日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

もう8年、まだ8年・・・東日本大震災

2019-03-11 19:09:12 | 徒然

今日、日本のあちらこちらで「鎮魂の祈り」が、ささげられた。
8年前に起きた「東の本大震災」に対する、祈りだ。

「祈り」とともに、「復興が進んでいる姿」も様々な情報から知ることになる。
確かに、被災地は復興し「元被災地」となっている所もあるだろう。
だが「阪神淡路大震災」の時でも仮設住宅が完全撤去されるまでに10年くらいの時間を要した、という記憶がある。
とすれば、まだまだ「復興の最中」という状態にあることには、変わりないだろう。
まして「東日本大震災」の場合、「福島第一原子力発電所事故」という、今だ収束の目途が立っていない重要案件もある。
とすれば「東日本大震災」は、「福島第一原子力発電所事故」で発生した「汚染土壌」の最終処分が終了し、焼け落ちた(といわれる)放射性物質の回収、汚染水の処理などが終わるまで、「復興した」とは言えないと思う。

1994年に故永六輔さんが書かれたエッセイ「大往生」が、大ベストセラーになった。
発刊された当時参加していた「読書会(という名の異業種交流会)」の課題で読んだ記憶があるのだが、その中で故坂本九さんのことに触れられていた。
ご存じの方も多いと思うのだが、坂本九さんは「御巣鷹の飛行機事故」で亡くなられている。
坂本さんと永さんとは数々のヒット曲を生み出した仲間として、親交があったようだ。
そして坂本さんの死後、ご遺族の方が坂本さんの死を受け入れられるようになった、と感じるまでに10年の月日が必要だったように思う、という内容の一節があった(と、記憶している)。
肉親や親しい人の突然の別れを受け入れるには、そのくらいの月日が必要なのだろう。
とすれば「東日本大震災」で被災された方々にとっての8年は、まだまだ受け入れられない時間の経過のような気がしている。

また「人は二度死ぬ」と言う言葉もある。
「一度目の死は、肉体的な死。二度目の死は忘却による死」という意味だ。
このような概念(というべきか?)は、洋の東西を問わず言われていることなので、ご存じの方も多いと思う。
そして「死者は(生きている)私たちの側にいて、様々なことを教えてくれる」ということも言われている。
幽霊となって側にいるというのではなく、亡くなられた人の思いなどは生きている私たちの中にある、ということだ。

被災地から遠く離れた場所にいて、被災された人々、震災によって亡くなられて人たちを知らなくても、「東日本大震災」という大震災のことを今日だけではなく、いつも心の片隅においておくことが大切なのだと、改めて知るのだった。




新しいコミュニケーションスタイルが、生まれはじめている

2019-03-08 20:49:13 | ビジネス

民放の見逃し配信サイトを見ていたら、「新しいコミュニケーションスタイル」が生まれつつあるのかな?という気がした。
配信サイトで見ていたのは「情熱大陸」と「カンブリア宮殿」の2つ。
ファンの方も多い番組だと思う。
それぞれ、ある分野で話題になっているあるいは注目されている人物をクローズアップした番組である、という共通点はあるのだが、取り上げられる人物像は随分違う。
「情熱大陸」は取り上げるジャンルは様々だが、「カンブリア宮殿」は経済関連だ。

今回「情熱大陸」で取り上げていたのは「銭湯イラストレーター・塩谷歩波」さん。
先日、新聞の新刊レビューで「銭湯図解」という塩谷さんの本が紹介されていて、「今どき銭湯なのか?」と思ったのだった。
しかし番組を見て感じたことは、「人は顔を見て・たわいもないことを話す、時間の豊かさを求めている」ということだった。
確かに「銭湯」というと「裸の付き合い」という言葉が枕詞のように使われるのだが、本当は「裸云々」ではなく、「無防備な状態でたわいもないことを話し、一緒に過ごす」ということで生まれる「(その)場のコミュニケーション」ということなのではないだろうか?と、感じたのだった。

もう一つの「カンブリア宮殿」で取り上げられていたのは、自然派住宅の「BESS」の二木浩三さんだ。
いわゆる「ログハウス」を一般向け住宅として販売をしている「BESS」だが、全国各地に「BESS」の住宅展示場ができている、という。
確かに、最近我が家の近くに13階建ての単身者向け賃貸マンションができたのだが、30平米も無いのに10万/月近くの家賃というのは、どうなのかな?日本の住宅事情というのは、生活者に優しくないのでは?という疑問を感じている。
何故なら「住む」ことが重要なのではなく「暮らす・生活をする」ことが大事なはずなのに、今の日本の住宅は「住む」ことに力点を置いているように感じるからだ。
「BESS」の二木さんは「住むより楽しむ住宅」というコンセプトを基に、家を販売しているという。

番組では、住宅展示場でありながら「人がワイワイと集まり、見知らぬ同士でありながら楽し気に話す姿」が、紹介されていた。
住宅地の一角全てが「BESS」の住宅という場所では、「BESS」の家に住んでいる家族が、週末に「持ち寄りの食事会」をしている、という場面もあった。
「持ち寄りの食事会」を見ながら感じたことは、昭和の頃のような「濃密な近所づきあい」ではなく、「つかず・離れずライフスタイルを共有する仲間」という印象を受けた。
それはまるで「ハーレー・ダビットソン」のオーナーたちが集まる会も、このような雰囲気なのだろうな~と、感じさせた。

「ハーレー・ダビットソンのオーナの会」というのは、マーケティングを勉強している人であれば、一度は「参考とすべき会」としてご存じだと思う。
「ハーレー・ダビットソンのオーナーの会」というのは、ハーレーのファンが自然発生的に集まり、一緒にツーリングをしたりキャンプをしたりする会であると同時に、ハーレーというバイクの魅力を伝える会でもある。
企業が、オーナーの会に口出しをしたり、資金援助をするわけではなく、「ハーレーというバイクのファン」というだけの結びつきでできている、一つのコミュニティーであり、企業はこのような「ファン・コミュニティーを創造することが重要」と、マーケティングでは言われてきている。
正に「BESS」に住んでいる人たちの姿は、このような「ファン・コミュニティー」のような気がしたのだった。

「銭湯図解」という本をつくられた塩谷さんが、特別な「銭湯コミュティー」を創っているのではない。
それは「BESS」の住宅を提供している二木さんについても同じだろう。
ただこの二つの「コミュニティー」の姿を見ていると、SNSのようなネットの繋がりに疲れた(あるいは、飽きた)人達が、自分と共通するモノで顔が見えるコミュニケーションを求めて始めているのでは?と、感じるのだ。


ビジネスパーソンに、アートは必要か?

2019-03-07 20:16:37 | 徒然

ここ2,3年ほどの間で、「ビジネスパーソンこそ身に着けたい教養」として、「アート」が取り上げられるようになってきた。
「アート」といっても、実は様々で美術だけとは限らない。
実際「表現者」を「アーティスト」と、呼ぶことは多い。
その「アーティスト」と呼ばれる人たちの中には、舞踏家もいれば音楽家もいる、もちろん彫刻や絵画などの美術関係の人たちもいる。
言い換えれば、「文化を創っている人たち」とも言えそうだ。

ところで、日本の学校教育ではどれだけ「アート」に親しむ教育が、されてきているのだろう?
中学受験を含む「受験」で問われるのは、国語や算数・数学などであり、今の時期毎日のように折り込まれている学習塾のチラシには、芸術・文化対策などの内容は無い。
当然のことながら、芸術系大学以外の受験生にとって、「芸術・文化」などの科目は関係の無い科目、というとらえ方をしているだろう。

そのような環境の中で、大人になり「これからのビジネスパーソンに必要な教養はアートだ!」といわれても、戸惑うばかりだろう。
最近は「アート思考」なる講座まで登場し人気を集めているというが、そもそも「アート思考」というモノは人から学んで身につくモノなのだろうか?という、疑問を持っている。
COMEMO:ビジネスには「アート思考」が必要だ

COMEMOのコラムにあるように、「アート思考」の前には「デザイン思考」があり、その前に一世を風靡したのが「ロジカル思考」だ。
なんとなくだが、「ロジカル思考」→「デザイン思考」→「アート思考」というのは、連続的な思考のような気がしている。
「ロジカル」だけでは、人の心や気持ちを置いてきぼりにしてしまう。
そのような気持ちをカタチにする思考が、「デザイン」ということになるのかもしれない。
そして、様々な経験から感じ取る「直感的(あるいは勘)」のような思考が、「アート」ということのようにも思えるのだ。

ただ今話題となっている「ビジネスパーソンに必要なアート」となると、そのような「思考」だけではなく、教養ということも含まれているようだ。
一昨年だったと思うのだが、ビジネスパーソンと「美意識」について書かれた新書が発刊され、話題になった。
光文社新書:世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?

日本のビジネスパーソンの中で、どれだけ「美意識」を持っている方がいるのか?ということも気になるのだが、あくまでも個人的な意見として、「美意識」を鍛えるのは何もアート(芸術)だけではない、と思っている。
むしろ日本の場合、四季折々の豊な自然が、一番「美意識」を鍛えてくれるのでは?
何故なら、自然の美しさというのは、パステル画のような淡い色合いではなく、驚くほどグロテスクな色彩で人を魅了するときもある。
そのようなモノに気づくか・否かということが「美意識を鍛えているか・いないか」ということにも、つながっているような気がするのだ。
そして「美意識」は、人に押し付けるものでもないはずだ。
ただただ、自分の中に深く重ねていくような感性であり、蘊蓄を傾けることは「美意識」ではないと思う。

言い換えれば、美術館に行けば「美意識」が鍛えられるのではなく、様々な経験や体験から「自分の感性を磨いた先にある直感的なモノ」ということになるのではないだろうか?


海外のテレビ番組で、意外なことを知る

2019-03-05 19:42:06 | アラカルト

テレビの無い我が家だが、最近は民放各社による「見逃し配信サイト」などで、話題となっているテレビ番組を見ることができるようになった。
海外のテレビ番組が無料視聴できるサイトなどもあり、料理番組が好きな私は海外の料理番組のチェックをすることもある。
海外の料理番組を見ながら感じることは、使う食材の違いや調味料の使い方だ。
もちろん、日本の「醤油」や「みりん」などが、使われるのを見ると「日本の調味料も、随分グローバル化してきたな~」という、印象を受ける。
使い方も、かつてのような「醤油の海に、刺身や握りずしを付ける」というのではなく、ドレッシングやソースに使うようになってきている。
「もっと積極的に日本独自の調味料を、海外に売り出しても良いのでは?」と思うことも、度々ある。

先日見ていた「海外の料理番組」で、驚いたことがあった。
英国のBBCが制作をしている「ナイジェルのシンプルメニュー」という番組で、イギリスの田舎で「イノシシのバーガーを食べる」という、場面があったのだ。
ご存じの方も多いと思うのだが、欧州ではラムはもちろん、鹿やウサギといった「ジビエ料理」が数多くある。
街中の精肉店でも、鹿やウサギの肉を当たり前のように扱っている、という話は聞いたことがある。
だが、「イノシシ」に関しては、聞いたことが無かった。
むしろ「イノシシ」は、日本をはじめとするアジアに生息している動物、というイメージを勝手に持っていたのだ。

ところが、番組では「かつてはどこにでもいたイノシシだが、野生のイノシシを狩り過ぎていなくなってしまった」という説明があったのだ。
その「イノシシ」を、飼育している畜産農家を訪ね、「イノシシの肉のハンバーガーをつくる」というのが、番組の内容だった。
私がまず驚いたのは、上述したように「イノシシ」がイギリスにもいた、という点だ。
そして「狩り過ぎが原因で、野生のイノシシがいなくなった」という点にも、驚いたのだった。
「イギリス人は、そんなにイノシシの肉が好きなのか?」と。

イギリスでは、イノシシをわざわざ飼育をしているのに、今の日本は「害獣」として、駆除に躍起になっている。
番組で紹介していた「イノシシの畜産農家」さんは、ビールをつくったときの麦の残りかすを飼料として与えていたが、日本のイノシシはそれこそ野趣あふれる味が楽しめるのでは?とも、番組を見ながら思ったのだ。

今日本で「害獣駆除」の対象となっているイノシシが、イギリスでは希少な精肉として扱われている・・・なんとも世界は広く、食べ方にしても「牡丹鍋」以外の食べ方を欧州の料理から学べば、「ジビエ料理」そのものが、家庭でも楽しめるようになるのでは?という気がしたのだった。


市場を見るためには、遠近の視点が大切?

2019-03-04 20:08:43 | ビジネス

このところ、セブンイレブンの24時間営業についてのニュースが、続いている。
そんな時、日経のコラムCOMEMOに「富士そばは24時間営業をやめないでほしい」という内容のコラムがあった。
COMEMO:富士そばは24時間営業をやめないで!

この記事を読まれて「富士そばって、何?」と思われた方もいらっしゃるのでは?
「富士そば」の社長さんは、経済誌などでも取り上げられる名物社長さんなので、名前は知っているが実店舗は知らない、という方のほうが多いと思う。
何故なら、「富士そば」は東京をはじめとする首都圏で展開をしている「立ち食いそば屋」さんだからだ。
おそらくこのコラムを書かれた方は、「富士そば」が東京をはじめとする首都圏で展開をしている「地域限定」だとは、知らなかったのでは?という気がしている。
東京視点で考えれば、「24時間営業していて、手軽に食べられる立ち食いそば屋さん」の存在は、ありがたいと感じるだろう。
しかし、地方ではどうなのだろう?

もう一つ同じCOMEMOに、「文化の違いを押し付けられてもな~」という気がしたコラムがあった。
COMEMO:外国から見た特異な日本13 ボタン付けなども全て自分でやる
このコラムを書かれた方は、現在シンガポールに住んでいらっしゃるようだ。
このような書き方をされると、「ボタン付けなどを自分でやることは、非効率的だ」とも読み取れてしまう。
元々、香港やシンガポールでは、家庭で食事をするという文化が無い、と言われている。
だからといって、外食をすることが効率的なのか?というと、どうなのだろう?
外食といっても、毎食レストラン(ファミレスも含む)で食事をする、という訳ではなく、多くの場合は屋台の食事だと聞いたことがある。
外食といっても、日本での外食と香港やシンガポールでの外食とでは「食事をする場所」が、違うのだ。

ボタン付けにしても、日本では自分でやるのが当たり前というか、ボタンが取れていることが分かって時点で付けたほうが、すぐに着られる。
いちいち外注に出していたら、すぐに着ることができない。
どちらが効率的なのか?といえば、一概には言えないのではないだろうか?
外食にしてもボタン付けにしても、それぞれの国の文化の違いということなのだと思う。
そして、シンガポールのような国のほうが世界的には、少ないかもしれない。
その文化の違いを認め合い、尊重することが重要なだけだ。

「富士そば」のコラムにしても「ボタン付け」のコラムにしても、近視眼的な内容のように感じてしまう。
コラムだからこそ、余り問題とは感じないかもしれないが、「自分とは違う考えや生活をしている人たちが、数多くいる」という視点は市場を見るときだけではなく、様々な場面で必要なことなのではないだろうか?


雑誌「DOMANI」のコピーに対する違和感

2019-03-02 20:50:25 | マーケティング

Yahoo!のトピックスだったと思うのだが、「いまだにこんなコピーを考えているの?」と思うような話題が、取り上げられていた。
女性雑誌「Domani(ドマーニ)」の広告のコピーだ。
J-CAST ニュース:「働く女は、結局中身、オスである」 小学館の女性誌広告に批判、識者「時代遅れ」

この広告は東京メトロの表参道駅に掲示された野外広告だという。
このようなコピーだからこそ、東京の中でもオシャレな印象がある街・表参道に近い駅に掲示したのでは?という気がしたのだ。
言葉遣いは荒っぽい印象だが、「働く女性は、カッコいいでしょ?」という、コピーライターの意図を感じる。
おそらく「〇〇女子」という、どこか「永遠の少女っぽい」言葉の一般化に、抗うことで「〇〇女子」と言う言葉に抵抗感を持っている女性たちの共感を呼び込もうとしたのでは?という、気がするのだ。

コピー全体から感じられるのは、今現在の社会から感じられるコトに対する「否定」から入る「自己肯定」のような気がする。
「モテるのは、迷惑」とか「ママに見えないが、誉め言葉」という言葉の裏には、「モテる」や「ママに見えない」という否定的な言葉を使いながら、本当は「(幾つになっても)モテたい」し「『(ママだけど)ママに見えない』という意外性のある自分って、素敵でしょ!」ということなのでは?ということなのだ。
本当に「モテることが迷惑」と思えば、「モテる」と言う言葉そのものを使わないだろうし、「子育てに疲れた(=世間的ママのイメージか?)ように見えない」ということが重要で、いつまでも若々しく、結婚後もモテたいし、子どもがいるように見られたくない女性の為の雑誌、というところなのでは?

一番問題となったのは、「働く女は、結局中身、オスである」というコピーだろう。
違和感を感じた理由の一つは、「オス」と言う言葉なのだと思う。
「男・女」という表現であれば、それは社会的役割の中での性別という印象がある。
しかし「オス・メス」という言葉は、生物学的な表現なのでは?
「男・女」という表現よりも、より直接的な「性」を感じさせる言葉が「オス・メス」なのだという気がするのだ。
これまでの「(男女雇用機会均等法により)女性も男性並みに働け」という表現よりも、更に生物的な性を超えろと言っているような感じを受けるのだ。
確かに「オス」と言う言葉は、このコピーの中ではとても強く印象に残る言葉だと思う。
それが、このコピーの中では不快感を与える、ように思えるのだ。

広告における良いコピーというのは、
1.受け手となる生活者の気持ちに寄り添っている
2.共感性がある
3.人を傷つけない
4.ユーモアがある
5.分かりやすい(その商品やサービスの内容を伝えている。あるいはメッセージを平易な言葉で伝えている)
6.時代感がある
などの要素があるのでは?と、考えている。
もちろん、他の要素もあるとは思うが、コピーライティングをする中で上述したような要素をどのような言葉で伝えるのか?という、多角的な言葉の知識(「男・女」と「オス・メス」の表現の違い)や生活者の言葉のとらえ方という想像力が、必要なのだと思う。



セブンイレブンとドラッカー

2019-03-01 20:05:53 | ビジネス

セブンイレブン本部とフランチャイザーである、コンビニオーナーたちとの間で「24時間営業」について溝が深まっている。
毎日新聞:コンビニオーナー団体、セブンイレブンに24時間営業見直し要望
毎日新聞:24時間営業の短縮、セブン、加盟店オーナーとの団体交渉に応じず「労使関係ない」
交渉に応じないどころか、「24時間営業を止めたい等という話は聞いたことが無い」という趣旨の話も出ている。
日経ビジネス:セブン社長が語っていた「24時間営業止めたいなんて話は出ていない」

これらの一連の話の流れから、関西の経済界からはセブンイレブンに対して批判が出てきている。
朝日新聞:関西経済界からセブン本部批判「自分ならこんなことで」

いくらセブンイレブン本部が「24時間営業を止めたいという声が無い」といったところで、セブンイレブン本部側のほうが分が悪い、という印象はぬぐえないだろう。
おそらく拙ブログに来てくださる方々も、一連の話から「以前、セブンイレブンは『ブラック企業大賞』を受賞しただけあって、ブラックな体質だな~」と、感じていらっしゃるのでは?と、思っている。

ところで、セブンイレブンとマネージメントの父と呼ばれたドラッカーが、一体どう関係しているのか?と、不思議に思われている方もいらっしゃると思う。
実は、セブンイレブンの元々の親会社だったのは、大手スーパーの「イトーヨーカ堂」だった。
今は売上などでもセブンイレブンの方か大きく、子会社に飲み込まれた感があるが、「セブン&ⅰホールディングス」の名誉会長はイトーヨーカ堂の創業者である、伊藤雅俊しだ。
そのイトーヨーカ堂の創業者である伊藤雅俊氏はドラッカーと交友関係にあり、「ピーター・F・ドラッカー伊藤雅俊経営大学院」という、学校まで米国で創っている。

創業者である伊藤雅俊氏は、ドラッカーの実践的な経営スキルをより多くの人たちに理解してもらう為に、このような学校を創ったはずなのだが、肝心な自分の会社の一つであるセブンイレブン本部には、そのようなスキルを学ばせ、実践させてこなかった・・・ということになる。

これまで、企業には創業者の考え(「DNA」という表現をされることもある)が、その企業文化の中心となり、企業は成長していく、と言われてきた。
おそらく、セブンイレブンも「雇われ社長」が登場するまでは、そのような企業文化があったのかもしれない。
しかし、現在の「雇われ社長(=経営のプロと呼ばれる人でもあるが)」にとって、重要なことは目先の自社の売り上げ(=自分の経営手腕の成果だと信じている?)」であり、それ以外は株主から評価される材料は無い、と思っているのではないだろうか?
自分の成果を評価するのは、株主でありドラッカーの言う「企業を取り巻くすべての関係者」だとは、思っていないのだろう。

もちろん、このような考えはドラッカーのマネージメントを含む幾つもの著作の中には、書かれてはいない(はずだ)。
にもかかわらず、このようなことが起きてしまうのは「本に書かれていることは綺麗ごとで、理論はそうかもしれないが、現実は違う」という考えが頭にあるからではないだろうか?

ただ、一連の話の流れの中で「関西経済界からの批判」は、これまでの「ブラック企業大賞受賞」という話題よりも、セブンイレブンにとっては致命的な問題となっていく可能性は高い。
何故なら、批判をしている相手はコンビニオーナーと違い、政財界に影響を及ぼす人達だからだ。
このような影響力のある人達からの発言は、当然株主の考えにも大きく影響するだろうし、株価にも影響するだろう。

セブンイレブン本部は、これからどれだけ名誉会長である伊藤雅俊氏の考えを経営に反映させることができるのだろう?
それができない、と社会から判断されたときセブンイレブンの未来は、無いような気がする。