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「認める力」って、何だろう?ー池袋暴走事故に思うー

2020-10-08 18:58:10 | 徒然

昨年、池袋で起きた高齢者が運転する自家用車が暴走し、11人の方々が死傷した事故の公判が、今日はじまった。
いわゆる「池袋暴走事故」と呼ばれるものだ。
朝日新聞:無罪主張の被告、遺族「無念向き合っていない」池袋暴走

この事故の争点となるのは、おそらく事故を起こした元官僚で通産省の工業技術学院の院長を務めてた被告が、この事故をどのように受け止めているのか?という点だと思う。
そして案の定というか、当人は「自分が事故を起こした」という、認識は持っていなかったようだ。

被告人である高齢男性は、事故当初から一貫して「車が勝手に暴走した」と、主張していた。
だからこそ「自動車メーカーは、高齢者も安心して運転できる車を開発して欲しい」という趣旨のことを言うのに、抵抗がないのだと思う。
何故なら、「自分の運転で事故を起こした」という、認識がないからだ。

ただ「認識がない」のではなく、「認識能力」が無くなっているのでは?という、気がしている。
それは「どのような運転をすれば、事故につながるのか?」というドライバーとしての認知能力の低下だけではなく、あらゆる物事に対して「自分の都合の良い方向へと、認知してしまっている」という状況にあるのでは?ということだ。

高齢になった人と話しをしていて、気づくことがある。
それは「都合の悪いことに対する認知力の低さ」だ。
特に、この事故を起こした高齢者のように、社会的地位の高かった高齢者ほど「自分の都合が悪いこと」に対して、一瞬のうちに忘れてしまうのか?認識力が無くなってしまう。
そのため「都合が悪いこと」に対して認知する力(=認める力)も、無くなってしまうのだ。
このような姿を見ると「自分が既に現役を引退し、社会的地位も無くなった一人の老人である」ということを、理解できていないのでは?という気がするのだ。
「理解できていない」というよりも「理解したくない」のでは、無いだろうか?
何故なら、「過去の社会的地位=自分のアイデンティティ」だからだ。
これまでの「社会的地位を失ってしまう=社会の中での自分の存在意義を無くす」ことが、怖いのではないだろうか?

この事故で盛んに言われた「上級国民」ではない多くの高齢者は、自分が高齢者となり、子や孫、社会のサポートを受けながら生活をしている、と認識しその中でコミュニケーションを図る努力をしている(はずだ)。
菅内閣が良く口にする「自助・共助」という関係は、このような関係の中から生まれてくるはずだ。

しかし事故を起こした高齢男性は、いつまでたっても「自分は社会的地位が高く、社会もそれを認めているし、家族やご近所もそのような付き合い方をしている=だから自分は社会的価値のある偉い人物」である、という潜在的認識があったのではないだろうか?
「『社会的価値のある偉い自分』の考えに間違いはなく、それに従わない方に問題がある」という認識が「事故を起こした」という認知力(=認める力)を拒んでいるように思うのだ。
とすると「高齢になればなるほど頑固になり、人の話を聞かなくなる」という説は、的を得ていると改めて感じるのだ。

とはいうものの、この事故で2人の親子が亡くなり、9名の方が重軽傷を負っている。
それだけ社会的地位が高いのであれば、それに似合うだけの金銭的賠償をさせることが、事故を起こした高齢者にとっても良いのではないだろうか?