今週は、ノーベル賞各賞の受賞者が発表される、一週間だ。
日本でも「今年は、日本人受賞者はいるのか?」と、メディアが書き立てる一週間でもある。
そして昨夜、ノーベル物理学賞に米・プリンストン大の真鍋淑郎氏が、受賞した。
これで、日本人受賞者が出て、なんとなく一安心、という雰囲気が今朝の新聞紙面から感じたのだが、真鍋氏の国籍は日本ではなく米国になっている、という。
確かに、日本で生まれ・育ち大学院まで日本で過ごされた方だが、米国に渡って既に60年以上経っている。
国籍も日本ではなく、米国である、ということを考えると手放しで「日本人受賞」と、言えるのか?という、気がしてくる。
その真鍋氏が、受賞後のコメントに注目が集まっている。
「何故、日本に戻らなかったのか?」という質問に対しての、回答だ。
Jcast ニュース:真鍋淑郎氏が「日本に戻りたくない」理由 受賞後の言葉に「切実」「どう受け止めればよいのか」
真鍋氏が海外へ渡った頃、「頭脳流出」と言われ日本の大学等では、「世界的に活躍できる研究者を育てられるのか?」ということが考えられ始めたのでは?という、気がしている。
その頃の努力が実り、2000年代にはいると自然科学等の分野で日本人がノーベル賞を受賞することが、多くなったのでは?と、考えている。
しかしここ数年言われるようになったのは、「若い研究者が育っていない」ということだった。
一つは、研究室にとどまっても「ポスドグ」と呼ばれる、任期付きの研究者に離れても、生活そのものが不安定で任期が終わればどうなってしまうのか?という状況にある、ということが言われている。
だからと言って、企業に就職しようとしても、研究したい分野の研究が続けられるのか?という、不安や問題もある。
そもそも日本の企業は、大学院卒を積極的に採用する、傾向が低いと言われている。
それだけではなく国立大学の法人化によって、研究費を大学が捻出しなくてはいけない、という状況になっている。
そのため企業から寄付を得やすい研究に重点が置かれるようになり、基礎研究や企業がその時に求めないような研究にはお金がかけられない、という状況になっている(と言われている)。
この「企業から寄付を得やすい研究」というのが、真鍋氏の言う「ポピュラーな研究」ということになるだろう。
今回真鍋氏の受賞理由となった「温暖化予測」等は、今はとても重要な研究とされているが、真鍋氏が研究し始めた頃は、おそらく「何故、そんな研究をするのか?」と言われるような時代だったはずだ。
時には「そんな研究ではなく、皆が取り組んでいる研究に加わるように」ということを言われたコトが、あったかもしれない。
この「皆が」という、何気ない言葉のニュアンスの中に「同調性」のようなものが求められると、研究者の個性として潰されることがあるのだろう。
ここ10年位の間で、日本人ノーベル受賞者の研究を見てみると、「研究していた頃は、少し外れた基礎研究」だったような印象も受ける。
そこに「同調性」を求めるのではなく、「寛容に見守る」ような研究の雰囲気があったのではないだろうか?
それが、徐々に研究テーマそのものが「ポピュラーな研究」という「同調性」が求められるようになると、自由な発想は生まれてこなくなる。
予定調和のような研究をしても、ノーベル賞へは届かないし、社会を変革するような研究にもならないはずだ。
ノーベル賞云々ではなく、社会を変えるような研究者を育てるためには、チョッと変わった研究に対しても寛容であることなのではないだろうか?
いつの頃からか?「平等」という名の元「みんな一緒でなくてならない」という、心理的な縛りが社会を覆うようになってきたように感じている。
「みんなと違っても、興味のあること」に寛容な社会や企業風土が、これから大切になっていくように思うのだ。
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