日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

自分にとって、共感できる情報を優先して認知し、固定化する

2020-10-13 20:49:17 | アラカルト

このところ毎日のように、メディアに取り上げられている「日本学術会議」の話題。
その取り上げられる内容の半分以上は、「日本学術会議」に対して厳しいような印象がある。

個人的には、内閣が任命を拒否した6人に対しての理由を明らかにすることが、何より先決のような気がしているのだが、肝心な話となると、「菅総理は、リストアップされた内容を見ていなかった」という話が出てきて、責任の所在そのものがあやふやになってきているような気がしている。

しかし、上述したように「日本学術会議」そのものに対する批判のほうが、多いような気がしている。
その一つが、フジテレビの解説者がニュース番組で話した「6年学術会議で働けば、学士院で年間250万円の年金が一生涯支払われる」という内容だろう。
Buzz Feed Japan:「学術会議で6年働けば、学士院で死ぬまで年金250万円」は誤り。フジテレビで放送、ネットで拡散

確かに突然「日本学術会議」という政府が会員となる研究者を任命するのに、政府に提言をする独立した団体の存在を知ると、「一体何をしている団体なのか?」という疑問に始まり、政府に提言を機関なら政府が任命拒否をしたらそれに従うのは当然だ、という考えを持たれる方が多いのも当然だろう。
だからこそ、「日本学術会議」に対して事実確認をしていないネガティブな情報を知ると、「やはり、怪しげな団体なのだ」と思ってしまうのだと思うのだろう。

尚且つ、今回任命を拒否された人たちの多くが、現政権に対して批判的な発言をしてきたという点が、クローズアップされ「政権に批判的な発言をしながら、国からお金をもらうなどとけしからん!」という気持ちを持った人たちにとっては、自分の考えと共感できる内容の発言やSNSでの情報は、受け入れられやすいだけではなく、認識として固定化されやすいように思われる。
だからこそ、「250万円の生涯年金」の後から出てきた、橋下徹氏の間違った「海外の学会は税金が投入されていない」という発言があり、「解体すべし」という考えに共感する人達がSNSで拡散するようになるのだろう。

この「日本学術会議」における様々な間違った情報について、ファクトチェック(=真偽の確認)がされ、訂正されてもSNSなどを通じて拡散し続けるのは、上述した通り「自分にとって共感できる情報は、優先的に認知され、それが固定化される」ということを、分かりやすく示していると思う。

それは今現在進行形の米国大統領選でも、言えることかもしれない。
トランプ氏の発言には、疑問な点が多くあり、トランプ氏の言う「アメリカン・ファースト」は「自分ファースト」でしかない。
しかし、「アメリカン・ファースト」を期待している人たちにとって、トランプ氏の発言はとても魅力的に思え、それに共感しトランプ氏への支持が固定化される、ということになっているのだ。
その中でも新たに「陰謀説支持者(今回の「新型コロナウイルス」は中国の陰謀である、というトランプ氏の発言を信じている人たち)」もまた、自分にとって都合が良い説明がされることで、共感をし「陰謀説」という荒唐無稽と思われるトランプ氏の考えを認知・固定化しているように思われる。

今回の「日本学術会議」を含む、様々情報についてBuzz Feed Japanがファクトチェックを行っている。
一度自分の得た情報が正しいのか、チェックをしてみると良いかもしれない。
Buzz Feed Japan:Fact Check.jp


ノーベル賞と京都賞

2020-10-12 23:33:51 | 徒然

今日発表された「経済部門」で、ノーベルウィークは終了ということになる。
今年は、「新型コロナ」の影響で、例年通りの受賞セレモニーは、中止となってしまった。

ただ毎年「ノーベルウィーク」が始まると、思うことがある。
それは世界的に「ノーベル賞の前哨戦」とも呼ばれている、「京都賞」に対する日本での注目が低いことだ。
稲盛財団:京都賞

「京都賞」というのは、京セラの稲盛さんが私財を投じてつくられた稲盛財団が運営し、「科学や技術、思想・芸術」の3つの分野に大きく貢献した方々に贈られる日本発の国際的賞で、海外からは注目されている賞でもある。
実際、「科学や技術」で「京都賞」を受賞した方々の中には、受賞後「ノーベル賞」を受賞された方々も少なくない。
日本人ノーベル賞受賞者でいうなら、「iPS細胞」の山中伸弥さんや「青色LED」の赤崎勇さんなどが、「ノーベル賞」を受賞される前に「京都賞」を受賞されている。

確かに「京都賞」そのものが、稲盛財団という個人財団による国際賞という点で、注目しにくいのかもしれないのだが、海外では高い評価を受けている賞なのだ。
それだけではなく、「京都賞」の受賞式典などでは京都在住の大学生たちをボランティアとして募集し、大学生たちにその運営の一端を任せている。
もちろん、授賞式などを運営・管理するのは稲盛財団であることには変わりないのだが、大学生たちが世界のトップレベルの研究者と直接会い・話をする機会を与えている、という点では知的好奇心を刺激させることになるのでは?と、感じている。
このような機会に恵まれた大学生たちが、次ぎの世代のイノベーションを生み出す切っ掛けとなるかもしれないからだ。

もちろん「京都賞」だけではなく、全世界には様々な国際賞がある。
数学の分野であれば「フィールズ賞」という、数学という分野における「ノーベル賞」とも言われる賞もある。
「フィールズ賞」は、40歳以下という若い数学者を対象であるということや、4年に1回しか受賞選考が行われないということもあり、日本人受賞者が中々でないという状況になっている。
他にも文学であれば「ブッカー賞」や村上春樹さんが受賞された「カタルーニャ賞」や「エルサレム賞」等がある。

毎年「ノーベルウィーク」が始まると、日本のメディアは「今年は日本人受賞者が何人出るのか?」と話題にするが、日本発の「京都賞」のような様々な国際賞にも注目して欲しいし、注目することで若い研究者たちの刺激を与えるような報道をして欲しいと思うのだ。

 


少し、着眼点を変えてみようー「新型コロナ」が変える発想ー

2020-10-10 20:01:15 | ビジネス

Yahoo!のトピックスなどを眺めていると、最近気づくことがある。
それは「ライブハウスでの配信」だ。
下北沢新聞:「下北沢GAEDEN」閉店へ 池尻に移転、ライブ配信中心に営業

ご存じのように「新型コロナウイルス」の感染拡大によって、大打撃を受けた業種の一つがエンターティメントだった。
その中でも「ライブハウス」と呼ばれる、小規模のステージでお酒などが楽しめる場所は、真っ先に打撃を受けた。
理由となったのが「換気が悪く、3密状態になりやすい」という点だった。
もちろん、夜の盛り場などもクラスター発生源とされたが、それよりもダメージが大きかったのは「ライブハウス」だったと思う。

そんな厳しい時期から半年経ち、サザンオールスターズの「オンラインライブ配信」等を切っ掛けに、様々なミュージシャンたちが「オンラインライブ配信」をするようになった。
「これまでとは違う音楽ライブ」ということになるのだが、オンラインでライブが楽しめるようになったことで、これまでライブに行きたくても行けなかったという人達に、ライブが楽しめるという「新しい環境」が提供されたということになる。

日本ではJ-Popと呼ばれるミュージシャンの「オンラインライブ配信」が中心だが、海外のクラシックコンサートのライブ配信なども技術的には可能なはずだ。
実際、メトロポリタン・オペラが「Nightly Met Opera Stream」の配信実績がある。
「コロナ禍」だからこそ生まれた、新しい音楽の楽しみ方が生まれているのだ。

もちろん、音楽を提供する側としては「ライブ=生」で楽しんでほしい、という気持ちがあるはずだ。
ただ今回の「コロナ禍」で、配信という方法でエンターティメントを届けることが、当たり前のこととなりつつある。
小規模のライブハウスなどが単独で「ライブ配信」をすることはできなくても、NetflixやabemaTVのようなネット配信メディアなどと協力することで、新しい音楽コンテンツができるようになるかもしれない。
あるいは、もっと手軽にInstagramやyoutubeなどを利用して、エンターティメント配信という方法もあるだろう。
当然のこととして、より良い環境で「オンラインライブ」を楽しみたい、という人達が出てきてもおかしくはないだろう。

エンターティメントの環境変化の中で中心になっていくのは、視聴するためのテレビ、ということになると思う、
家電メーカーは4K、8Kという高画質のテレビの製造に力を入れ始めているが、音響という点ではおざなりになっているような気がしている。
日本の住宅環境では、より良い音でオンラインライブを楽しむ、ということが難しいかもしれない。
住宅そのものについても、これまでとは違う発想が必要になるだろうし、リフォームというアイディアも出てくるかもしれない。

リモートワークなどが定着すれば、仕事をする場所は都市部のオフィスである必要は薄れていく。
リモートであれば、自分にとって居心地の良い場所であることが優先されるだろう。
確かにエンターティメントの一番の楽しさは、ライブ=生の演奏や舞台だが、様々なエンターティメントを気軽に楽しむのであれば、オンライン配信という選択があるという意識が生まれたような気がしている。

エンターティメントという切り口だけでも、様々な業種で新たなアイディアが生まれてくるはずだ。
既存の見方ではなく、今生まれようとしている新たな動きを探すことが「ポストコロナ」の社会へと繋がっていくのではないだろうか?




「認める力」って、何だろう?ー池袋暴走事故に思うー

2020-10-08 18:58:10 | 徒然

昨年、池袋で起きた高齢者が運転する自家用車が暴走し、11人の方々が死傷した事故の公判が、今日はじまった。
いわゆる「池袋暴走事故」と呼ばれるものだ。
朝日新聞:無罪主張の被告、遺族「無念向き合っていない」池袋暴走

この事故の争点となるのは、おそらく事故を起こした元官僚で通産省の工業技術学院の院長を務めてた被告が、この事故をどのように受け止めているのか?という点だと思う。
そして案の定というか、当人は「自分が事故を起こした」という、認識は持っていなかったようだ。

被告人である高齢男性は、事故当初から一貫して「車が勝手に暴走した」と、主張していた。
だからこそ「自動車メーカーは、高齢者も安心して運転できる車を開発して欲しい」という趣旨のことを言うのに、抵抗がないのだと思う。
何故なら、「自分の運転で事故を起こした」という、認識がないからだ。

ただ「認識がない」のではなく、「認識能力」が無くなっているのでは?という、気がしている。
それは「どのような運転をすれば、事故につながるのか?」というドライバーとしての認知能力の低下だけではなく、あらゆる物事に対して「自分の都合の良い方向へと、認知してしまっている」という状況にあるのでは?ということだ。

高齢になった人と話しをしていて、気づくことがある。
それは「都合の悪いことに対する認知力の低さ」だ。
特に、この事故を起こした高齢者のように、社会的地位の高かった高齢者ほど「自分の都合が悪いこと」に対して、一瞬のうちに忘れてしまうのか?認識力が無くなってしまう。
そのため「都合が悪いこと」に対して認知する力(=認める力)も、無くなってしまうのだ。
このような姿を見ると「自分が既に現役を引退し、社会的地位も無くなった一人の老人である」ということを、理解できていないのでは?という気がするのだ。
「理解できていない」というよりも「理解したくない」のでは、無いだろうか?
何故なら、「過去の社会的地位=自分のアイデンティティ」だからだ。
これまでの「社会的地位を失ってしまう=社会の中での自分の存在意義を無くす」ことが、怖いのではないだろうか?

この事故で盛んに言われた「上級国民」ではない多くの高齢者は、自分が高齢者となり、子や孫、社会のサポートを受けながら生活をしている、と認識しその中でコミュニケーションを図る努力をしている(はずだ)。
菅内閣が良く口にする「自助・共助」という関係は、このような関係の中から生まれてくるはずだ。

しかし事故を起こした高齢男性は、いつまでたっても「自分は社会的地位が高く、社会もそれを認めているし、家族やご近所もそのような付き合い方をしている=だから自分は社会的価値のある偉い人物」である、という潜在的認識があったのではないだろうか?
「『社会的価値のある偉い自分』の考えに間違いはなく、それに従わない方に問題がある」という認識が「事故を起こした」という認知力(=認める力)を拒んでいるように思うのだ。
とすると「高齢になればなるほど頑固になり、人の話を聞かなくなる」という説は、的を得ていると改めて感じるのだ。

とはいうものの、この事故で2人の親子が亡くなり、9名の方が重軽傷を負っている。
それだけ社会的地位が高いのであれば、それに似合うだけの金銭的賠償をさせることが、事故を起こした高齢者にとっても良いのではないだろうか?





ネーミングで大切なこと

2020-10-06 20:54:25 | マーケティング

讀賣新聞のWEBサイトを見ていたら、興味深い記事があった。
讀賣新聞:秋田の新しいコメ名称6案、県議は「インパクトない」・・・知事「腹を切る覚悟で決めたい」

興味深かったのは、ネーミングについて県議の方が「インパクトがない」と指摘したことだ。
確かに、生活者の印象に残るということは、新商品において大事なことだ。
だが「インパクト=強い印象がもたれる」ということが、その商品において、良いわけではない。
一番大切なことは、その商品イメージとネーミングが合致することだ。

今回の場合、秋田県で生まれた新しい品種のお米だ。
とすると、大切なことは
1.新しい品種である
2.秋田で生まれたお米
3.新しい品種のお米と旧来の品種のお米の違い
4.長く愛されるネーミング(親しみが持て、子どもや高齢者にも言いやすい)
等のことを、勘案する必要がある。

確かに一時期「インパクトの強いネーミング」が、重宝された時代があった。
だが、「インパクトが強い」だけでは、商品はロングセラーにはならない。
特に今回のような「お米」の場合、日本人にとっての主食という点では「ロングセラー」になる必要がある。
その一方で、今や「嗜好品」的要素が、強くなってきている。

「嗜好品」というと、意外に思われる方もいらっしゃると思うのだが、消費量の減少とは裏腹に「料理に合わせてお米を選ぶ」という人達が、少しづつ増えている。
それだけ日本人の食生活がバラエティに富み、様々な食材調達がしやすくなった、ということでもあるだろう。
だからこそ、料理に合わせたお米選びをしたい、という客層が生まれ始めているのだ。

しかも今は「お米=保存性の高い」という時代ではなく、生鮮食料品と同じような感覚で、10日程度で食べきれるだけの量をお米屋さんで精米してもらう、という方もいる。
背景にあるのは、お米の保存環境が住宅環境の変化に伴い、劣化しやすくなった(=お米に虫が付きやすくなった)り、逆に冷蔵庫を保存場所にして「美味しいお米を食べたい」という、需要が出てきているからだ。

とすると、他の品種や県外で次々と誕生しているお米の品種との差別化が、必要になる。
県議の方が指摘するように、「インパクトが強い」ネーミングは、確かに覚えやすい。
覚えやすいが、そのネーミングと秋田の新品種のお米が、結びつかなけらば意味がない。
例えば、新潟の佐渡でつくられているコシヒカリ「朱鷺と暮らす郷」は、名前を見ただけで「あ~~、新潟の佐渡のお米だ!」と、気づく。
それだけではなく「朱鷺が住むようなところなら、自然豊かだからお米も美味しいだろうな~」と、想像することができる。
青森の「青天の霹靂」というお米は、お米の食味ランキングで「特A」を獲得したことから、つけられた名前だという。
関係者にとって、それほど「特A」ランクを獲得したことが、驚きだったのだろう。
と同時に「驚くほどおいしいお米なのだろうな~」と、感じることができる。

商品のネーミングは、上述したように「インパクト」よりも、その商品について生活者が想像できることが、とても重要なのだ。


トランプ氏のイメージ戦略は、失敗だった?

2020-10-05 19:10:49 | アラカルト

先週末、米国のトランプ大統領が「新型コロナウイルス」に感染した、というニュースがあった。
トランプ大統領が、「新型コロナウイルス」の陽性反応が出る前、大統領のスタッフが感染したという報道があり、トランプ大統領への感染が懸念されていた。
そして、やはり!というか、当然というべきかメラニア夫人を含む、大統領周辺の人たちが「新型コロナウイルス」に感染していることが判明した。

当初、トランプ大統領はホワイトハウスの執務室で、仕事をしているという写真を公表し、「新型コロナウイルス」に感染しても大丈夫、私は問題ない、というアピールをしていた。
それから間もなくして、ホワイトハウス内で隔離治療となり、その数時間後ヘリコプターで陸軍病院へと搬送された。
陸軍病院で、どのような治療を受けているのかは不明だが、「酸素呼吸器をつける治療を受けている」とか「ステロイド剤を使用している」(後で、ステロイド剤による治療には、酸素呼吸器をつける必要があることが判明した)という報道もあった。

ところが今日になり、その陸軍病院周辺に集まってきた支持者向けに、黒いマスクをつけ、車から支援者に手を振るという、行動が報じられた。
それだけではない。米国時間の5日には、陸軍病院を退院する、という報道もある。
酸素呼吸器をつけステロイド剤を投与されるような患者が、数日で退院できるのか?という、疑問がある。
この分野の専門家ではないし、医療についての知識があるわけではないが、陸軍病院に運ばれてから2,3日で退院できるほどの軽い症状だったのだろうか?
とすれば「ステロイド剤」や「酸素呼吸器」の使用というのは、何だったのだろう?という、疑問が残る。

これまでトランプ氏に限らず、共和党の大統領候補は「タフ・強い」というイメージ戦略の選挙戦を繰り広げてきた。
レーガン大統領や、ブッシュ親子大統領などは、典型的な「強いアメリカ・タフなリーダー」というイメージ戦略をし、成功させてきた。
同じ共和党のトランプ大統領が、「強いアメリカ・タフなリーダー」というイメージ戦略をするのは、当たり前と言えば当たり前のことなのだ。

西部劇に出てきそうな「強いアメリカ・タフなリーダー」というアピールをすることで、トランプ大統領の「健康問題」を避けたいということもあると思う。
事実、ホワイトハウスで最初に受けたPCR検査結果が、陽性だったにもかかわらず公表をしていない。
それだけではなく「新型コロナウイルス」に関するトランプ大統領の発言は、事の重大性を理解しているとは思えないようなばかりで、「タフなリーダーである自分は、新型コロナなどには感染しない」とまで、言いそうな雰囲気だった。

しかし、トランプ大統領自身が開いた集会などで「新型コロナウイルス」のクラスターが発生し、自分も感染したとなれば、それまでの「タフなリーダーである自分」のイメージが、大きく崩れてしまう。
そう考えたからこそ、今日クルマに乗り、病院周辺に集まった支持者に「元気」アピールをする必要があったのではないだろうか?

だが、トランプ大統領本人の考えと社会的評価は、随分違っているようだ。
朝日新聞:「これは狂気だ」車列で外出のトランプ氏を医師が批判

おそらく熱狂的なトランプ支持者以外の国民は、批判をした医師と同じことを思っているのでは?
トランプ大統領とすれば、医師のいうことよりも、自分の支持者の前で「元気アピール」をすることの方が、大事なのだと思うのだが、このような無理やり「元気、タフなリーダー」のイメージ戦略は、成功したとは思えない。
何故なら、車の窓越しとはいえ、黒いマスクをしている姿は「元気」とは思えず、車列を組まされた運転手や護衛の人たちにまで、感染のリスクを負わせたからだ。
余りにも「自分」のことしか考えられない、リーダーはタフでも強いわけでもなく、単に人の話が聞けない我ままな人、というイメージを逆に与えてしまったのではないだろうか?
その意味で、今回の車列を組んでの一瞬の外出は、大統領選を前にしてイメージダウンになってしまった、のではないだろうか?





提案に対して、意思表示を示す時には「理由」を述べよう

2020-10-04 20:41:03 | アラカルト

今月に入って、話題となっている「日本学術会議」が推薦した新しい会員の内6人の任命を、菅内閣が外したという。
外された6人の内、東京大学の加藤陽子教授など、安倍政権に対して批判的と思われる人物が、含まれていたことで任命を外された方たちだけではなく、様々な人が「内閣の学術分野における締め付け」ではないのか?という声が、上がっている。
Huffpostには、日本学術会議についてと、任命されなかった6人の学者についての記事があった。
Huffpost: 「日本学術会議」任命されなかった6人の学者はどんな人?

内閣から独立した「日本学術会議」とはいっても、様々な提言を内閣に行うという関係から考えれば、総理大臣に任命権があること自体自然なことだと思う。
ただ、任命する・しないに関わらず、「何故任命をするのか?」あるいは「何故任命をしなかったのか?」という、説明はする必要があると思う。

任命されなかった6人の内、安倍政権や自民党に対して厳しい発言をされてきた方は、確かに含まれている。
その代表的な学者として、東大の加藤陽子教授ということになっているようだが、加藤氏の著作などからは「現政権に対する厳しい発言」というよりも、専門である日本近代・現代史という視点で、その時々の政治や軍などについての発言をされているだけのように思っている。
確かに、安倍政権では第二次世界大戦時のような思考を感じされるところはあったが、それと加藤氏の著書での指摘内容とは、違うような気がする。

加藤氏の任命拒否よりも気になったことは、今回任命されなかった6人の学者の内、3人が法学者であったという点だ。
「法学者」を排除したい、という菅政権の考えが、如実に表れているような気がするのだ。
安倍政権では、公文書などの隠ぺい・破棄などが公然と行われた。
「公文書」を時の政権で自由勝手気ままに隠ぺいや破棄をすることは、民主主義の根幹にかかわる問題なので、法学者であれば、当然疑問の声を上げるだろう。

それは保守・リベラルという政治思考の問題ではなく、「民主主義の基本」として問題提議をする必要があるだろうし、それを拒否する、ということは「民主主義」そのものを否定する、ということになってしまう。
そのことを安倍さん自身が、どれだけ理解していたのか不明なところだが、安倍さんの考えをそのまま踏襲しているとすれば、菅内閣もまた「民主主義を否定する」ということになる。
何故なら、自分の都合が悪いことを政治力を持って排除することは、「独裁政治」あるいは「全体主義」への道を歩むということに他ならないからだ。

より良い提言を内閣にするための機関だからこそ、その時々の内閣・政権の意思とは反する意見を聞くことが大切なはずだ。
自分の考えとは違うとか感情的に気に食わないという理由であれば、「多様な考え方」が世界的に求められている今には合わない内閣であり、政権である、ということを自ら示しているということになる。
そのようなことを菅総理はわかっているのだろうか?


HONDAのF1撤退は、新しいモータースポーツの始まりであってほしい

2020-10-02 21:16:28 | アラカルト

HONDAが来年の2021年を最後にF1から撤退する、と発表した。
日経新聞:ホンダ、G1撤退へ EV集中で来季限り

ホンダがF1という、モータースポーツの最高峰に君臨していた時代と言えば、バブル最盛期の頃だったかもしれない。
「鈴鹿にアイルトン・セナが来る」と決まった時などは、名古屋のホテルの予約が取れないという状況になったことを、覚えている。
そのセナが事故で亡くなり、ホンダもまたF1のレースで好成績を収めることが少なくなってしまった。
その後トヨタなどもF1に参戦する等しはずだが、絶頂期のホンダのような好成績を収めることは無かったように記憶している(私の記憶違いであれば、指摘して欲しい)。

日本の自動車メーカーがF1参加に積極的ではなかったのには、理由がある。
F1車というのは、市販される自動車とは全く別次元のものだ。
エンジンなどの開発費などにも、膨大な費用を要すると言われている。
F1に参加する、ということは本業である一般車というか自家用車の売り上げが伸びていなければ、負担が大きなことでもあるのだ。
にもかかわらず、積極的に参加してきたのは「F1エンジンの開発が、一般車両のエンジン開発につながる」という、考えがあったからではないだろうか?

しかしSDGsなどが盛んに言われるようになり、企業側も「創る製品と環境」という問題を取り組む必要が出てきた。
ガソリンを大量に使い、市販されることなく終わってしまうF1エンジンの開発は、企業側にとって大きな負担となるだけではなく、将来性という点でも期待できる技術開発では無くなりつつある、ということなのではないだろうか?

とすれば一時撤退などはあったが、ホンダのようなF1そのものを長い間支えてきた自動車メーカーの撤退が意味するところは何だろうか?
むしろこれまでのようなF1ではなく、水素エンジンなどを搭載した速さだけを競うレースではなく、様々な環境要素を含んだモータースポーツへの挑戦に繋がっていくのかもしれない。
ホンダのF1撤退は、その始まりのような気がしている。

F1に、大きな憧れを抱いていた本田宗一郎の夢を叶えるために、成長をしてきたHONDA。
その夢は、アイルトン・セナというカリスマドライバーの出現によって、叶えたような気がする。
とすれば今、本田宗一郎いるとすれば、どのような夢を抱くだろう。
SDGsに配慮したクルマづくりが求められる今だからこそ、新しいモータースポーツのステージをつくりたい、と考えるのでは?と思うのだ。
そしてその新しいモータースポーツのステージの中心に、新しいHONDAのクルマがあることを願っている。
(HONDA身贔屓なのは、私が子どもの頃、浜松で過ごしたかも知れない・笑)


ある女性シンガーの訃報ーヘレン・レディとI Am Woman

2020-10-01 15:34:40 | 徒然

1970年代に活躍した、女性シンガー・ヘレン・レディの訃報が飛び込んできた。
時事通信社:歌手ヘレン・レディさん死去「私は女」で全米1位

ヘレン・レディと言っても、彼女の名前と歌を知っている世代は、私と同世代の洋楽ファン位なものだろう。
既に、「過去の女性シンガー」といっても過言ではなかったかもしれない。
ただ、時事通信の見出しにある「私は女」という全米1位の楽曲は、今でもアメリカの人権に関するデモなどで、使われることが多い。
「私は女」というタイトルではあるが、今では「人権の歌」として、広く歌われる楽曲となっているのだ。

その理由は、歌詞の内容にも関係するのだが、やはり時代背景によるところが大きいような気がしている。
この楽曲が全米でヒットしたのは、1972年。
先の見えないベトナム戦争の長期化によって、反戦運動が若い世代を中心に起こり、時を同じくして起きた「公民権運動」と連動するかのように「女性の権利」を、女性たちが訴え始めた頃でもあった。
いわゆる「ウーマンリブ」という、運動だ。
そのような米国社会の中で生まれた楽曲が、「I Am Woman」だったのだ。

日本でヒットした頃、中学生だった私には「随分直接的なタイトルの楽曲だな~」という感じだった。
ただ、直接的なタイトルの楽曲が、全米No.1ヒットになるということに、米国の懐の深さのような自由さに憧れたのも事実だった。
その後、ヘレン・レディは週末の音楽番組の司会をするなど活躍をするのだが、米国でヒットする楽曲が変化し表舞台から去っていったような記憶がある。

それから40年以上の時間が過ぎ、再びこの「I Am Woman」が、全米に響くことになる。

LGBTQの人や、差別がなくならない黒人たちの人権など、クローズアップされ「生きる多様性と人権」ということが、叫ばれるようになったからだ。
この時には「Woman」というのは、女性という意味から「生きる多様性と人権の象徴」という意味に変化している。
あくまでも「Woman」という言葉は、多様な生きる権利を求める人達のキーワードなのだ。

2017年のロサンゼルスで行われた「Women's March」では、ヘレン・レディ自身がステージに立ち「I Am Woman」を歌っている(ヒットした1970年代のような張りのある歌声ではなく、認知症の症状も現れ始めているようにも思えるのが、残念だ)。
youtube:HELEN REDDY ”I Am Woman”

日本語訳となると、どうも勇ましい感じになってしまうようだが、
「これまで虐げられてきた中で、数多くのことを知り賢くなった。どれほど遠くにあるゴールでも諦めたりはしない。私たちは、強く負けない信念を持っている」
という内容の歌詞である、ということだけは知ってほしい。

果たして今の日本社会はどうなのだろう?
先日の杉田水脈氏のような発言が、女性側から出てくる現実は、ヘレン・レディが「I Am Woman」歌っていた頃から変わっていないどころか、遡るような価値観に変化していないだろうか?
ヘレンレディの訃報を知り、そのようなことを考えてしまった。