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「オリンピック」の終わりの始まり

2021-05-27 20:31:33 | アラカルト

時事通信社が、米国の権威ある医学雑誌に「IOCの安全対策」に欠陥がある、というレポートが掲載されている、と報じている。
時事通信:IOCの安全対策に欠陥「五輪中止も選択肢」ー米医学誌

これまでIOCのバッハ会長のコメントなどが、日本国内で「炎上」状態になることはあった。
特にこれまで通りの強気の「開催」発言は、「(日本に)多少の犠牲を冒してでも、五輪は開催する」という趣旨に対して、日本国内では「炎上」状態になっていた。

しかし肝心のバッハ氏にとって、日本での「炎上騒ぎ」等は「対岸の火事」のようなレベルで、全く意に介さない傲慢ともいえるような態度ばかりが、目立っていたような気がしている。
そしてバッハ氏と同様の発言が、調整委員会のコーツ氏からもあり、日本国内でのIOCに対する反感は「炎上」というレベルではなく、「市民ボイコット」レベルにまで達しているように感じている。

にもかかわらず、IOCの主要役員と呼べる人達が「開催」と言い続けることができるのは、おそらく危機感が無く、自分たちが常に「安全な場所」にいるからだろう。
「安全な場所」というのは、少なくとも「3密」になるような環境で生活をする必要もなく、経済的不安もない、今日の一部新聞報道にあるような「オリンピック貴族」だからだ。

過去、IOCの会長として手腕を振るり、現在の「オリンピックの理念」とも呼べる「スポーツと文化の融合」等の名言を言った、クーベルタン男爵のような「高潔な貴族」ではなくなり、「金儲けの特権意識」しか持たず、その特権を最大限自分の為に利用する、という「貴族」に成り下がってしまった、ということだろう。
もはやIOCの主要役員にとって、「オリンピックは、自分のステータスの向上、オリンピック・ビジネスによる金儲け」の道具でしかないのだ。

おそらく1970年代のオリンピックは、クーベルタン男爵の唱えた
「オリンピズムは肉体と意志と精神のすべての資質を高め、バランスよく結合させる生き方の哲学である。オリンピズムはスポーツを文化、教育と融合させ、生き方の創造を探求するものである。その生き方は努力する喜び、良い模範であることの教育的価値、社会的な責任、さらに普遍的で根本的な倫理規範の尊重を基盤とする」
というオリンピックの理念は、生きていたと思う。

それが1980年代、特に1984年のロサンゼルス大会で「オリンピック=お金が儲かる」という、ビジネスモデルが出来上がったことで、IOCの主要役員たちはその利益を享受し続けるという「甘い汁」の味を覚えてしまったのだろう。
だからと言って1984年の商業化したオリンピックが、悪い訳ではなかったはずだ。
何故なら、「開催都市に利益を生む」という、「オリンピック・ビジネス・モデル」ができたことで、開催に手を挙げる都市が増えたからだ。
日本では「オリンピック開催=国威発揚」のようなイメージで、とらえられ続けてきたが、現実には「儲かるオリンピック」を期待することで、都市整備などを積極的に進める事ができた、という事実がある。

しかし、今回のIOCの主要役員の現実を無視したような発言の数々は、IOCという組織の本質を見せつけただけではなく、欧州の似非貴族で構成される事で、IOCそのものの「潜在的差別意識」もまた、露呈させたような気がしている。
それは「オリンピックの終わりの始まり」なのではないだろうか?