丑の刻参りは、
丑の刻(午前1時から午前3時ごろ)に
神社の御神木に憎い相手に見立てた藁人形に
五寸釘を打ち込むと憎む相手が死んでしまうという
日本古来の呪術です。
呪術を行う時の装いは、白装束を纏い
頭にかぶった鉄輪に火を灯した蝋燭を立てた姿で行い、
7日目で満願となって呪いの効力が発せられますが
その行為を誰かに見られると効力が失われたり
自分に跳ね返ってくると信じられていました。
この呪術を行う人の目的は、
呪う相手を呪い殺すことですが、(怖~。)
私は、この呪術を編み出した創始者は、
真の意味を隠していると思っています。
強烈な負の衝動に駆られるままに行動に移すと
社会的に許されない結果となりかねませんし、
行動を抑制出来たとしても
強烈な負の気持ちを心の中に長く抱え持つと
本人の精神、身体の健康に大きな害を及ぼすことになります。
特殊で奇異な行いを7日間させることで
自分の悪鬼な気持ちの醜さに気付かせたり、
藁人形に釘を打ち付けることで
噴出した邪悪な心を昇華(カタルシス)させることを
主の目的にして考え出されたように思います。
そして、その行為をする姿を誰かに見られると
効力が失われたり、自分に跳ね返ると言うのも
そのような本人の邪悪な気持ちを振り乱している姿を
他人に見られたり知られたりすると
コミュニティの中で恐れられ気味悪がれて
浮いてしまうのを防止する
意味合いがあったのではないかと思うのです。
呪いの効力など実際にあるはずがありませんが、
誰かが自分を呪っていると認識することで、
自己暗示にかかり体調を悪くしたり、
稀に本当に亡くなってしまうこともあったようです。
呪術も気功も催眠も
相手がそれを受け取ってくれて
初めて何らかの効力が発揮します。
そして、
それは普段のコミュニケーションも同じです。
誰かから自分に向けられた悪口という呪術のようなものを
自分が受け取らなければ全く効力が発揮されることもなく、
自分の尊厳がズタズタにされることもありません。
自分にとって不必要でただの穢れた音でしかありません。
そして、受け取らなければ
悪口を発する相手自身に跳ね返ることも珍しくありません。
誰かから向けられる自分への悪口や悪い評価を
酷く気にしたり恐れたりしている人の場合は、
無意識のどこかのレベルで
自分に向けられる悪口や悪い評価を
まるで無条件に効力を発揮する呪術として
扱っている可能性があります。
(受け取ってしまっている。)
あるいは、
その昔に誰かの言葉や態度の影響を受けて
自分の心の中に「私は○○人間だ。」的な呪符を
すでに自分に張り付けてしまっている可能性もあります。
だから本当の私を知られた、気付かれたで
傷口をえぐられた感じになる。
何故、そう取り扱ってしまうのか
その原因について一緒に考え、
一緒に原因を取り除くことも
私達が請け負う仕事の一つです。