タイトルとカテゴリーが、違うのでは?と思われる方も多いと思う。
間違っている訳ではない。
と言うのも、この問題をよくよく考えてみると、問題の発端となったコトと閲覧規制になった理由が、大きく違っているからだ。
この出来事の発端は、松江市に住むある男性が「歴史認識を誤らせる内容なので、閲覧を止めて欲しい」というモノだった。
それが、いつのまにか「残酷な表現がされていて、児童が読むには問題がある」という理由で、閲覧禁止になってしまった。
違う言い方をするなら「論点がズレ」がどこかで生じ、「閲覧禁止」と言う要請事項だけが合致した、と言う閲覧を止めて欲しい、といった男性の意図も汲み取られていなければ、それを論議する機会も逸した出来事だと言える。
ただ、この様な出来事というのは、実はビジネスの場面では多々ある。
「結果オーライ」という言葉で、片付けられるコトが多いのだが「結果オーライ」で済めば良いが、後々問題になるコトも多く、責任のなすりつけあいが生じるケースも少なく無い。
「言った・言わない」で済むレベルならまだよいのだが、お客様を巻き込むような事態となることも多い。
では何故、この様なコトが起きるのだろう?
あくまでも想像だが、事務局担当者は「はだしのゲン」を読み進めている間に、問題の発端が「歴史認識とは違う」という点をすっかり忘れ去り、表現ばかりに目がいってしまった。
ましてこれまで見たコトが無いような衝撃的な表現がされていれば、尚のことだっただろう。
最初に、閲覧禁止を求めた男性が「歴史認識を誤らせる」と思ったのか、ヒヤリングをしていれば、もっと違う判断ができたのではないだろうか?
何故なら、「歴史認識を誤る」と言うのであれば、「どのような場面が歴史的認識を誤らせるのか?」といった、具体的な話の中から閲覧差し止めを求めた男性の意図が、分かってくるからだ。
その上で、「はだしのゲン」というマンガの意図とをすりあわせ、判断をすれば今回のような出来事は避けられたかも知れない。
「意図を知る・情報を共有する」ビジネスと言う場面だけでは無く、社会生活の中でも大切なコトだと思うのだが、見落としがちな点でもある。
特に、「ダイバーシティ化」した組織の中では、英語ができるコトよりも、重要なコトかも知れない。
一方「はだしのゲン」は、閲覧開始というコトで収まったように思えるが、閲覧の差し止めを求めた男性は、どう思っているのだろう?
そこまで、考えた論議がこれから必要になっていくと思う。