八橋検校」ではない?

2021-07-12 21:06:10 | 筝尺八演奏家

日本音楽(日本音楽社発行)通号21(1949年10月)P.10~11に田辺尚雄氏が『日本歴史講話 ―六段曲は誰の作か』という論文を発表している。

ここで田辺氏は、「江戸時代には、『六段が八橋検校の作』と書き記したものは存在しない。それは明治以降」と断定している。また、

琉球には、『一段(瀧落菅攪)』、『二段(地菅攪)』、『三段(江戸菅攪)』、『四段(拍子菅攪)』、『五段(佐武也菅攪)』、そして『六段(六段菅攪)』、『七段(七段菅攪)』の7つの器楽曲がある。

そのうち、『六段菅攪(すががき)』は、本土の『六段』と寸分の差がない。拍子数が同じだが、調子は平調子ではなく筑紫流と同じ雅楽の呂旋法となっているから、曲調は全然違って聞こえる。

実は私は、この「琉球の六段」を聞いている。まったく曲調がちがうので、奇異に感じた。


田辺氏は「古典的な手法が用いられており、左手法も古風で単純。従って『六段』は、琉球の方が素で、本土の方が後であると言える」と結論づけている。

これに私は若干修正を唱えたい。

八橋はもともとは、琵琶法師であり、三味線弾きだった。そして筑紫善導寺の僧法水から筑紫流筝曲も学んだ。その筑紫流箏曲の『六段』は雅楽の呂旋律だった。それが沖縄にも伝播して「琉球の六段」として沖縄に残った。

それを「平調子」に改めたのが「八橋検校」ということになろう。

田辺氏は「六段を八橋の作曲とする史料は江戸時代にはない」と断定しているが、おっとどっこい、1782年刊行の『筝曲大意抄』「六段之調子、八段之調子、乱輪舌」他 組歌の目録を挙げ、「右 八橋検校作」と明記されている。

田辺氏がこの『筝曲大意抄』を知らなかったとは解せない


昨今の説では、現代伝わる『六段の調べ』は、おそらく八橋の門弟北島検校か更にその門弟の生田検校によって改変されたのではないかと言われている。

 


「いわき」と「松代」の意外な接点

2021-07-12 20:08:00 | 筝尺八演奏家

『八橋検校十三の謎』(釣谷真弓著) 2,100円

八橋流は、磐城平藩3代目藩主、内藤風虎(当時は若殿)の弟「遠山政亮」と真田家の婚姻を きっかけに、松代藩へ伝えられた。

2代目お通」と「八橋検校」の接点は、「真田信政」の娘が岩城平藩の「内藤風虎」の弟で、分家の湯長谷藩の初代藩主遠山政亮(又は頼直)」と結婚した所にあると。

2代目お通」は「真田信政」の側室で、その子「真田信就は、真田家の分家「勘解由家」の初代となっている。

つまり真田信政」の正室?が生んだ娘が、岩城に嫁いだ。嫁ぎ先は「八橋検校」のパトロンだった岩城平藩主の「内藤風虎」の弟「遠山政亮」だったという。

ややこしい。ずいぶんと よく 探り当てたものだ。

それで、「2代目お通」が京都にいた時、内藤家との縁で、八橋検校と交際があった。そしてその後、「真田信就」が信州へ入った時に持ち込まれた可能性が高いと思われます・・・というのだが、チョッと待って。

八橋検校」が、再度京に上り「八橋検校」を名乗るのは1639年〈寛永16年)以降。(それまでは「山住勾当」[上永検校」と称していた)。1639年、2代目お通は、すでに52歳。

真田信就」が松代に転封となるのは1622年。この時点では「八橋検校」は「山住勾当、上永検校と名乗っていた。その上永検校が京都に上り「八橋検校」と名乗るのは17年後の1639年(寛永16年)であるから、真田信就が松代に転封となって八橋流を松代に伝えた」とするのは年号が合わない。
この説は、松代の観光案内でもそのように書かれているが、誤りである。


7/8 長岡城陥落の日

2021-07-11 13:26:00 | 虚無僧日記

慶応4年=明治元年(1868) 5月19日(=新暦の7月8日) 北越戦争で長岡が陥落した日

奥羽越列藩同盟に加盟した長岡藩は、当初は新政府側に恭順の姿勢を見せ、戦争回避をを望んだが、5月2日(6月21日)の小千谷会談新政府側の軍監岩村精一郎に拒絶されやむを得ず抗戦することに。

長岡藩は桑名、会津の応援を得て、長岡の南方に位置する榎峠に陣取った新政府軍を包囲攻撃して敗走させた。戦況は一進一退膠着状態だったが、海道軍軍監・三好軍太が薩摩・長州・高田・加賀など諸藩部隊2000名を率いて、濃霧に乗じて信濃川を渡り長岡城攻めを敢行した。

摂田屋の本営に居た河井継之助は急ぎ長岡城に急行。城の外堀にかかる内川橋付近で激しく応戦したが、河井は応戦中に左肩をやられた。

長岡城は攻略されやすい平城であり、藩の精鋭部隊は榎峠方面を守備していて、城の守備兵はわずかで、あとは15歳以下の少年と50歳以上の老人だけという状況。仕方なく、河井は藩主・牧野忠訓と隠居の忠恭を城から脱出させ、本丸に火を放って、自らは栃尾に退却した。

河井継之助は担架に乗せられて会津を目指して落ち伸びる途中8月16日に塩沢村で没した。

 


広島藩士の農民虐殺

2021-07-10 10:45:08 | 会津藩のこと

福島県白河市の萬持寺に広島(浅野家、四十二万六千石)藩士加藤善三郎の墓がある。明治元年(1868)11月4日、享年25歳。11月だから戦争終結後の事である。なぜ?

 

広島藩は慶応4年正月、鳥羽伏見の時「この戦は長州と会津の私闘である」と云って手出しをしなかった。それで薩長から嘲られたため、汚名挽回と、有志が自費で奥羽戦争に参加した。その大半が農民だったが、彼らの意気込みは強かったという。

さて、日光(栃木県)口から会津西街道を会津へ目指したその途中でのこと。栃木県藤原町から福島県田島町へ入る山王峠の直前で、会津藩がしかけた地雷火が爆発した。宇都宮藩兵は「幸いに死傷なくホッとした」のに、広島藩兵が「土民たちのだれもこのことを告げなかったと怒り出し、地元民の一人を斬り殺した。

しかし、芸藩の神機隊は浜通り相馬から浪江を攻め仙台に向かったとされるから、日光口の事件は本当に芸藩だったのか疑問。

仙台に向かった神機隊は勇猛果敢真っ先駆けて突進し、連戦連勝の働きを挙げ、仙台にはいった時は、まともに歩けるのは100名たらずという状況だった。9月22日会津が降伏すると、10月1日各藩に帰国命令が出た。芸藩の神機隊が帰国の途についたのは10月の末。

帰途、奥州街道矢吹宿(西白河郡矢吹町)で芸藩の加藤善三郎が農民を斬り殺した。

万持寺の説明看板には、「加藤は、農民を脱走兵と誤認して切り殺し、長州藩に捕らえられた」というもの。広島藩では「戦死扱い」になっている。

 

ところが真相は、

加藤は、茶店で休んでいた農民を見つけて自分の荷物を白河まで運ぶよう命じた。そこにいたのは、石川郡玉川村の農民真弓作左衛門。彼は長州の軍夫として従軍していたが、役目を終えて村に帰る途中だった。作左衛門は加藤善三郎の命令がひどく威圧的で不遜な態度だったので、善三郎の要求を断り、歩きだした。すると加藤が腹を立て「武士の命に背くか」と言って追いかけて後ろから斬り殺したというもの。

真弓作左衛門長州の軍夫だった。それで加藤善三郎は長州兵に捕らえられ、そして処刑されたもよう。

会津ではさんざん暴行略奪を働いた長州が軍律厳しく加藤を罰したというのは変だと思ったが、身内の軍夫を殺されたとなっては、芸藩の加藤に切腹を命じたのも理解できる。

 


旧主の帰城に関する農民の請願書

2021-07-09 22:53:19 | 「八重の桜」

会津世直し一揆は、明治元年10月3日1868年11月16日)から同年12月1日1869年1月13日)に旧会津藩領内で発生した世直し一揆ヤーヤー一揆とも。

会津藩降伏のわずか10日後の10月3日に会津若松から遠い大沼郡でまず一揆が勃発し、以後、領内各地に波及していった。このことから、「領民は松平容保の圧政に苦しんでいたので、その反発で起きた」などと論じられているが、これも偏向史観で書かれたもの。

これも後世の作。想像で描いているにすぎない。

 

そもそも、口火となった事件は、原本を見ると「二十人の農民が小荒井村の庄屋宅に陳情に押しかけた」だけで、会津藩の元役人の説得で退去している。それが「二十」の「十」の字に「ノ」を付け加えて「二千人が押しかけて庄屋宅を焼き討ちした」ことになった。二千人が押しかけたとなるとすごい暴動だが、二十人では大した問題ではない。打ち壊されたという庄屋の名前は私は知らない。こうした作為的な話は許せない。

長州や薩摩は農民も一緒になって戦ったのに、会津藩では領民はソッポを向いた」というのも誤り。会津藩でも2000人の農民が戦争に加担している。もっとも「農民でも戦いに加われば士分に取り立てる、100石取りにする」というおいしい餌に飛びついたのだが。

逆に、西軍の侵攻に農民は積極的に歓迎し協力したというのも、西軍は「協力すれば年貢を半分免除する」と約束したからである。それは何人かの庄屋の証言にある。

 和知菊之助(上羽太=現在の西郷村上羽太地区の庄屋)

 石井?(下羽太村=現在の西郷村下羽太の庄屋)

 内山忠之右衛門(庄屋)(黒川=現在の西郷村小田倉黒川の庄屋)
 
 

薩摩ではそもそも「半士半農」の士族が多く、彼ら下層侍が倒幕に立ち上がった。長州も「奇兵隊」は大部分農民や下層藩士だった。彼らは明治になって職を解かれ、結局士族にはなれず、農民一揆や萩の乱を起こし、ほとんどが殺されてしまった。

会津の農民は重税にあえぎ、藩主「容保」を恨んでいたというような論調が一人歩きしている中、全く逆の史料を見つけた。

会津史談会誌』第21号(昭和15年9月)
旧藩公(容保)の御帰城に関する領内民衆の請願書

明治2年12月。「容保」公は東京で謹慎。実子「慶三郎(容大)」に「斗南三万石」の仕置きが下された後のこと。

東谷地村、上西蓮村、赤崎村、下谷地村、中目村」の百姓惣領代 5人と 若松町人惣代 4人 連名で、民政局や太政官宛に出されたもの。

「恐れ乍ら書付をもって嘆願奉り候」で始まり、会津が開城し、容保公父子はじめ家臣がそれぞれ預けられ、謹慎させられたことは、下賎の身には弁(わきま)え難いことですが、一途の直心より日夜寝食を断ち愁眉を相悩ましおる民、たって
愁訴懇願奉るべき人数を押し止め、私共申し合わせ・・・・・

そして「御旧主様より蒙った御仁政、御厚鴻恩」として34項目も挙げている。

第1項が「九十歳以上の老人へ御扶持米下され置き候事」
第2項は「孝子、義僕、節婦の賞賛」
第3項は「七十歳以上の者への饗応」
第4項は「八十歳以上の者への歩役御用免除」

そして「子供が三人以上いる家庭への扶助」「病気の者への手当て」「窮民への臨時手当て」「独居老人への扶助」「雨が降らず、また日照りが続けば、神社での祈祷」「身弱、障害者には賦役、ご用免除」「火事で被災したものには過分の手当てと貸付金」と、細事にわたり34項目も挙げている。

そう会津は日本で最初に“社会福祉政策”に取り組んだのです。

明治15年(1882年)県令として赴任した三島通庸は、赤子から老人まで情け容赦なく道路建設に駆り出した。労働に加われない者には 代わりに金品を納めさせた。

明治になって、日清、日露戦争で日本政府は莫大な借款を抱え、農民はますます疲弊し、田畑や娘を売る羽目になる。

明治新政府にくらべれば、藩政時代の方がはるかに良かったのでした。