日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

大丈夫か?名古屋のモノづくり

2006-07-16 23:28:28 | アラカルト
金曜日、パロマ社のガス湯沸し器の不具合が長期に渡って放置されていた、と言う報道があった。
トヨタ自動車のリコール問題とあわせ、名古屋の優良企業の起こした事件が、2件も連続してあったことになる。

バブルに踊らず、堅実な企業経営によって「元気な名古屋企業」の代表格2社の起こした事件に、名古屋で仕事をしている一人として「大丈夫だろうか?」という不安がよぎる。
と言うのも、トヨタ自動車にしてもパロマにしても、モノづくりには定評ガあったはずなのだが、そこにお客様の姿を見てきていなかったと言う、もう一つの姿も明らかになったように感じるからだ。

なんとなく感じることなのだが、名古屋地元の企業に勤めると言うことは、今ではすっかり忘れ去れた感のある「忠誠をたてる」ということに似ているように感じていた。
トヨタに勤める友人などを見るたびに、「真面目に企業戦士として、働いている」という印象をもっていた。
「企業利益が顧客利益に繋がる」という、感覚というべきなのかもしれない。
だからこそ、自社の製品に対して自信がもてたのだろうし、企業のモノづくりが発展してきたのかも知れない。

モノづくりがいくら素晴らしくても、モノを使う人の気持ちやその生活の姿が見えてこないと、何の意味もない。
ある意味当たり前と言えば、当たり前のことなのだが、企業に対する忠誠がその感覚を鈍らしていなかったか?
そんなことを思いながら、「モノづくりの名古屋」と言われることへの疑問がでてきた。

トヨタのテレビCMは、変わらずレギラーヴァージョンのまま。
リコール問題についてのコメントも、出ていない。
パロマは対応に追われ、具体的な対策案が発表できない状態だ。
昨年、松下電工の行ったファンヒーターの回収のような、具体的で迅速かつ長期的な回収活動が必要かも知れない。
企業の危機に、どう対応するのか?対応できるのか?それが、市場からの信頼となることくらい、十二分に分かっている2社のはずなのだが・・・。

真夏日に思った街の姿

2006-07-15 22:36:20 | アラカルト
今週は、毎日のように「この夏一番の暑さ」更新日だった。
そんな時、見上げる街中の風景が気になった。
それは、空調の室外機だ。
マンションは言うに及ばず、戸建の一軒家にも複数の室外機が設置してる。
「1家に1台」ではなく、テレビ並に「1家に複数」というのが、今なのだろう。
それだけ「人工的な快適生活」を享受し、当たり前だと感じている生活がそこにあるような風景に感じた。

昨年から環境庁が中心となって「チーム-6℃」という、環境キャンペーンが行われている。
「夏は室内温度を28℃に設定しましょう」ということなのだが、この暑さで「28℃の室内温度なんて、ムリムリ」と言うのが実感ではないだろうか?
それを、マンションや戸建の室外機の数から感じられる。
別に、空調・エアコンを使うことが悪いと言うのではない。
家電メーカーは、「省エネタイプ」のエアコンを発売し「環境に優しい」と言っているし、住宅メーカーは「気密性」や「断熱性」の高さを謳い文句に、「快適な住環境」を提案している。
そのどれもが、とても魅力的な商品だと言える。

ただ、本当に「環境に良い」ということを考えたら、エアコンなどの「人工的快適生活」を求めるのではない、自然と共存できる「夏涼しく、冬暖かい」という「家作り・街づくり」が、先なのではないだろうか?
昔の家の多くが南側に庭があったり、庇が深いのは「夏は風を通し、日差しを室内に入れないため」だった。
今の住宅事情では、そのような条件の家を望むことすら出来ないことも分かるのだが・・・もう少し、エアコンの頼らない生活はできないのだろうか?
これからのマンションや戸建住宅には、人工的な空調システムに頼るのではなく、季節の折々の快適さを取り込む工夫のある提案が、本当の「環境住宅」なのではないだろうか?

コンクリートやアスファルトで固められた街は、便利だ。
その照り返しは、街の温度を上げている。
今は、照り返しに室外機からの熱風で、もっと暑い街を作っている。
ソーラーシステムなどの自然エネルギーを作り出し、使う街づくりの前に、コンクリートやアスファルトに取って代わる舗装材や生垣などによる街づくり、家作りが今必要な気がする。

この猛暑にも拘らず、エアコン無し生活をしている者からの提案だ。

寛容性と敬意

2006-07-13 21:54:28 | アラカルト
「去るもの日々に疎し」にコメントを下さった、「気功家」さんありがとうございました。
別に中田英寿さんに対して、批判はしていないつもりです。
むしろ、スポーツマスコミと言いますか、「(中田)ヒデ」もしくは「NAKATA」というサッカー選手を必要以上に持ち上げるような提灯記事に対して、批判的なだけで・・・。
むしろ「(中田)ヒデ」もしくは「NAKATA」というサッカー選手とマネジメント契約をしている事務所は、そのマスコミなどが作り上げたイメージを上手に使って、「カッコイイ(中田)ヒデ」もしくは「NAKATA」像を作りあげただけだと思います。
ただ、HPでの「伝え切れなかった」という言葉には、リーダーとしての資質不足の反省よりも、周囲の無理解を嘆いているような印象を受けたのは本当のことです。
さて、好きな選手ですか・・・今回の日本代表で言えば加地選手でしょうか?巻選手なども嫌いではありません。小野選手のように「1本のパスにメッセージが込められる」選手は、とても魅力的ですね。
好きな国は・・・以前はオランダだったのですが・・・ダービッツが好きでしたので。
今回のオランダは、以前のオランダと言うイメージが無く残念に思っています。
国・クラブチーム関係なく、組織的で攻撃的なサッカーをするところが好きです。

今日になってジダンの頭突き事件?の真相の一部が、明らかになった。
フランスのテレビに出演したジダン自らが、その真相を語った訳だが・・・。
日本では「試合中屈辱的なことを言うのは、日常的なこと」で「我慢できなかったジダンにも問題がある」という内容が多いように感じる。
でも、本当のところはどうなのだろう?
と言うのは、ジダンがアルジェリアからの移民で、イスラム教の影響を少なからず受けていると言う背景を見ていないような気がするからだ。

イタリアのマテラッツィ選手は、ジダンに「売女(ばいた)の息子」というニュアンスのことを言ったらしい。
「娼婦」と言う言葉よりもはるかに、蔑んだ言葉を使っている。
欧州のクラブチームの試合では、相手を挑発するためにこのような言葉を日常的に使っていると言うのが、上述の内容なのだがイスラム教の社会では母親や母親代わりの姉のは、家族のなかでも絶対的存在だと言うことを聞いたことがある。
私たち日本人がイメージしているような、「ハーレム」社会ではないのだ。
ましてキリスト教とも大きく違う。
イスラム社会における、「母親」の重大性を理解する必要があるのではないだろうか?

でもW杯では、幾つモノ素晴らしい場面も観ることが出来た。
宗教や人種、それまでの軋轢のようなモノを忘れさせるような場面だ。
準決勝ドイツのGKレーマンに声をかけるカーンや、試合後互いに健闘を讃え抱き合うような場面だ。
そこには宗教や人種と言った「壁」を越えたスポーツの素晴らしさがあった。
そのような場面が決勝で見られなかったことが、残念に思う。

宗教と日常生活が密接ではない日本人からすれば、大袈裟な感覚なのかも知れない。
しかし、情報化され「世界」との距離と時間が無くなりつつあるからこそ、「寛容と敬愛」が必要だと言う気がする。

トヨタ、お前もか・・・-リコール問題-

2006-07-12 22:39:29 | ビジネス
今日、新聞の夕刊にトヨタ自動車が8年間にも渡り、リコールを怠っていたというニュースが、掲載されている。
このニュースを聞いて、三菱自動車のリコール隠しを思い出した人も、多いのではないだろうか?

三菱自動車のリコール隠しは、企業業績を悪化させただけではなく、社会そのものから三菱自動車というブランドそのものを大きく傷つけた。
その後遺症は、今でも続いているように感じている。
テレビCMなどでも、「新しい三菱自動車」をアピールしているが、生活者が求めているのは「新しい三菱自動車」ではなく、「(生活者に)誠実な企業」という姿勢である。
生活者が「安全なクルマ作り」を求めていると、考えているようであれば、また同じコトを繰り返す危険性があるように思っていた。
そんな時に、今度はトヨタ自動車である。

「トヨタ自動車」といえば、1兆円以上の収益を上げる「日本1の企業」といっても、過言ではないだろう。
「そのトヨタが・・・」という、気がしないわけでもない。
トヨタ自動車が国内での市場を拡大させることが出来たのは、買い手を意識していたからだ。
その昔、トヨタ自動車のキャッチフレーズは「ファミリーカーのトヨタ」だった。
「技術の日産」が売上不振となる中、トヨタは「ファミリー」という「使い手側を意識した戦略」をとってきたはずだ。
それが「Fun to Drive」だったり「Drive Your Dreams」という、フレーズに込められた企業メッージだったはずなのだ。

ただ、トヨタの場合「自動車」の魅力よりも「販売店の力」による売上拡大、ということも言われてきた。
自動車を運転しない私でも、時折友人達から聞く販売店のディズカウント=下取りなどは他社よりも大きかったと記憶している。
もちろん、人気車種などの条件があるとは思うのだが、「トヨタ」というクルマに魅力があるのではなく、「販売店のきめ細やかなサービス」で購入していた人も少なくないということは、しばしば耳にしてきたことだ。
とすれば、今回トヨタ自動車がしたことは販売店に対する裏切りでもある。
三菱自動車のリコール問題でも、一番苦しい立場となりお客様から批難を浴びたのは、販売店=ディーラーだった。

トヨタ自動車の1兆円の収益を支えているのは、お客様と直接顔をあわせ商談をし、様々なサービスを提供している販売店であるディーラーなのだ。
そんなことは、十分承知していたはずのトヨタが起こしたこの問題は、「世界のエクセレントカンパニー・トヨタ」でさえも、「現場」を忘れていたということなのだろう。


スポーツと差別

2006-07-11 21:23:03 | スポーツ
「去るもの日々に疎し」のエントリにコメントを下さった、lupinさんありがとうございました。
「(中田)ヒデ」あるいは「NAKATA」については、ほぼ毎日のように様々な雑誌や新聞のコラムなどで、新しい情報があふれ出ている状態ですね。
総合的にみると、①引退の原因や背景②今後の身の振り方、といったところでしょうか?
その論調も批判的な内容から、ヒロイズム賞賛という2極。
どちらかというと「ヒロイズム」的な内容のほうが、目立つ気がしますね。
半年もすれば、話題にもならないとは思いますが・・・(願望)。

そのヒロイズムという点でトラックバックしてくださった、九州っ子さんありがとうございます。
私の場合、(中田)ヒデあるいは「NAKATA」という選手に、ヒロイズムを感じていません。
むしろ、引退メッセージを読んだ時、一種の違和感と自己正当性を感じました。
特に、「今回のW杯に掛ける思いを周囲に伝え切れなかった」という部分に。
「伝え切れなかった」のは、リーダーとしての資質と関係していると思うのだが、(リーダーとしての)自分の技量の足りなさよりも、周囲が理解してくれなかったということに終始しているように感じるている。

日本時間の昨日早朝、そのW杯の優勝国が決まった。
イタリア優勝よりも、フランスのジダンの頭突き退場の方が話題になっている。
当事者2人が理由を話していない中、様々な憶測が飛び交っている状態だ。
大方の見方は「差別発言」。

フランス代表の半数以上は、植民地からの移民だ。
それは、肌の色を見れば分かるだろう。
オランダなども、ある意味「多国籍チーム」といって良いだろう。
彼らの多くは、アフリカ系移民。
1960年代以前、アフリカ各国の多くは欧州の植民地だった。
独立以降も、政治的・経済的に安定している国は少ない。
だからこそ、FIFAは次回の南アフリカ大会に対して、FIFA:貧困撲滅に協力 EUとの協定に調印という、手を打ちはじめている。
ここ1、2年「差別的発言」をした選手に対して、厳しい処分が課せられているのも事実だ。
その背景には、やはり4年後の南アフリカの運営を見越してのことだろう。

スポーツには、「差別」がいつもつきまとっている。
古くはモハメッド・アリ(当時は、「カシアス・クレイ」という名前だったと思う)が、オリンピック金メダルを川へ投げ捨てる、ということがあった。
「フェアプレー」というのはスポーツの基本ではあるが、「プレー」はフェアでも、意識下における他者に対し「フェア」あるいは「敬意をはらう」こと難しいのが、人間という動物なのかも知れない。

去るもの日々に疎し

2006-07-09 23:44:35 | CMウォッチ
今月から始まったテレビCMに、気になるモノがある。
「ミニッツメイド」という、ジュースのCMである。

父親が台所でジュースを飲みながら、朝食を準備している。
なぜか、母親の姿はない(未公開の30秒CMでは、既に会社に出かけたという設定になっている)。
そこへ、幼稚園の年長組か小学校の低学年くらいの娘が起きてきて、一緒に食事をする。
エンドは、娘と一緒に出勤する父親というシーンで締めくくられている。
テレビCMを見ている、同じ年くらいのお子さん(特にお嬢さん)を持つ、父親としては理想?のシーンかも知れない。

このCMをはじめてみた時、「久しぶり」と思いながらも名前を思い出せなかったのが、父親役の俳優・三上博史さんだ。
いわゆるトレンディードラマ大流行の頃、ドラマだけではなくテレビCMなどで、毎日のように見ていたように記憶している。
ところが、いつのまにかテレビCMなどで見かけないな~と思っていたら、テレビドラマでも、見かけなくなってしまった。
もちろん、ご本人は舞台などで活躍をされていたようなのだが、テレビなどのメディアを基準とすれば、「忘れられた存在」となっていたような気がする。
「メディアに露出する」ということは、実際の活躍とは別に「イメージや印象での存在感」という力を持っているように感じる。

先日、現役引退を表明した中田英寿さんなども、その一例のような気がしている。
実際ここ2、3年、彼は所属チームでレギラーという、扱いの選手ではなかった。
にもかかわらず、活躍していた印象があるのは日本代表での試合と、テレビCMや「成コレ」と呼ばれた帰国時のファッションという話題が、常にあったからでは無いだろうか?
サッカー選手としての、彼の実力を云々しているのではない。
人のイメージや印象は、メディアに左右され、時には「虚像」さえも作っている可能性があるということなのだ。

実際、4年前の日韓大会終了1ヶ月あまり過ぎた頃、近所のファーストフード店で女子高校生たちが「サッカーって、終わったよね。ベッカムってどこか(カッコ)良かったんだろう?」「ベッカムって!?すっかり忘れてた!」という会話をしていたことがあった。
当時ベッカム選手は、チョコレートのCMなどに出演していて、それなりの頻度で女子高校生たちも、見ていたはずなのだ。
ところが、サッカーという話題が無くなり、「興味の対象」ということも含めて、メディアの露出が(一時に比べると)減っただけで、「過去の人」状態になってしまうのである。

「去るモノは、日々に疎し」とは言うが、日本人の忘れっぽさと移ろいやすさからいえば、今日のスターも明日には「過去の人」となってしまうのかも知れない。

手段が目的に変わるとき

2006-07-09 12:07:46 | 徒然
アクセスをしてくださる一部の方には、すっかり行動を読まれていると思います。
昨日のお休み理由は・・・「ご想像の通り」です。
当然、早起きをしてのテレビ観戦でした。

昨夜のニュースで、奈良の母子3人焼死事件の犯人となった、高校1年生の長男の減刑を求める嘆願書が1500人集まったとあった。
この事件の詳細や背景となる事柄がニュースなどで報道されるたびに、「窒息しそうなこども」という言葉が思い浮かぶ。

犯人となった高校1年の長男は、「医者」になるため中高一貫の有名進学校へ進学し、それまで好きだったサッカーも、父親の意向で辞めさせられている。
深夜、父親の書斎でマンツーマンの勉強に明け暮れ、時には勉強が出来ないことで暴力を振るわれていたようだ。
学校関係者のコメントによれば、「このままでも、医学部進学は出来た」くらいの成績だったようだが、父親とすればもっと偏差値の高い医学部への進学を求めていたのだろう。
これでは「医者になるための、医学部進学」ではなく「偏差値の高い医学部進学」が、最大の目的だ。
「医者になるため」という目的が、いつのまにか「(偏差値の高い)医学部進学」へと変わってしまっている。
「志」が何処かへいってしまった進路は、無気力な進路でしかない。

「医師」という職業は、社会的地位も高く責任も大きい。
それは「人の命を預かる」仕事だからだ。
でも「偏差値の高い医学部出身」に、どれだけ大きな意味を占めるのだろう?
もちろん、医学界にも「学閥」というモノがあったり、師事する教授による力関係のようなモノがあるのだろう。
それが、「名医」の基準なのだろうか?
難度の高い脳外科や心臓外科手術を成功へと導く医師も「名医」なら、患者の気持ちを察し、分かりやすい言葉で病気のことを話し治療法を説明し、患者の不安を取り除くことが出来る医師も「名医」だろう。

医師になるための「医学部進学」という手段が、「偏差値の高い医学部進学」という目的へと父親の中で変化したことが、この事件の虚しさや哀しさのベースにあるような気がしてならない。




iPodにライバル現る?

2006-07-07 20:55:46 | トレンド
共同通信が年末にiPod対抗商品か マイクロソフトというニュースを、配信している。

ここ2,3年の間で、「ウォークマン」や「MP3」に代わる、「携帯音楽機器」として一般化したiPod。
一方、「携帯電話」の世界では「音楽携帯(電話)」を、この春~夏にかけ次々と投入している。
今や「音楽を聞く」というのは、「音楽を持ち運ぶ」に代わったのかも知れない。

そして、iPodは音楽を聴くだけではなく、落語などを聞いたり英会話を勉強したりできる「デジタル携帯ツール」として、期待されてもいる。
「携帯する」ハードからソフトへと、変化しつつある。
考えてみれば、「アップル」のライバルである「マイクロソフト」が、この分野に興味を示さないはずがない。
マイクロソフトが、爆発的に市場を獲得するきっかけとなった「Windows95」は、別名「文系PC」と呼ばれていた「Mac」の操作性を、追い求めたモノとも言われていた(ように記憶している)。
今回の商品も、当然のことながら「音楽を聴く」だけではなく、「聴く+観る」という機能があるだろう。
将来的には、インターネットで配信される「聞く・観る・学ぶ」といった、ソフトに総て対応できるようになっていくだろう。

携帯電話が、「音楽携帯(電話)」→「ワンセグ対応携帯」へと進化していく中で、iPodとの境界線が、見えにくくなりつつある。
これから先「ソフトを携帯する」という「携帯産業」は、どんな発展をしていくのだろうか?
興味がある反面、じっくり腰をすえて聴きたい音楽が減りつつあるのも気になるのだ。



「兄弟対決」-ユニフォームにも注目-

2006-07-06 19:11:15 | スポーツ
日本時間午前4時から行われた、W杯ポルトガル対フランス。
結果はご存知のとおり。
フランスが2大会ぶりに、イタリアとの決勝戦に臨むことになった。

W杯という舞台は、スポーツメーカーにとっても「晴れ舞台」だ。
特にユニフォームは、最新機能が隠れているといわれている。
もちろん、選手たちが使用するスパイクや試合で使われるボールなども、W杯という舞台で進化すると、言われている。
おそらく、オリンピックという舞台も、陸上競技や水泳などは同じだろう。

そこで、今回の決勝戦を見てみると・・・。
イタリアのユニフォームを提供しているのは、「プーマ」。
フランスは「アディダス」だ。
実はこの2社、本社はどちらもドイツにある。
それだけではなく、元々は兄弟で始めたスポーツメーカーが、喧嘩別れして出来きた企業である。
ややコア?なサッカーファンの間では有名な話だが、今書店に行くと「アディダスvsプーマ」というタイトルの本が、平置きになっている。

今回ベスト4に進出した代表ユニフォームのメーカーを、見てみるとアディダス2社(ドイツ、フランス)、プーマ1社(イタリア)、ナイキ1社(ポルトガル)だった。
サッカーの分野での、ナイキの躍進は著しい。
先日引退を表明した中田英寿選手他、日本代表選手の間でもナイキのスパイクを使用している選手は、少なくない。
殆どの選手は、「アドバイザリー契約」をしメーカーからシューズだけではなくトレーニングウェアなどの提供を受けている。
メーカー側は、いかにスター選手とアドバイザリー契約、有名クラブや代表チームのサポート契約をして、顧客を獲得し市場を拡げていくのかということに、凌ぎを削っている。

時には、このような視点でスポーツビジネスの裏側を観てみてはいかがだろう?
ちなみに、今回使用されているボールは日本のメーカー「モルテン」の、技術協力といわれている。

メディアの優先順位-ヒロイズム考-

2006-07-04 22:33:29 | アラカルト
今日の朝刊の一面に、昨夜引退を表明したサッカーの中田英寿選手の記事があった。
全国紙の殆どが、トップ扱いだったようだ。
昨夜は、殆どのテレビ局が「ニュース速報」というカタチで、引退を伝えた。
でも、それは本人の引退記者会会見が行われることなく、インターネットのHPでの書き込みだった。
21:54から始まる「報道ステーション」等は、トップで取り上げるだけではなく、相当の時間を割いて伝えていた。
今日の新聞のテレビ欄を見ても、特集を組んでいるようだ。
HPでの、引退声明というのは「時代」ということだとは思うのだが、それにしても・・・もっと、重要なニュースがあるのではないだろうか?

朝日新聞などは「ジャーナリスト宣言」と言っているが、このニュースが、ジャーナルとしてどれだけ重要なのだろう?
批判があることを覚悟して言うなら、「日本代表」とはいえ、たかだか1人のサッカー選手の引退なのだ。
それとも、日本特有の「ヒロイズム」なのだろうか?
それでも、野球の王さんや長島さんとは、その社会的影響力は遥かに小さかったのではないだろうか?

そもそも、中田英寿選手ではなく「(ナカタ)ヒデ」もしくは「NAKATA」という選手に興味があって、それはある意味「年長者やメディアに(堂々と)自己主張し、時には否定するような態度」は、「新しい時代の個人主義の象徴」という「時代の分かりやすいアイコン」だっただけなのではないだろうか?
でもそれは、「スポーツ選手」という一般社会の「お客様」という立場だから出来たことだろう。
職場に「(ナカタ)ヒデ」あるいは「NAKATA」のような、同僚や上司(部下)がいたら「チームとして仕事」が出来るだろうか?
スポーツ選手という「お客様」は、「時代のアイコン」として分かりやすい存在だ。
それは(もしかしたら)日本人の好きな「ヒロイズム」へと結びついて、大袈裟なほどに騒いでいるように感じるのだ。

もう一つ感じるのは、殆どのメディアの「ノスタルジックな記事」だ。
日本のサッカー界において、中田英寿選手は決して「先駆者」的存在ではない。
70年代、奥寺さんはドイツのブンデスリーガーへ移籍し、レギラー選手として活躍している。
その後、三浦和良選手は高校を中退し、単身ブラジルへ渡りやはりレギラー選手として活躍し、イタリアリーグ「セリエA」へ日本人として初めて移籍している。
そのような先輩達が、海外移籍という道を開いていったことを、忘れてはいないだろうか?

ブラジル戦後、ピッチに倒れこむように仰向けになった時、様々なモノが中田英寿選手の中に去来しただろうが、それはあくまでも「個人的なこと」で、1人で10分近くピッチを占領するのは、プロとしてあるべき姿だったろうか?
ノスタルジックな感傷に浸るのは、ロッカールームでも十分だったのでは?
そのような態度に、疑問を呈することよりも「個人的ノスタルジックな感傷」を書き立てるというのも、日本人の求める「ヒロイズム」なのだろうか?
何より、多くのメディアが「右へならへ」的に、(ナカタ)ヒデをW杯、日本サッカーの立役者かのような、感傷に浸った報道をしていることに「ある種の嫌悪感」がある。