現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

天皇は何ゆえ天皇なのか

2021-07-22 19:06:54 | 社会問題

水戸の黄門様こと水戸光圀による『大日本史』編纂で、「南朝こそ正統」という思想が広まり、吉田松陰らが「南朝の子孫を天皇に立てるべし」と考えるに至った。

そこで「南朝の子孫」と称する相撲取りの「大室寅吉白羽の矢が当たって、明治天皇として即位された。
「南朝の子孫」というのは かなり怪しい

明治になって「南朝こそ正統」という論が、沈静化してしまったのは、「南朝の子孫と称する大室寅吉を天皇にしたてあげ、彼らの目的は達成したからである。

さてさてそこで思う。天皇は、その時々の権力者によって担ぎ出され利用される「玉」でしかない

このたびのオリンピックでも、天皇の役割は、各国から来日した国家元首とのご対面。


明治天皇は相撲力士だった?

2021-07-22 18:55:56 | 社会問題

山岡鉄舟が、明治天皇の侍従を務めていた時のこと。

ある日、天皇が酒に酔って「山岡、相撲を一番来い!」と、いきなり山岡に組み付き、押し倒そうとした。その時 山岡はビクともせず。怒った天皇は、山岡の目を突いてきた。すると山岡は体をかわしたので、天皇はドッと倒れてしまった。

他の侍従たちが 山岡に「陛下が君を倒そうとなされた時に、君が倒れなかったのはよろしくない」となじると、山岡は憤然として、「そもそも大君が相撲ということは、この上ない不倫なことである。だから私は陛下が相撲をした事実を否定しなくてはならない。だから倒れるわけにはいかなかった」と突っぱねた。

つまり、山岡は「天皇が相撲などという“不倫”な事をしてはいけない」と諌めているのだ。明治まで、相撲は被差別集団だった。それは「猿回し」などと同様、見世物だったからだ。

ところで、明治天皇が相撲好きだったことから「明治天皇は、孝明天皇の子ではない。長州に隠れ住んだ南朝の末裔、大室寅之祐で、禁門の変で都落ちしてきた三条実美ら七卿との間に、大室寅之祐を天皇に擁立すべく密約が交わされていた。孝明天皇とその皇子を暗殺して、寅之祐を次天皇にする」という説が生じている。

「その大室寅之祐なる人物は、長州の不良力士だっただから明治天皇は体格もがっしりしており、誰かれとなく相撲を挑む、無類の相撲好きだった」と。

そもそも禁門(蛤御門)の変では、長州の砲撃に腰を抜かして泣いていた皇子が、その4年後の明治元年、わずか14歳というのに、むくつけきどす黒い髭もじゃの顔で、馬に乗って登場してくる。いったいいつ、乗馬を習ったのか。

「南朝こそ正当」と称して左幕勤皇を説いてきた薩長が明治になって、その主張を取り下げたのは、南朝系の大室寅之祐にすりかえたからだというのだ。

それで、この事実を知っている「坂本龍馬」や「西郷隆盛」は抹殺された。

大室寅之助の出身地が山口県の田布施。岸、佐藤、安倍の出身地である。

「大室寅之祐」の画像検索結果

似ている。右は即位の時の明治天皇。とても14歳には見えない。孝明帝のような品はない。

「大室寅之祐」の画像検索結果

写真の中央に座している人が大室寅之助

中央に座しているということは、後の明治天皇としてかつぎあげられる人物だったからという。

明治維新の志士は、結局天皇を暗殺して政治を私物化したテロ集団だった。

福沢諭吉も言う「立国は私なり。公に非ざるなり」」と。国のため、国民の為などという大義ではなく私利私欲によって国が建てられると。

 


闇に葬られた「東電OL殺人事件」

2021-07-22 18:33:29 | 社会問題

「東電OL殺害事件」 

闇に葬られた「東電OL殺人事件」の真相。

彼女の在職時の直属の上司はなんと「勝俣恒久」。

原発事故当事の東電の会長であるジヤジャジャ~ン。                                    

彼女は慶応女子高から慶大経済学部卒の才女。父親東大を出て東電の工務部副部長として将来の役員候補とされてたが、 原発の危険性を指摘したため、格させられ、 彼女が慶応大学2年のとき、52歳でガンで亡くなった。

彼女は 亡き父親の遺志を継いで東電にはいり、企画部経済調査室の副長として、国家経済と電力需要の調査を担当し、その報告書は高い評価を得ていた。しかしその中で “原発の危険性を指摘するレポート” もあった。

当時の上司の勝俣恒久から圧力?

それが、当事の直属の上司「勝俣恒久」、同じく企画部管理課長だった藤原万喜夫」(原発事故時副社長)の不興をかうこととなった。

彼女は、周囲からシカトされ、拒食症に陥り、ストレスから逃れるためにクラホステスのアルバイトを始め、渋谷界隈で立ちんぼをするようになった。

 

ヤクザに殺された?

彼女が渋谷円山町界隈で売春をしていたことは、社内公然の秘密となっていた。皆知っていたが、無視しいた。直属の上司の「勝俣恒久」も当然知っいた。

それは彼女を陥れる罠だったのかも。 

ここから先は、推理の世界。

 

彼女は、渋谷円山町界隈を仕切っている ヤクザからメカジメ料を要求されたがそれを断っている。

そのヤクザの事務所は巣鴨にあった。彼女の定期券は 巣鴨の民家の庭先で発見されている。ということは、彼女は、巣鴨のヤクザの事務所で殺され渋谷円山町の「喜寿荘」に運ばれ遺棄されたのだ。

 ネパール人のマイナリは冤罪?

逮捕されたネパール人の「マイナリ」さんは、後に冤罪と判り釈放されたが、彼もヤクザに貶められた被害者。彼には彼女を殺す動機など全く無いのに検察も裁判官も一方的に犯人と断定した。

これも背後に東電とヤクザの圧力があったからだろうか。

「勝俣恒久が、ヤクザにWYさん殺しを依頼した」とは書けないが、WYさんを死に追いやった背景は十分にあった。そして彼女の死について、東電の対応はなにか不自然だった。

私も保険会社の広報部にいたが、このような事件は、警察やマスコミに陳情して 表に出ないようにしてもらうのも仕事だった。東電だったら、もみ消すことぐらいできたはずである。ところが、東電は殊更に件をマスコミに拡散させた。このとが腑に落ちない。

W.Yさんを始末した上司の勝俣部長は、異例の出世

 

首尾よくWさんを始末した上司の「勝俣恒久」は、事件の翌年めでたく「常務取締役」に出世。 後に会長になった。

企画部管理課長だった「藤原万喜夫」原発事故当時副社長に。

そして、あの原発事故は起きた。これはWさん父娘の怨念、復讐だ!。


「東電OL殺害事件」の顛末

2021-07-22 18:32:52 | 社会問題

一昨日、ブログのアクセスが2845件あり、gooブログ300万件中なんと 39位に。過去最高!

私のブログで一番人気の記事は、2018年に書いた記事。

毎日、数十人の方が読まれているようですので、再度掲載します。

 

1997年(平成9年)に起きた「東電OL殺害事件」

慶応卒で東電に入社、総合職で未婚のエリート社員。それが夜は渋谷のうら寂びれた町で売春。拒食症でガリガリ、女としての魅力に欠けるが、それでも買う男がいる。常連客に大学教授も。そして貧しいネパール人には 2,000円でも・・。お金には全く不自由していなかったのに何故? しかも、その事を東電の同僚も母親も知っていたという。

父親は東大卒で、東電社員。母親は日本女子大。
(私の父も慶応卒で 東電社員。母は日本女子大でした)

OLの名前は 渡辺泰子。(私の知人と同姓同名、妻の妹と同じ名前なので忘れない)

慶応の女子高から経済学部へ。(私の妹も慶応女子高から)

私と 大なり小なり 共通点があり、今でも多大な関心があります。

逮捕されたのはネパール人のゴビンダ・マイナリさん。

(私の東京の家では、ネパール人がホームステイで来ていました)

ですから、マイナリさんについても、犯人とするには疑わしい点があり、同情的でした。

ゴビンダ・プラサド・マイナリ被告の他に、容疑者として暴力団関係のA氏がマークされていた。

マイナリ氏は一審では「無罪」。不法滞在でネパールに強制退去させられるはずだった。それを無理やり拘束して高裁で「無期懲役」である。                               

マイナリ被告は、すぐ隣のアパートで、他のネパール人たちと同居していた。
その同居人は、事件当日のマイナリ被告のアリバイを証言していたのだが、取調べで検察官の暴行を受け、まず「不法滞在」で脅かされ、次に仕事の斡旋などの
利益供与で、アリバイ証言を隠蔽させられたという。

まさに、マイナリ被告を犯人に仕立てるための工作が検察によって行われていたのだ。

事件から15年も経って新証拠が出され「再審決定」、「刑の執行停止」で釈放という結果に。全く日本の警察、検察、司法の“いい加減さ”を世界に晒したようなものです。

ところが、それでは 真犯人は いったい誰?。事件は振り出しにもどったのに、真犯人探しの捜査が全く行われていないことが、謎なのであります。

まさに闇に消された事件。風化させないためにも、再掲させていただきます。

 

「東電OL殺人事件」関連の文献

  • 高橋龍太郎『あなたの心が壊れるとき』(1997年7月、扶桑社
  • 酒井あゆみ『禁断の25時』(1997年10月、ザ・マサダ)
    酒井は1992年ごろに被害者女性と同じホテトルに在籍していた人物。
  • 酒井あゆみ『眠らない女 — 昼はふつうの社会人、夜になると風俗嬢』(1998年7月、幻冬舎。のちにアウトロー文庫より文庫化)
  • 秋川義男『ワニの穴10 ドキュメント 消えた殺人者たち』所収の「渋谷・東電OL殺人事件、終わらない暗闇」(1999年2月、ワニマガジン社
  • 佐野眞一『東電OL殺人事件』(2000年、新潮社
  • 朝倉喬司『誰が私を殺したの—三大未解決殺人事件の迷宮』(2001年、恒文社)
    2007年に『女性未解決事件ファイル』に改題され、新風舎文庫より文庫化。
  • 無実のゴビンダさんを支える会『神様、わたしやっていない!—ゴビンダさん冤罪事件』(2001年12月、現代人文社)
  • 佐野眞一『東電OL症候群』(2003年、新潮社)
  • 押田茂実『死人に口あり—現場の法医学・法医解剖室より』(2004年11月、実業之日本社
  • 真樹龍彦『「東電OL殺人事件」行—迷宮のヒロイン』(2005年8月、沖積舎
  • 永島雪夫『東電OL強盗殺人事件 午前0時の逃亡者』(2008年4月、リアン合同会社)
  • 読売新聞社会部『東電OL事件—DNAが暴いた闇』(2012年11月、中央公論新社
  • ゴビンダ・プラサド・マイナリ『ナラク—ゴビンダ・マイナリ獄中日記』(2013年7月、希の樹出版)
    ナラクはネパール語で「地獄」を意味する。日本語の「奈落」同様、サンスクリット語に語源を持つ。

 


あなたが死ぬ確率

2021-07-22 18:29:59 | 社会問題

「死ぬ確率」

日本人の年間死者数は136万人。その内

ガンで死ぬ人 38万人 28%

心疾患    20万人 15%

老 衰    11万人  8%

自 殺     2万人    1.5%

転倒転落死   1万人  0.7%

 

交通事故死          3,500人  0.26%

インフルエンザ   3,000人  0.24%

 

新型コロナウイルスが爆発的に広まって、2万人が亡くなったとしても、自殺者と同じ1.5%。

100年前の1920年のスペイン風邪では、35万人が死んだが、歴史の教科書にも載らない。現代のガンの死亡者と同じ。

太平洋戦争では300万人が亡くなった。それでも日本は消滅しなかった。

人間はたくましい。滅びない。恐ろしいのは、戦争もそうだが、マスコミに踊らされ、やたら恐怖を煽られ、経済活動を封鎖するような愚かな人間の施策だ。

 


100年ごとに〇〇20年は流行り病の年、

2021-07-20 22:36:10 | 社会問題

人類はこれまでに何度も感染症のパンデミックを経験している。古くは2400年前にペロポネソス戦争中のアテネで謎の疫病(天然痘説が有力らしい)が大流行し、多くの犠牲者が出た。その後も発疹チフスやペストなどの流行を経て、100年前にはインフルエンザのパンデミックを経験しています。

100年ごとにパンデミックとは、偶然ではあるまい。神の意志か。

100年前の1920年の夏季オリンピックはベルギーのアントワープで開催された。1918年から1920年にかけてスペイン風邪が猛威を振るっていた。当時の世界人口の3割に当たる5億人が感染。そのうち2000万人~4500万人が死亡した。日本でも35~40万人が死亡した。それにもかかわらず、オリンピックは開催された。
そして、人類は消滅しなかった。たくましく増加の一途どころか人口大爆発。その方がウイルス患者の増加より大問題を引き起こしている。地球環境の破壊による人類滅亡の危機。
 
今、新型コロナウイルスの死者は世界で410万人。100年前の10分の1。世界中が抑え込みに必死になっているからだ。普通のインフルエンザや肺炎より死者の数ははるかに少ない。
 
このままでは世界経済も社会も崩壊する。ウイルスの死者より何倍もの餓死者、自殺者が出る!
 
 
 
 

婦女子の言は一切聞くべからず

2021-07-19 20:08:19 | 会津藩のこと

会津藩祖保科正之が定めた『家訓』15箇条

その第一条は『大君の儀一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処するべからず。若し二心を懐かば、すなわち我が子孫にあらず。面々決して従うべからず』

大君すなわち徳川将軍家にはひたすら忠勤に励み、決して背いてはならないというもの。これが幕末

他国の例にならって決めるべからず。徳川宗家に背く者は我が子孫に非ず。家臣の面々はそのような藩主には従」というもの。

 

その中に「婦女子の言は一切聞くべからず」の

一条を定めた。それは正之の室「聖光院お万」の所業に懲りたからだ。

「聖光院お万」は京都上賀茂神社の神官の娘で、東福門院和子の侍女
だった。東福門院和子は、徳川秀忠の五女。後水尾天皇の后として入内
していた。尚、保科正之も秀忠の子であり、和子の兄となる。

そんな関係からか、正之の室となったお万は、なにかと藩政に口出しを
するようになった。

さらに、とんでもない事件が起きる。お万の娘「媛姫」は上杉 30万石に
嫁いでいたが、側室の生んだ「松姫」が加賀100万石前田家に嫁ぐことと
なり、お万は、嫉妬して「松姫」を毒殺しようとしたのだ。


「松姫」が婚礼の挨拶に訪れた際、「媛姫」も同席して食事となった。
「松姫」の膳に毒を盛ったのだが、松姫の侍女が機転をきかせて、
「媛姫様の方が姉君ですので、どうぞお先に」と、毒の入った膳を「媛姫」
の方に回した。そのため、お万の娘「媛姫」の方が死んでしまったのだ。

この事件で、家老の成瀬が閉門幽閉となったが、「お万」はお咎めなし。
その代わり、正之は、女の業の恐ろしさに「婦女子の言は一切聞くべからず」
の家訓を遺したのだったが・・・・。

正之が亡くなり、お万の子「正経」が二代藩主となると、お万は、藩主の
生母として、ますます藩政に口出しするようになった。家老たちは正之公の
『遺訓』を盾にとって、必死に抵抗したが、お万は、甥の藤木弘隆を京都から
呼び寄せて家老に取立て、その妹を筆頭家老 保科民部正興に嫁がせて、藩政を
牛耳ろうとした。

ところが、藩主正経は病弱で、弟の正容に三代目を譲って早世してしまう。
三代目の藩主となった「正容」は側室の子だった。そうなると「お万」の
権勢は地に落ち、お万は江戸の上大崎に閑居、甥の藤木弘隆はお役御免と
なって京都に帰る途中亡くなり、保科民部は水沢村に幽閉となった。

さて、元禄3年、お万は71歳で淋しく生涯を閉じた。葬儀に藩主「正容」が
参列し、帰ろうとしたところ、「棺の中から青白い手が伸びて、正容の袴の
裾を掴み、棺に引きずり込もうとした」という怪談話まで伝えられている。

これって、まさに『鳥刺し』のラストシーンではないか。

と ここまで書いて、「投稿」をクリックしたら、突然画面が真っ白に
なって消えてしまった。一瞬からだが凍りつき、頭がクラクラしてきた。
再度 初めから書き直した次第。女の恨みはおそろしや、ゾォー。





怖い女の嫉妬

2021-07-19 20:07:25 | 会津藩のこと

会津藩祖保科正之が「婦女子の言は一切聞くべからず」と
家訓に遺したにもかかわらず、3代藩主正容も、側室に
苦しめられた。

正容の正室は輿入れ後2年あまりで亡くなっている。
それで、正容は6人の側室を召抱え、9男4女をもうけた。

この正容の6人の側室のうち4人が、男子を産んだ後、
家臣に下げ渡されるという、特異な事件があった。

殿様が参勤交代で江戸詰めの時、「お祐」と「おもん」の
二人の側室がおり、相手が懐妊すると、呪詛するなど、
火花を散らしていた。先に懐妊したのは「おもん」だが、
あまりの気性の激しさに、殿の勘気を被り、「おもん」は
会津に移され、御使番神尾家に下賜された。しかし
「おもん」は逆上して、夫に連れ添おうとはせず、扱いに
困った神尾家では 17年も「おもん」を座敷に押し込める
こととなった。

「おもん」は自分を下賜させた側用人の杉本源五右衛門と
牧原只衛門を呪詛し、両家とも嫡子が早世し断絶した。
この話は柴田錬三郎の『妬心』と、柴桂子の『会津藩の
女たち』に詳しく書かれている。

側室「お吉」は第5子正房を生んで、家臣 堀半右衛門に下賜された。
「おれつ」は第6子万吉を生んで、篠沢儀右衛門に。
「お佐久」は第8子容章を生んだ後、下賜される前に自ら進んで
宿下がりし、兄の下に身を寄せた。

「お佐久」が容章を産む前、「お市」が第7子「容貞」を産み、
物頭笹原家に下賜されていた。

当時は子供の成育はなかなか難しかった。次々に早世し、順番で
「お市」の産んだ容貞が、4代目藩主となった。そこでまた悲劇が
起きる。「藩主の生母が家臣の妻でいるわけにはいかない」と、
「お市」が嫁いだ 笹原家は お家断絶、離縁させられるのだ。

さて、「下賜妻」とは、殿様の身勝手と思い込んでいたが、柴桂子
女史の『会津藩の女たち』を読むと、事の真相が明らかにされている。

3代藩主「正容」の最初の側室「お祐」の嫉妬だ。
側室のうち「お祐」だけが 江戸の下屋敷におり、他の側室は、皆
会津にいる。殿様が会津に帰国した時だけの側室だった。そして、
男児を出産すると「お祐」の指図で、子供を取り上げられ、家臣に
下げ渡されていたのだ。

結果的に「お祐」の生んだ子は二人とも早世してしまって「お祐」は
世継ぎの母親にはなれなかったが、側室を家臣に下賜することで、
側室が生んだ子を引き取り、正容の正室の如くふるまっていたのだ。
おそるべし。

「お佐久」の生んだ末子容章は、分家として76歳まで生き、その孫
容住 が会津6代目藩主となっている。


「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。

一休と虚無僧」で別にブログを開いています。

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『鳥刺し』 と 保科民部

2021-07-19 20:06:25 | 会津藩のこと

藤沢周平原作の『必死剣鳥刺し』で、「保科十内」と
「津田民部」という名前が登場する。会津藩家老の
「保科民部」の姓名が分けて使われている。

偶然か、あるいは藤沢周平は意図的に この名前を使ったか。

保科正之が会津藩祖となる前、山形の藩主だった時のこと。
隣の白岩領(現寒河江市)で農民一揆が起きる。映画『鳥刺し』
では、別家の帯屋隼人正が農民に理解を示し一揆を鎮めるが、
結果的に首謀者は打ち首、獄門となる。

それと似たような事件だ。  
白岩領は酒井忠重の所領で、代官が納めていた。そこで
一揆が起き、代官は手に負えず、山形に助けを求めてきた。
それで、城代家老保科民部が、白岩に赴き、百姓達に
「お前達の言う所は一々もっともである。山形へ来て、
保科正之に直訴したら良いだろう」と勧めた。

百姓たちは大いに喜び、代表35名が山形へ出向いたところ、
全員が牢に入れられた。保科正之は老中酒井忠勝へ書状を
送ったが返事がない。再三督促したが、裁きが無かったので、
正之の命で、白岩の百姓ら35人は、磔にされてしまった。

過酷な処置だが、島原の乱直後の不穏な時代であり、幕府の
威光を示すための英断であったとする向きもある。

さて、保科正之はその後、会津23万石に移封する。その
正之の室お万の方が、政治に口出しし、専横を極めた。
正之は、女の恐ろしさに懲りて、「婦女子の言は一切聞く
べからず」と遺訓を残している。

(『鳥刺し』でも、藩主右京太夫は側室・連子に入れあげ、                                         領内では百姓一揆がが勃発するという点で似ている)。

そして、3代藩主正容の時、保科民部の孫、民部正興が
「知行を召上げられ、小川庄水沢へ配流」となった。
民部はお万の姪を妻に迎えていたからだったとも。

この時、私の先祖も連座してお取り潰しになるところだったが
幸い取り潰しは免れた。その真相を探って小説にしたい。


再び、グレゴリオ聖歌「クレド」と「六段」

2021-07-19 09:19:31 | 筝尺八演奏家

グレゴリオ聖歌の『クレド』と『六段』が「全く同じ」とい皆川達夫氏の説に、私は「全く納得できない」。

You Tubeで「クレド」を検索してみた。いくつか聴くことができる。
楽譜もアップされているが、五線譜ではない「四線譜」だ。

http://www.youtube.com/watch?v=7YYK1GfsnWY&feature=fvwrel

http://www.youtube.com/watch?v=bR9NF905nJk&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=Yja0Tp_TCPA&feature=related

最初のメロデイは「ラソファ ミレドレ」。これに「六段」の「ラ-ソミミ-- ミレミ-レ シ♭ レミ」が合うとは、理解できない。 

「長さがピッタリ合う」と言うが、そもそも1600年頃の『六段』が今と同じとはいえない。『六段』の原型かと言われる琉球の『六段』は、雅楽と同じ「呂旋法」(ソラシドレミファ)であるし、八橋流の『六段』は、全部で「9段」に分かれているので、長さも違うのだ。

私としては、近世の「平調子」が、グレゴリオ聖歌から移入されたということは判る。では「平調子」とは なんぞや?

お箏(こと)の調弦の一つで「ミ ファ ラ シ ド」の「5音階」でとる。これは「都節」などとも言われ、「詩吟」の音階と同じ。

「詩吟」は「ミファラシド」の5音だけで吟じるが、では筝曲もそうかというと、違う。『六段』では、絃を左手で押して、半音、さらに1音上げた音が出てくる。結局「ミファソラシドレ」の7音階なのだ。さらに「ファ♯」も使われる。

これが、邦楽では革命的だった。それが「八橋検校」の創案とされてきたが、「いや、西洋音楽からの影響だった」というのなら 理解できる。

だが この説も、1614年生まれの「八橋」が成人した時にはすでに キリシタン弾圧の後である。隠れキリシタンが地下に潜伏して 聖歌を歌い継いでいたかもしれないが、それを聴くことができたかは 疑問なのである。