日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

耳障りの良い「カタカナ語」で、人を惑わすことは止めて欲しい

2021-04-29 19:59:34 | アラカルト

世間はGWということらしい。
とは言っても、昨年と同様に「ステイホーム」という名の、「自粛生活」を余儀なくされている方も、多いだろう。
この「ステイホーム」に限らず、「耳障りの良いカタカナ語」が、生活に溢れているな~と最近感じる事があった。

それは、あるラジオ番組の「相談コーナー」でのコトだった。
相談者は、現在就活中の学生さんで「キャッチコピーが上手く作れない」という、相談内容だった。
この相談を聞きながら、「今時の学生は、キャッチコピーを作らなくてはいけないのか?!」と、驚いたのだった。
「キャッチコピー」とは、10~20文字程度の言葉で、商品やサービスのアピールをするための短い文のことだ。
受け手となる人に対して、印象に残るような言葉を選び、商品やサービスの本質を伝えなくてはならない。
日ごろこのような仕事に携わっている者であっても、なかなか大変な仕事であることには変わりない。
そのような大変なことを、今時の学生さん達は就活でしなくてはならないのか?と、驚いたのだった。

ところが、よくよく聞いてみると「あなたの長所や短所を一言で言ってください」ということの様だった。
気になって、「就活・キャッチコピー」とネットで検索してみると、「自分の長所をまとめる」と「キャッチコピーのつくり方」にあった。
であれば、何故「長所を一言で言い表す」という言葉を使わなかったのだろう?

ここ10年くらいの間で、ビジネス、特にマーケティングや広告制作で使われる言葉が、一般に使われるようになってきた、ような気がしている。
その顕著な例が「セルフ・ブランディング」という言葉だろう。
しかも就職活動中の学生さんに「セルフ・ブランディング」を勧めるような、傾向があるようだ。
仕事として「ブランディング」や「ブランド管理」をしている側として、「学生にセルフ・ブランディングなど必要ない!」と、言いたくなるのだ。

そもそも「ブランディング」の意味を、学生たちは理解しているのだろうか?
マーケティングや広告の仕事をされている方ならご存じだと思うのだが、「ブランド」は、牛などの家畜に「個体識別のために焼き印する」行為からきている、と言われている。
「個体識別=区別あるいは差別化」という意味で使われるようになったのが「ブランド」であり、その「ブランド」を構築し、管理することを「ブランディング」ということになる。

言い方を変えれば、就職活動中の学生さん達は、他の学生さんと自分の違いを構築し、管理しなくてはならない、ということになる。
あくまでも、個人的意見として「存在そのものが、特別なひとり」でなのに、改めて「他者と自分を区別し、商品化する必要」があるのだろうか?という疑問と違和感がある。

それだけではなく、そのような「セルフ・ブランディング」をすることによって、「私って、○○な人なの」という、枠を自分にはめてしまい、時にはそれを言い訳として使い、新しいことに挑戦をしなくなってしまうのでは?という、気がするのだ。
社会に出れば、それまで経験をしたことが無いようなことに、挑戦しなくてはならないことが多々ある。
その意味では、常に「先入観にとらわれない自分」で、あり続けなくてはならない。
逆に言えば、社会が必要とする人財は「自分自身はもちろん、様々なモノ・コトに対して、先入観を持たず、挑戦できる人物」なのだ。

マーケティングという実学は、アメリカで生まれ・新たな考えがアメリカから発信されている。
そのため英語を和訳(あるいは意訳)しなくてはならない。
それでも難しい場合は「カタカナ」で表記されることになるし、「カタカナ表記(=カタカナ語)」のほうがニュアンスが分かりやすい場合も多々ある。
反面、やたらと「(聞き慣れない)耳障りの良いカタカナ語」で話し相手を煙に巻くような、使い方をする人も少なくない。
しかし「耳障りの良いカタカナ語」を多用する人に限って、その本質的意味を十分理解してない場合が多い。
そうすると「言葉の齟齬」が生まれ、全く違う理解をしてしまう場合も起きてしまう。
であれば、誰もが理解しやすい「日本語」を使う方が、コミュニケーションという意味で効果的なはずだ。

「耳障りの良いカタカナ語」を多用するのは、様々な場面で良いとは言えないのでは?
特に就職活動をしている人たちに対して、ビジネス用語やマーケティング用語を基にした「カタカナ語」は、不要だと思うし、本質的な意味を理解せず(あるいは「相手に理解させず」)、「耳障りの良いカタカナ語」を多用することは、とても危険な気がするのだ。